∇ 水曜日の水星 駅前のスーパーで買い物をすませ、帰路についたばかりの降谷と春市の髪や頬に、ぽつりぽつりとまばらな雫がこぼれる。まるで、この近所に住んでいるたくさんの人の中からふたりだけに的を絞って、時宜を見計らったかのようだった。 「……雨だ」 「どうする?」 秋の長雨、秋時雨。雫はどちらの前兆ともつかない。糸のごとく細くしとしとと降りつづく雨なら、このまま走って帰ったほうがいい。ひとしきり降るだけ降って晴れる雨なら、屋根の下に戻ってとどまったほうがいい。降谷と春市は、顔を見合わせた。それからどちらからともなく頷き、勢いよく駆けだす。きっとこれは、長雨。もうそうでなかったとしても、雨足よりも速く駆ければいいだけのこと。時雨だと決めつけてぼんやりとしているには、ふたりはまだ若すぎた。 見当はことごとく外れる。逃げる隙もなく雨はどしゃぶりになり、いまさら屋根を見つけるのがばかばかしいほど、水浸しになる。そしてそれはいっそのこと清々しく、悪いものではなかった。走ることをやめない身体は熱く、降り掛かる雨の冷たさが心地よい。どさくさに紛れて降谷が手を取るのを、春市は振り払わない。誰もの視界が滲むなか、手を繋いでいることはおろか、ふたりの行方すら気にする者はいないかのように思えた。すっかり色を変えた地面を蹴る、重くなった髪が鬱陶しくて首を振る、その度に水が跳ねる。同時に笑顔も跳ねる。 いつものアパートがいよいよ近づいたとき、あれだけ急いでいたのに、名残惜しさが浮かんだ。 「びしょびしょだね……」 「うん……あ、たまご割れてる」 「しょうがないよ。僕もりんごぶつけちゃったし」 玄関先に台無しのプラスチック袋を放り出す。すべりこんだ部屋は、雨から逃れひっそりと息づく隠れ家さながら。 「ね……」 「……うん」 扉のすぐ裏、靴も脱がないで、整いきらないおたがいの呼吸をたぐり寄せた。春市の両腕は降谷の首に、降谷の両腕は春市の背に、しっかりと結ばれる。触れあうくちびるや舌はひんやりとしていて、それでもちゃんと柔らかくて、場をわきまえずに溺れてしまいそうになる。一体なにに突き動かされているのだろう、酸素の回らない脳の隅ではちらつくそれさえ考えるのもままならず、足元の水たまりは広がるばかりだった。 「はぁ……っ」 「……っ」 濡れた衣服が体温を奪いはじめたせいか、はたまたこころが高ぶるせいか、肌がぶるりと震えた。貼りついている状態では、震えたのがどちらのものかもわからない。それがきっかけで口づけは解け、今度は鼻の頭をくっつけて、はふ、と息をつく。 「お風呂、入ろっか」 弾むささめき声がかわいくて、降谷は背に回していた手で腰を掴んで頑丈な肩に担ぎあげる。水の重さが加わってもなお軽い身体を重力に逆らわせるのは、なんともたやすいことだった。 抱えたまま、降谷のに比べればだいぶちいさなネイビーのキャンバスシューズを取り去って、玄関に転がす。廊下を歩いている途中、降谷の肩甲骨を覆うシャツを春市がぎゅうと握って、またいつもみたいに頬を赤くしているのだろうと見なくてもわかる。些細なことに恥ずかしがって赤くなるのは、たくさんある春市のすきなところのひとつだった。 たどりついた洗面所で、ときおりベッドの上でそうするように、じゃれながら服を剥がしあう。ボタンをたどたどしく外すかじかむ指先を掬いあげてひとつひとつに口づける降谷の、すこし気障な所作が似合わなくて、春市はくすくす笑った。 「どうしたの?」 「なんか痛そうだから……っっくしゅ」 「こんなのあったまればすぐ治る、ていうか今のくしゃみ?早くしないと風邪ひくね」 降谷はしかめ面で鼻をすん、と鳴らす。 「……ひかない」 「でた、負けず嫌い。ほらもう入るよ」 熱いシャワーから立ちのぼる湯気は、やがて狭い浴室を満たして湿らせる。温度差だけで表情をがらりと変える水は、ついさっきまでまみれていたものとは到底おなじに思えない。肌のうえではじけるようだったそれが、今はじわりじわりと染みこんでくる。心地のよさは共通しているが、こちらはほっと落ち着く類のものだった。 春市の、乾いているときよりわずかに色の鮮やかな髪のひと束に触れる。 「洗ってあげる」 「え」 「いいじゃん」 「僕の髪なんか洗ってたのしいの……」 「うん。たのしい」 降谷が自信満々に言い切れば、春市はおとなしく頭を預けた。背後に腰掛け、泡立てたシャンプーをまとった両手で優しくかき回す。細くしなやかな質の髪は、ひっかかることなく指のあいだをすり抜ける。 「気持ちいい?」 「ん、もうちょっと強くてもいいよ」 「これは?」 「……ちょうどいい」 おもむろに目蓋をあげた春市と降谷の視線が、鏡越しにぶつかる。 いっしょに生活をしていれば、春市の前髪の下に隠れた表情を見ることもそうめずらしくはない。それにしてもここまで隠さないのは、こういうときぐらいだ。 高校時代の寮生活、風呂に入るタイミングが重なることはしばしばあった。そのころもまた、髪を洗いふだんは見せない顔をあらわにする春市を、鏡越しにそっと覗き込んだ。気がつかれないようには心掛けていたが、たまに視線があってしまうこともある。なに。春市が目元を染めて気まずそうに問う。なんでもない。降谷は決まってぼそぼそと、そう返した。 当時よりもずっと気を許しているのだろう、鏡の中の春市はなにとは言わず、穏やかな表情で降谷の視線を受け止める。大きくてすこしつんとした双眸も、すっとした眉も、まるい額もきれいだと思う。もちろんいつも見えている鼻や頬、口元も。それから今は服に包まれていない身体も、全部。以前そのことを仄めかしたら春市は、降谷くんにもそういう感覚あったんだね、と感心する意外な反応を示した。言われてみれば、クラスのあの子がかわいいだの、テレビでみるあの女優が色っぽいだの、その手のよくある会話には積極的に参加したことがなかった。 いっしょにいるとなんだかあたたかい。降谷が、誰よりも春市と時や空間をおなじくしていたいと望むようになったのはきっと、そんなつかみ所のないことがきっかけだった。けれど基本的には五感に縛られて生きているのだ、目で捉えることのできる春市の存在に惹かれないはずがない。 「流すよ」 「……うん」 ふたたび目蓋が閉じる。 「ついでに背中も洗ってあげる」 降谷が背中を洗うあいだ、春市も手の届く自らの肌にスポンジを滑らせる。ふと、スポンジとは異なる感触が落ちてきて動きを止めた。 「今から字を書くから当てて」 どうやら降谷の指らしかった。 「いいよ」 指先がするすると走るくすぐったさに肩をすくめる。 「はい、終わり」 「エース」 「…………」 「簡単すぎ。書く前からなんとなく想像ついてたよ」 「じゃあ次」 するする。2問目は、だいぶ複雑だった。 「急にむずかしくなったね……何文字?」 「1文字」 「1文字?もう1回」 「……はい」 「ちゃんとさっきとおなじ字書いた?」 「書いたよ」 「うーん……やっぱりわかんない。降参」 「正解は、魚をくわえた猫でした」 「1文字って言ったじゃん」 「いや、だから魚をくわえた猫を……」 「描いたの?それって字じゃなくて、絵だよっ」 「……春市」 名前を呼ばれる。会話としてはうまく繋がらない、降谷の不器用な切り替えの合図だった。 指先がてのひらに変わった。それはおなじ滑らかさで体側をなぞり、前に回ってくる。心地のよい水にはなはだあまやかされた肌に、波紋がざわざわと広がる。うすい泡に包まれているだけで、日常的にくり返すシンプルな触れあいが、やたらに熱っぽくなる。恐らくおなじことを考えている降谷の速い鼓動が、いつの間にやら背中にべったりとくっついていた。一度はひいた波が不意に押し寄せ、今度こそ呑まれてしまう。 子供じみた遊びに興じていたはずの手が一転、特別な感覚を引き起こそうとするのを、春市は止めることができない。 おわり お風呂でいちゃいちゃさせたかっただけです。春っちの全開フェイスは各自想像を膨らませてくださいな。2012.10.15 main . |