∇ ルーペ 午後のいちばん強い光のせいで、空気に踊る無数の塵がきれいに見える。クリーム色のもこもこのラグの上に置かれたミネラルウォーターのグラスがプリズムの代わりを果たし、影と引きかえにちいさな虹を描く。なにも知らない春市がおもむろに手に取りはんぶんほど飲んだとき、繊細なそれはどこかへ消えてしまった。 うつぶせに寝転がって本の世界に迷い込んでいる無防備な背中に、ひまな降谷はそっと人差し指を伸ばす。背骨のでこぼこに沿って一気に撫であげれば、緊張が走った身体はほんのわずかに浮きあがり、まとっている服からは新たな塵が舞った。あまりの出来事に声をあげることもできないで肩を震わせているのを傍観しつつ、どんな感覚だろう、などと降谷はのうてんきに想像を巡らせる。ソックスに包まれるちいさな足の裏のくぼみにも指先を伸ばし躊躇の末に引っ込めたのは、グラスとラグの運命にとっては、めずらしく賢明な選択だった。 くすぐりの衝撃から立ち直った春市が、きっと振り返る。 「なにすんの、急に」 「こっち来て」 「最初っからふつうにそう言えばいいじゃん……」 かりそめに機嫌を傾け、わずかに唇を尖らせつつ本を伏せる。すぐ側に寄ってきた春市の顎を掬いあげ、じっと見つめる。あ、キスされるのかな。そんな風に意識したのが伝わってくる。ついさっきまで、物語に注がれていた興味を攫う。 顎に添えていた手をすべらせる。柔らかな感触を追いかけて輪郭をなぞり、さらには温度の差がなくなりできるだけ馴染むよう、てのひらのぜんぶを頬にぴたりとくっつける。もう片方の手で顔にかかる髪を優しく横に流せば、じかに見つめあうよりも早く、まぶたがふんわりと閉じた。ごく自然な角度で上を向く睫毛の先が、こまかく震えている。髪とおなじ淡い色のそれはどこかほやんとしていて、強い虹彩が隠れている今、なんともあどけなかった。 髪の生え際に鼻先を寄せる。居心地が悪そうにちいさく身じろぐのも構わず、ほっとするにおいのする空気を吸いこみ、やっと離れる。額に口づけが落ちるとすっかり期待していたのだろう春市が、不思議そうに薄くまぶたを持ちあげる表情に、降谷のこころはざわつく。 頬の延長線にある、耳に触れる。耳朶のひんやりとした温度を摘んでみたり、縁のまるい形を辿ってみたりしているうちに、眉根がひそかに寄った。目元のうすい皮膚の下が、わずかに色づく。 焦れた春市が、とうとう口を開く。 「するなら早くしなよ」 「なにを……?」 「いいよもう」 本に戻ろうとするのをすんでのところで引き止める。 「ごめん、今するから……行かないで」 キスの前触れにしては長すぎる時間、じっと観察していたこのみの顔を両手で包み、自分のそれをゆっくりと近づける。ようやく、くちびるを合わせた。いよいよ本格的に赤くなっていく頬を間近で見届けてから、降谷はついに視覚を諦め、そうすることでしか得ることのできない感触に溺れた。 おわり とにかくしつこく細かく、ひとつのキスを書いてみたかったのです。2012.09.12 main . |