ひとめぐり | ナノ

∇ ひとめぐり


 春市が再度目覚めたときにはもう、日はずいぶんと高くなっていた。背を少しまるめて両の腕と脚をぐっと伸ばし、欠伸ともとれるような深い呼吸をすれば、新しい朝にさっぱりと満たされる。
 肩甲骨のあたりに触れているもうひと組の肺は、穏やかな律動をくり返している。真ん中の、生命活動の源も然り。しばらくのあいだ、平和でいて活気に帯びたそれらの音と温度に身を委ねた。わずかな動きひとつ許さないと言わんばかりにきつく巻き付いていた長い腕は、今やすっかり弛緩し、まるで名残のように、右手だけが春市のスウェットのウエストに引っかかっている。春市は、その手に自らの右手を重ねた。そっと持ち上げて、緩い拘束を外す。ブランケットに冷たい空気が入り込まないよう静かに抜け出して、ひたり、ひたり、忍び足でバスルームへと消えた。背後にいるその人を振り返ることはない、というよりできなかった。
 ありあまる睡眠を吸収した身体は健やかで、痛むところなどどこを探しても見つからない。あんなに余裕をなくしてこころを逸らせていた降谷は結局、ひたすらに優しく春市を抱いたのだろう。そう思い至って、頬が熱くなる。降谷の寝顔はおろか、脱衣所の洗面台の鏡に映っている自分自身の顔すらまともに見られない。
 いつもよりも高い温度のシャワーの湯を肩から滑らせる。余計な考えなどさっさと排水溝の渦に巻き込まれて流れてしまえばいいのに、昨夜降谷が拭ったらしい体液がふたたび水分を含んで下腹の肌をぬめらせたりするから、それは頑固に脳みそにこびりついたままだ。ボディソープを泡立てたスポンジで、念入りに洗う。ところがボディソープだと思っていたそれはシャンプーだった。そして髪はボディソープで洗っていた。そんな常なら決してすることのないちいさな間違いに、春市は気がつかなかった。
 身なりを整え、キッチンに立つ。透明のプラスチックのボウルにたまごを4つ割り入れ、少量の牛乳と塩こしょうを加え、軽くかき混ぜる。バターロールと黒糖ロールをふたつずつ、トースターに並べてダイヤルをぐるりと回してから、ボウルの中身を熱したフライパンに注いだ。スパチュラを片手に、たまごにある程度が火が通るのを待つ。慌ててかき回さないほうが、ふんわりしたスクランブルエッグができあがるというのは、わりと最近の発見だった。
 やっぱり最初のひと言は、おはよう、でいいのだろうか。ああでもその前に起こさなくてはいけない。降谷くん、起きて。それとも、朝だよ。それとも、朝ごはんできたよ。いつもなんと声を掛けていたか、思い出せない。そもそもまだ週末なのに、起こす必要などあるのだろうか。自然に目覚めるまで寝かせておいてもいいのではないだろうか。だったらなぜ、今ふたりぶんの朝ごはんを作っているのだろうか。あの、たった触れるだけの口づけに迷い込んで以来、いつものなんでもない週末はどこかへ行ってしまった。
 もしも昨日の夜、なにかが変わっていたのだとしたら。降谷と春市は、とうとう一線を越えた。生産性が一切ないにしても、あれは紛れもなくそういう行為だった。この世で降谷しか持ちえない遺伝子は薄いゴム越しに、春市の中ではじけた。それは、これまで少しずつ慎重に積み重ねてきたなにかを劇的に変化させてもおかしくないような、鮮やかなショックをふたりにもたらした。少なくとも春市はその瞬間、ほんのひとひらの意識すら保つことができなかった。今だって、こうして。
 ふと、鼻先をへんなにおいが掠めた。
「あ……!」
 フライパンの形のまま固まったたまごが、焦げている。スパチュラを使って確認すると、底の部分は真っ黒で、もうおいしく食べられる状態ではない。こんな失敗ははじめてだった。引っ越してきた当初から、朝ごはんのたまごぐらいは問題なく料理することができたのに。仕方なく、火から下ろしたフライパンをシンクに置き、スクランブルされていないたまごごと、水道水で冷やす。じゅう、と冷たいものと熱いものが反発しあう音がして、もくもくとうす灰色の煙があがった。
 あーあ。無駄になった料理を見下ろしながら、溜め息をつく。シンクとは別の場所から煙があがっていることに気づいたのは、その数秒後だった。
「えっ、うわー!」
 トースターのロールパンまで、真っ黒焦げだ。


***


 降谷はうつらうつら、微睡んでいた。淡い夢に浮きただよう心地で、回想に耽る。
 なにもかもがはじめてだったわけではない。これまでに交わした口づけや抱擁は数知れないし、いっしょに暮らすようになってからは、ひとつのベッドで眠るようになった。最近では、あたたかいブランケットの下、お互いの素肌に触れ、それだけでは飽き足らずに慰めあうようにまでなっていた。引き返すわけにはいかないぐらい、ふたりの仲は既に深まっていたのだ。それでも、あんなに感じる春市を見たのは、はじめてだった。
 染まった白い肌の吸いつくような柔らかさも、溢れた汗や涙のしょっぱさも、絶え間なく耳をくすぐった声のあまさも、そっくりそのまま記憶に焼き付いている。それらはこの世で降谷だけが引き出し、享受できるたからものだ、という自覚は存分にある。
 果てる瞬間、春市は伸ばした両腕で降谷の首に懸命に縋り、切ないほどのいとおしさを含んだ響きで名前をひとつ、こぼした。余韻とともに、ぴったりと合わさった腹のあいだを春市の放った遺伝子が伝うのを感じていたら、首に回る腕の力がかくんと抜けて、降谷はそれはもうひやりとしたのだ。慌てて顔を覗き込めば、春市は満たされた表情で眠っていた。睫の先にきらめくひとしずくの涙を軽い口づけで拭う。情交を結んだ後にともなう独特の気だるさにふわふわとしながらも、必死に求めた身体をきれいにして、新しい服を着せるその過程で、降谷はわき上がる実感とよろこびに身を竦ませた。ちょうど真夜中のことだった。春市はこのあたりのことを詳しく知らない。
 まさにその人を抱きしめたくて、ようやく降谷は目蓋を開いた。
「あれ…?春市…?」
 しかしとなりのシーツは虚しい空白だ。心地のよい微睡みが、一瞬で醒める。あんなことがあった翌日だというのに、そわそわ不安になって、ブランケットを蹴飛ばしベッドを飛び降りた。リビングへ繋がる引き戸を勢いよく開く。
 ドアの向こう側は煙が立ちこめていた。なにかが焦げたにおいがする。
「春市?」
 降谷の声に反応して、キッチンの前でばたばたしていた、ぼやけるシルエットがぴた、と固まった。
「〜〜〜っ!」
「なんか焦がした?」
「…あ、うん!たまごとかパンとかをさ、いろいろ…」
「怪我、してない?」
「うう、う、ううんべつに!だいじょうぶだよ」
 シンクの淵を掴んだまま、春市は後ろに立っている降谷のほうを向かない。ベッドにひとりぼっちにした上に、顔も見せてくれないあんまりの態度に拗ねつつ、今にも消えてしまいそうな煙の中の背にすたすたと近づき、無言で抱きしめる。胸元に回した腕にぎゅうぎゅうと力を込めて、さらりとした髪に頬を擦り寄せた。
「わっ」
 あれだけ深く繋がったにも関わらず、それだけの触れあいで、春市は跳ね上がる。腕を緩めた。
「こっち向いて」
「…………」
 聞こえなかったのかと思うような長い間があった後、ついに春市は腕の中でもそもそと身体の向きを変えた。なにかを言おうとした口がぱくぱくして、頬がかぁぁ、とみるみるうちに赤くなる。そうか、ベッドから勝手にいなくなったのも、顔をなかなか見せてくれなかったのも、昨晩のことを恥ずかしがっているからだったのか。なぜそんなに恥ずかしがるのだろう、あんなにかわいかったのに。いつもの涼しい顔で見とれながら、降谷はそんなだらけきったことを真剣に考える。
 向き合って、ふたたび強く抱き合う。顔が見えないからこのほうが好都合だと考えたのか、春市もためらわずに身を寄せてくる。さも所有しているかのように、腕で囲う。
「…僕の…」
 むしろ所有しているのだ、と降谷は主張してみる。目的語は抜け落ちていたが、それは火を見るより明らかだった。
「……僕の、」
 やがて、くぐもった声でおなじ台詞が返ってきた。おなじ台詞でも目的語が違う、降谷のと対になる意味合いを持っている。恋人同士のたわ言だと笑う者は、ここには誰もいない。だからしばしそのまま甘美な会話のもたらす酔いに浸かっていた。日食で見られるような、完璧な環が頭の中に浮かんだ。
 ほとぼりが冷めた頃、春市がぽつりと呟く。
「朝ごはんどうしよっか…」
「作るの嫌になった?」
「そういうわけじゃないけど、たまごは全部使っちゃったし、パンももうふたつしか残ってないんだよね」
「あー、大失敗だね…どんまい」
「大失敗って…、引っ越してきた最初の日の夜覚えてる?降谷くんキッチンめちゃくちゃにしたじゃん。こんなもんじゃなかったよ」
「そんなこともあったっけ…」
「あったよ」
「じゃあ、今からスーパー行く?」
「うーん…」
 ぐるるる。降谷の腹の虫が盛大に鳴いて、春市はちいさく吹き出した。
「そんなに待てなそうだね。たまにはどっかに食べに行こっか」
「そうだね」
「てゆーか降谷くんまだ寝間着じゃん。早く着替えてきなよ」
「うん…」
 そして大切に積み重ねてきたものはなにも変わっていない、ということを知る。いつもの週末がここにあって、微笑んでいる。



おわり

むずむずしてくださっていれば本望です…。台詞の割合少なくて、読むの疲れますね。2012.09.19

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