数学I | ナノ

∇ 数学 I


 生徒たちの憂鬱もなんのその、期末テストが明日からはじまる。しん、と静まり返る放課後の廊下を春市はたったひとりで歩く。いつもは聞こえない、ささいな風に窓が震える音や靴の底がリノリウムを叩く音は、ただよう寒さをはっきりとさせるだけだった。無意識のうちに首をすくめ、ぐるぐる巻いたアイボリーのマフラーに口元をうずめる。すっかり暗くなったガラスになんとなくさみしい横顔が映る。
 こんな時間まで部屋ではなく敢えて図書館の自習コーナーで勉強をしていたのは、単なる気分転換だった。部活動では何度も助けられている同室の前園もテスト関係のことではそこまで当てにならないし、たまにはひとりっきりになるのもいいような気がしたのだ。事実、勉強ははかどった。これまでうやむやにしていたsinとcosの式も、今ならちゃんとわかる。かたや降谷はきっと、いまだにちんぷんかんぷんだ。sin (α ± β) = sinαcosβ ± cosαsinβ。まるで暗号の公式を前にして居眠りに逃避する彼の姿がフルカラーで思い浮かんで、こっそり笑った。
 おなじクラスではあるが、沢村の面倒を見る金丸のように春市が降谷に対して振る舞うことはあまりなかった。誰かに頼まれたわけでもないのにこちらから提案するのは、どこか押し付けがましくて気が引ける。かといって、まわりの人に頼ってでも理解しなければと奮起するほど、向こうにもやる気がない。いっしょに勉強しよっか。こんなに短くて単純なひと言がなかなか出てこない。
 それでも、寮に戻る前に寄った教室、1日目の試験科目のひとつである数学の教科書が降谷の机の真ん中に堂々と置き去りにされているのを見つけてしまっては、春市も動かずにはいられない。勉強をしようと思い立てば、教科書がないことになんてすぐに気がつくはずだ。それなのにこれがまだここにあるということは、降谷はまだ公式の意味はおろか、ちんぷんかんぷんであることすら知らないということだ。それってもう笑えないよ、ちいさく呟きながら、かばんの中にかわいそうな教科書を迎え入れる。
 昇降口から見上げた空は、ぱらぱらとまばらなみぞれを落としている。わずかな逡巡ののち、どうせ数分、と意を決して飛びだした。自然と肩は縮こまり、駆け足になる。目指すのは、馴染んだ部屋からほんの少しだけ離れた、誰かさんの部屋。

 ノックをする前に、ドアの横に下がっている名札を確認する。そうしなければ心配なほど、ここにはめったに来ない。グラウンドでも教室でも顔を合わせる日々の中で、降谷をわざわざ訪ねる必要がでてくることはほとんど皆無だ。
 いっしょにいない時間のほうが短いぐらいなのになぜか、会う必要がなくても会いたくなるときが、ときどきある。しかしそういうときは決まってふたりっきりになりたいときだから、ルームメイトがいるこの部屋が選ばれることはない。ふたりっきりって。スムーズに流れかけた、自分の思考を一時停止&巻き戻しして、考え直す。なんかへんだ。
 勢いに乗せられて走ってきてしまったけれど、もしかしたらここにはいないかもしれない。急に心配になって、なんのために来たのか、よくわからなくなった。降谷が忘れた数学を届けるため、さっき見た顔を見るため、やっぱり数学、数学。ああどきどきする。かじかむ手を丸めて、弱々しく叩いてみる。
「……はい」
 薄いドアの向こう側から確かにあの人が答えた。それからごそごそして、ノブが回る。
「小湊くん…」
「教科書置きっぱなしだったから持ってきたよ。まだなんにもはじめてないんでしょ?」
「あー……、うん」
「もうテスト明日なのにどうすんの。範囲の三角関数?だっけ、けっこうむずかしいよ。サインとかコサインとか…」
 小言みたいでいやなのに、ここに来た理由を深読みする隙を与えたくなくて、余計なことまで口にしてしまう。降谷の背後の床にはボールが転がっている。寝そべって、天井に向かって投げていたのかもしれない。それ以外には、なにも見当たらない。ルームメイトがいない。
 ふたりっきり。ちらついてどきりとするのと、抱きすくめられるのは、おなじタイミングだった。
「小湊くん、冷たい…」
「…雨、っていうかみぞれ…が、降ってたから…」
「………」
「そんなことしてたら濡れるよ…」
「………」
 得意の無視は、いつものつーんという擬音がつくには優しすぎる。髪に鼻先をうずめる降谷が、すん、と息を吸うのがわかってもっと緊張する。ブレザー、セーター、シャツ、着込んだ衣服をかいくぐって、体温が侵入してくる。
「…降谷くんは…あったかいね」
「しばらくここにいたから…」
「勉強しないで、ボール投げてたもんね…?」
「……うん」
「はは。しょうがないなぁ…」
 温度が混ざってくしゃくしゃになるまで、そうしていた。地面にまっすぐ向く全体重のうちのわずかな一部を預けて凭れれば、受け止める腕はよりいっそう強くなる。心臓が動く音に耳を傾ける。なぜ、こうされているのだろう。なぜ、こうしたいのだろう。相変わらず、言葉が足りない。
 欠けているそれを補うため、だったのかもしれない。
「降谷くん…」
「?」
 肩に手を掛け、思いきって踵を浮かす。大切なことをなにひとつ形にしてくれないくちびるを、自分のくちびるで塞いだ。奪うのは、瞬く間の呼吸と思考。はじめて触れるそこは、思ったよりもずっと柔らかい。離れたとき、雨のにおいがした。
 見開いた双眸に、してしまったことの重大さ思い知る。
「あ……わっ…あのっ、えっと…っ」
「………」
「えっと、えっと…(うわぁぁ、どうしよう…っ)」
 頬がどんどん赤くなって、目眩までしてくる。降谷の腕は依然として背中に回ったままだったが、もう怖くてすぐ近くにある顔が見られない。さっきのは、いわゆるキスだ。春市はいきなり、降谷にキスをしかけてしまった。びっくりするのは当たり前だ。しかけたほうの春市だって、今になってびっくりして慌てふためいて、もうどうしたらいいのか考えることすらままならない。
 いっそのこと蒸発してここから消えてしまいたい。舞いあがりっぱなしの熱にすっかり翻弄される春市を、どうにか繋ぎ止める。
「小湊くん…」
「…なに?」
「今の…」
「………」
「もう1回…して」
「なにがっ」
「だから今の…」
 思わず見上げた降谷の表情には、野球をしているときの精悍さは影も形もない。どちらかといえば、日常生活でよく見かけるぼーとした表情に近いような気もするが、それともまた違う。惚けているのかもしれなかった。そういえば触れている心臓が、さっきよりも忙しなく動いている。
「もう1回…」
「〜〜っ。や、やだ…っ」
「………(がーーん)なんで…」
「……今日のぶんはもう…終わった、から…」
 1日限定20個販売のケーキみたいになってしまった。今日のぶん、明日のぶん。まるでこれから毎日するみたいな台詞が恥ずかしい。大失敗の言い訳にうつむこうとするより一瞬早く顎を掬われて、希望は叶わなかった。
 背伸びをするまでもなく、今度は降谷が顔を寄せる。
「じゃあ、僕がしても…いい?」
「え…っ、……うん」
 2度目は、少し長かった。

「あぁぁ、明日からテストかー!身体動かしたりねえっての!」
「普段の練習のときはひいひい言ってるくせによく言うぜ!テストの準備できてんのかよ?」
「まあそれなりに」
「わかんないとこあったら、お互いメールしようなー」
「おー」
 乱雑な足音とともに、先輩たちの会話が近づいてくる。
「「!!!」」
 くちびるの余韻に酔って凭れあっていたふたりの身体は、はじけるように離れた。玄関に放ってあったかばんから覗いている、教科書に記憶がさかのぼる。
「そうだ…、数学っ。降谷くんまだなんでしょ?いっしょに勉強しよっか?」
「いいの…?」
「もちろん!」
 あたふたと靴を脱いでいたら、降谷のルームメイトが帰ってきた。たった今までここでなにが繰り広げられていたのかもつゆ知らず、こいつどうにかしてやってくれよ!と気さくに声を掛けられて、ほっとする。
 ひとつの教科書の上で顔が近づくたびに、あの感触を思い出してぎこちなくなるのだけは、どうしようもなかった。



おわり

赤点決定ー!降谷くんのルームメイトは誰なんでしょう。2012.09.02

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