∇ 雪が降る街 5日ぶりに帰ってきたアパートの部屋は相変わらずで、いまだ街にただよう新年らしさなどお構いなしだった。ごそごそと靴を脱いでくつ下越しに触れたフローリングは冷えきっていて、すでに寒風がたっぷりと染みこんだ身には毒だ。春市はとりあえず自室へ向かった。かばんをその辺に転がし、コートやマフラーは身につけたまま、背中からベッドにダイブする。留守にする直前に洗った寝具から、ほのかな洗剤の香りが舞いあがった。 年末年始はそれぞれの実家で別々にすごす。ふたりで話し合ったわけでもなく、高校時代からの流れで自然とそういう決まりになっていた。あの頃、青道野球部の厳しい活動も大晦日と三が日は完全にオフになり、いつも誰かしらがいる青心寮もそのときばかりは皆が帰省し、がらんと静まり返るのだった。高校を卒業してそれなりに自立した今も、やはり年に一度ぐらいは親に顔を見せるべきだろう。 春市の帰省は県境をひとつ跨ぐだけの、徒歩と電車の待ち時間を入れても2時間も掛からない、なんともお手軽なものだ。しかし降谷は違う。あと1、2時間もすれば戻ってくる彼はきっと今頃、遥か空の上で船を漕いでいる。 いっしょに暮らす降谷と春市が交わす連絡は、最低限のレベルに留まっている。とくに差し迫った用がなければメールも電話もしない。用に気がつくのはたいていが春市で、降谷が返すメールは、愛想どころか句読点すら含まない一語だった。"うん"、"ううん"、"8時"、"カニ玉"。 駅で別れてからこれまでに降谷が寄越したメールは2通。1通目は本文が、"今年はそんなに積もってなかった"で、除けられた雪が両脇でこんもりとしている道路の写真が添付されていた。そして2通目は、"食べてばっかりなんだけど…"。写真には、おせち料理、刺身、煮物などがそれぞれ大きな器に盛られてところ狭しと並ぶ、豪華な食卓が映っていた。肝心のあけましておめでとうはなかった。 連絡の頻度の低さや愛想のなさは、ふだんと大差がない。それでも春市には、恋しがってくれているサインに思えて仕方がなかった。降谷の故郷の積雪が少なかったことも、降谷が食べてばっかりいることも、すぐに知らせる必要がないことだ。こんな遠回しにしなくてもひと言、"会いたい"ぐらい伝えてくれてもいいのに。あるいは、降谷本人に自覚がなかったのかもしれない。 「…………」 コートのポケットから携帯電話を取り出して、送られた画像を改めて眺める。 そんなに積もっていないと降谷は言うが、除けられた雪は歩道柵が隠れるほどの高さがある。白に染まる太陽、凍りついた道。ほとんど雪が降らない場所で育った春市にとっては、じゅうぶんめずらしい光景だった。"これで積もってないっていうんだね…。こっちはこんな天気"。そんな本文に添えたのは、春市の故郷を見おろす赤い夕陽の姿だ。 降谷家の正月の食卓の風景には、フォークを握りしめるまだ幼いふっくらとした右手が映り込んでいる。親戚の子供だろうか。こういうのを垣間みると、降谷には降谷の家族がいるのだ、という至ってあたりまえの事実を思い出す。 自分自身についてすら多くは語らない降谷から、家族の話を聞いたことはほとんど皆無だ。知りたくないと言ったら、それはきっと嘘になる。ただ、どこまで踏み込んだらいいのかわからない、というのが正直なところだった。"おいしそう。うちのはこれ"、察しのよすぎる亮介が席を外しているあいだに素早く小湊家の食卓を撮影して送った。 「……わ、なにこれ」 フォルダを閉じようとしてはじめて、先頭に知らない画像があることに気がついた。映っているのは、こたつでうたた寝をする自分のふぬけた顔だ。寝ているのだから、当然撮ったのは春市ではない。誰が、なんのために。なにもかもが瞬時に読めてしまったような気がしたが、メールの送信ボックスをいちおう確認すれば案の定、身に覚えのない降谷宛のものが1通見つかる。"これでも見てさみしさ募らせとけば?"。 「あ、兄貴〜っ、もう勝手にへんなメール送って…」 さっき別れたばかりの亮介にひと言ぐらい文句を言ってもいいだろうとメールを作成していると、画面が急に着信中のものに切り替わった。降谷暁、の表示。 「もしもし」 『春市?今、羽田……』 「お疲れさまー」 『今から電車で帰る』 「うん」 『じゃあ後で』 電話を切ってから、新年の挨拶をしのがしたことを思い出す。今年最初の会話は、なんというか、あまりにもいつも通りすぎた。それが自分たちらしくて、春市は大人しくなった画面を見てすこしの間だけ、ほっこりとするのだった。明けてしまったものはもう362日先まで暮れることはないのだから、めでたくなくては困るし、今年もよろしくするのは確認しあうまでもない。 ようやっと身を起こしマフラーをゆるめ、コートのボタンを外した。まだエアコンもつけていないのに、不思議ともう寒くはない。 降谷が帰ってきたのは、それから1時間半ほどが経過したころだった。がちゃ、と玄関のドアが開く音を耳が敏感にキャッチして、リビングで騒がしいだけのお正月特番をぼんやりと見ていた春市の背すじはびくりと伸びた。自然に、自然に。意識してしまった時点でそれはもう不自然に分類されるのだが、指摘できる者はそこにいない。 「おかえり!」 気がつけば立ち上がっていた。すたすたすた。大きめのボストンバッグを肩から下げたまま、降谷は一直線に春市を抱きしめる。 「うん、ただいま……」 5日前のにおいを記憶し比べられるほど、優れた嗅覚はない。おおよそ先入観からくる思い違いなのだろう。そうわかっていても、見慣れたいつものコートに顔を埋めて吸いこんだ息に、知らない離れた土地のにおいが混ざっているような気がしてならなかった。 部屋で荷物を解く降谷の後ろ姿を、春市はベッドのふちに腰掛けて眺める。いわゆる再会の感動と呼ばれるようなもの(ぐらいにぼかさないと、恥ずかしいのだった)は、抱きしめられた瞬間に沸点を迎え、そしてすぐに蒸発してしまった。今はもうすっかり日常に戻り、リラックスしている。 「それで、どうだったの?ひさしぶりの実家は」 「変わってなかった……みんな元気だったし」 「そっか。よかったね」 「うん」 「なにしてた?」 「ふつうだよ。食べたり、テレビ見たり、近所の神社行ったり、食べたり…。春市は?」 「うちもおなじかなぁ。お正月ってどこも似たようなもんなんだね」 「お正月は知らない……。でも東京来てからびっくりしたことは、けっこうある」 「へえ。どんなこと?」 「うーん……」 動きを止めて考えていた降谷が、おもむろに振り返る。 「……今度、いっしょにくる?」 「え……」 「多分来たらわかる。僕が通ってた学校とか見てってもいいし。いい思い出ないけど……」 「…………」 「それに……母さんもいっしょに住んでる子がどんな子なのか気になるって言ってた」 「!」 ふたたび収納のほうに向き直り、実家から新たに持ってきた服を大儀そうに引き出しにしまう。とんでもないことを言い切った、といった様子はまったくない。リラックスはどこへやら、かたや春市は驚いた表情のまま固まっている。なんとか冷静を保っている脳みそのほんのちいさな一部分が、降谷くんも母親のことは"母さん"なんだ、などと考えていた。 「べつに嫌だったら来なくてもいいよ」 黙っている春市を誤解したのか、まったく不本意なことを言われて金縛りが解ける。 「え、あ、そんな……、い……いいの?ほんとに行っても……」 「だからさっきからそう言ってんじゃん」 「…………」 春市は俯いてふちに掛けた両手を握りしめ、フローリングをかかとで軽く蹴った。 「ずるいよ、そういうの。ずるい」 「……は?なんで……」 さすがに春市の様子がおかしいと気づいて、降谷がベッドに近づく。いつもよりもちいさく見える春市を、降谷の影が覆い隠す。目の前にぶらさがっている左手を握りしめて、揺らした。 「僕はそういうの聞いちゃいけないかな、とかちょっと遠慮してたのに」 「べつに隠してない……」 「じゃあ、聞くけど!降谷くんは、降谷くんのお母さんに似てる!?」 「そんなこと気になってたんだ……」 「た、例えばの話だよっ。そういうのも聞いていいのかなって……」 「うん。似てるって言われる。でも、母さんは背は高くない」 「きれいな人なんだね」 「ふつうのおばさんだよ」 おばさん、とか言うのがおかしくて、思わず顔をあげてしまった。降谷はいつもの仏頂面だ。根拠はどこにもなかったが、この仏頂面は父親譲りなのではないか、と閃いたら、またおかしくなった。 「……春市」 「ん?」 「コンビニに肉まん買いに行こうよ。お腹すいた……」 「なんで肉まん……」 「東京帰ってきたら寒くて、そういうものが食べたくなった」 「なに言ってんの、北海道から帰ってきたばっかりのくせに」 「うーん…。寒さの種類が違うって言えばいいのかな……」 「…………」 「それも来たらわかるよ」 「……うん」 降谷の空いている右手が、左手を掬いあげる。十の指を組んで、腹の虫が鳴くまで見つめあっていた。 おわり マッカさんのすてきなイラストから派生した話。結局肉まん…。降谷くんがしゃべりすぎて降谷くんではない。2012.10.01 main . |