秋の夜長 | ナノ

∇ 秋の夜長


 降谷は、春市に触れるのがすきだ。
 今すぐにぐしゃぐしゃに混ざり合ってしまいたいだとか、そんな大げさな理由にとらわれていなくても、なんとなく触れていたいと思う。たとえば、ぼーっとしているとき、無意識に春市を引き寄せる。春市はなにも言わずにじっとしている、すこし呆れたように息をつく、はたまた軽く身じろいでみせる。ときに、こてんと凭れ掛かってくる、ちいさく笑う。そのひとつひとつの振る舞いに、降谷はじーんとする。感覚器官をたずさえる身体だけではなく、目に見えないこころの奥にまであたたかさが染みこんでいく。
 ほんとうはいろいろなことを考えているのに、渦巻くたくさんの情報を意味のある音として正確に表現することが、なかなかできない。同時に、他の人が表現する複雑な音を聞きわけることも、なかなかできない。そんな不器用な降谷にとって、触れてみるという行為は、ひとつのストラテジーだった。
 人はみな、一定の距離を保ちつつ関わりあっている。もちろん、誰も彼もに触れていいというわけではないし、そうしたいとも思わない。中学時代までの降谷はむしろ、大きめの距離を取って人と接するほうだった。ついていけないと遠ざかるチームメイトを追いかけようとはしなかった。青道に入ってはじめて仲間と呼べる存在に出会った。それでも、触れてまでわかりあいたいと感じるのは、たったひとりだけだ。
 そして今日も、降谷は春市に触れる。眠りに就くまえの、密やかな時間。腕を回してくっついて、肩に鼻先をうずめる。マウンドでの降谷しか見ていない人には到底想像もつかない、子供のようにあまえる姿を惜しみなく晒す。
 耳のすぐ横で空気がひそひそと震えた。
「なに…?」
「………い」
「え、聞こえない」
「…気持ちが、悪い……」
「平気?」
 覗き込めば、春市はぶんぶんと首を振る。
「ちょっと、待ってて」
 キッチンの食器棚の、箸やスプーン、フォークが収納されている薄くてちいさな引き出しの並びに、以前春市が体調を崩したときに買った薬の余りがしまってある。降谷はひとつひとつの箱の裏面を読んで、吐き気、という文字があるものを探し当てた。オレンジ色のカプセルを1錠と、ミネラルウォーターを注いだグラスを春市のもとへ持っていく。
「これ…、飲んだほうがいいよ」
 ところが、春市はふたたび首を振る。
「そういうんじゃ、ないから」
「違うの…?」
「違う」
「……すぐ戻る」
 財布と鍵をスウェットのポケットに押し込んで、部屋を飛びだす。俯く春市を形作る線はいつもよりも細くて、長いあいだ放っておいたら、消えてしまいそうだった。元気のない春市が、元気になりそうなもの。知っている限りのことを思い出しながら、澄んだ空や輝く月には目もくれずに冷たくなりつつある風を切って走った。
 帰ってきて時計を確認する。よかった、あれからまだ10分も経っていない。春市も消えていない。白いプラスチック袋から、ごそごそと買ってきたものを取り出す。
「こないだ、春市がおいしいって言ってた…」
「シュークリーム?」
「…うん」
 ぶんぶん。
「違う…?」
「こんなんじゃないよ」
「…………」
 これくらいでは諦めない。スニーカーを履き直して、また走り出す。スタミナロールはとっくの昔に克服したのだ、息はまだまだ残っている。
 体力が尽きるまえに、春市を元気にするアイディアが尽きるのでは。その前に消えてしまったら。あるいは、沢村のようになにか面白いことを言って、春市を笑わせることができたなら。急にそんな余計なことを思って、降谷の焦りはますます膨らんだ。
 部屋に舞い戻る。今度は紙の平たい袋をごそごそする。
「春市がすきな作家の、新しい本…買ってきた。まだ読んでないって思って…」
「…………」
「もしかして、もう持ってる?」
 ぶんぶん。
「よかった。じゃあ…」
「でも、違う。これでもない」
「…………」
 再チャレンジだ、と駆け出そうとしたとき、パーカーの裾をぎゅうと掴まれた。
「物じゃないから」
「…だったらなに…?」
「なんにも欲しくないよ」
「…………」
 まるでなぞなぞだ。春市の嫌悪感を取り除くのは、物ではない。それどころか、なにも欲しくないという。
 こういう巧みな言葉を使ったやり取りは苦手だ。どんなに知りたいと願う相手でも、それはおなじだった。もっとはっきりと言ってくれないとわからないのに、春市は明言を避け、ぶんぶん首を振ることしかしてくれない。降谷は降谷で、焦りに胸をつまらせるばかりで、焦れったさをうまく言葉にして伝えることすらできない。
 春市にだけ許された、最終手段を使ってみる。ベッドに腰掛けている春市の前にひざまずいて、胸元にぎゅうぎゅうとしがみつく。ぐりぐりと顔を押しつけて、心臓の音に耳を傾ける。
 ふわり。指先が髪に触れた。
「ねえ…そんなに僕がいい?」
 こくん。胸に顔を押し当てたまま、しかしはっきりと頷く。細く息をつく春市の身体がちいさく震えていて、降谷はうずめていた顔をあげた。春市は笑いだしそうな、それでいて泣きだしそうな、不思議な表情をしている。
「だから気持ち悪いんだよ…」
「…………」
「なんにも欲しくない、の意味わかる?」
 ぶんぶん。降谷が首を振る番だ。髪に触れていた手が、肩を掴む。
「これ以上、なんにもいらないってことだよ。……まだわかんない?」
 こくん。
「もうなんにも失えない」
「…………」
「今が、…し、しあわせすぎて…気持ち悪い…!」
「……それって、だめなの?」
 ふふ。春市が、笑った。それだけがうれしくて、降谷は伸びあがってあたたかな頬に口づける。近づくくちびるに合わせて顔を寄せる春市の仕草に、つまっていた胸がべつの意味で締めつけられる。
「そう言うと思った」
「…………」
「ちゃんと意味わかってる?これからなんにも失わないなんて、ほんとにあると思う?僕たちまだ20になったばっかりだよ!?」
「知らないよ…僕占いの人じゃないし」
「無責任!!」
 消えてしまうのではと思うほど脆く泣きそうになって、それから泣き笑って、やっと笑ったと思ったら、すこし怒っている。今夜の春市はいそがしい。これ以上の怒りを煽らないように、できるだけの責任は取る。
「僕に、なにができる?…あ、占い以外で」
「じゃあ……だいじょうぶ、って言って。それでいっしょにシュークリーム食べて、本読んでよ」
「なんだ、そんなかんたんなこと…」
「でも、」
 降谷くんじゃなきゃだめなんだよ。しあわせすぎる反論は、口づけとともに飲み込んでしまった。だいじょうぶ、合間に何度も囁きながら、春市を抱いた。シュークリームを食べて本を読んだのはさらにそのあと。
 秋の夜は、長い。
 


おわり

一度失敗して書き直ししました。2012.10.09

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