∇ 四月の蜃気楼 アパートの階段をあがりながら、降谷はジーンズの右のポケットに手を滑らせた。指先にぶつかる金属を引っぱりだし、2階の廊下の端、角部屋のドアに差し込む。玄関にはサイズの異なる靴が何組か転がっていて同居相手が帰っているのか即座には判断しかねるが、それでも一応、届かないほどの声量でただいまと呟く。一連の行動は、じゅうぶんな回数くり返されたために、自然かつ穏やかである。 自室のドアを開けてすぐの床にかばんを放り、キッチンとダイニング、リビングが集まる空間へと足を向ける。冷蔵庫から取り出した1.5リットルのスプライトのペットボトルに直接口をつけて、残り少ない中身を飲み干した。ゆるい炭酸がだらしなくはじけて喉を伝う。あまったるさに顔を顰めつつ振り返れば、よく見知った背中が目に留まる。 「小湊く…」 呼びかけて、口を噤む。ローテーブルの上に組んだ両腕に片頬を埋め、春市は浅い眠りに揺られている。気持ちばかり開いた窓から忍び込む4月の終わりの風にふわりゆらりと波打ち舞うカーテン、ついさきほどまで読んでいたのだろう傍らに置いてある本のページはぱらぱらと捲れる。おなじく翻弄される髪は柔らかくて優しい。夕暮れに散るオレンジの粒子が日だまりを落とす。まるでそこだけ時が違う速さで流れているようだった。寸分の狂いもなく調和の取れた光景に、降谷の視線はしばし自由を失う。 壊さないよう、忍び足でそうっと近づく。すぐ隣に腰を下ろし、テーブルに肘をついて覗きこむ。翳ったことで呼吸が変わってしまわないか、そんな些細なことにみだりにどきどきするも、ほんのわずかに開いていた唇が結ばれたぐらいで、杞憂に終わった。ならばと、手を伸ばす。そうっと、そうっと、髪を梳いてみる。指のあいだをこぼれていく様子を見つめながら、自分にはこんな色は似合わないな、と今さらながらに考える。 漂う非現実的ななにかが、そうさせたのかもしれなかった。気がつけば、呼びかけた名前がまた、ひとりでに浮かんでいた。 「春…………」 耳慣れない響きに我に返り、はっとする。 彼の兄の亮介や沢村が、下の名前で呼ぶのを何度も聞いてきた。かたや降谷は、チームメイトに留まらずクラスクラスでもあるのに、そしてなにより恋をしているのに、ずっと小湊くんだった。沢村のように、いきなりあだ名で呼べるような人懐っこさや積極性はない。元々のライバル関係も相俟って認めるのは悔しいが、長いこと羨んでいたのだ。しかし実際に口走ってみると、照れくさくて気まずい。 小湊も春市もおなじ人物を指す言葉だが、感じる距離には天と地ほどの差がある。 「…………市」 溶けだしてしまいそうな音量でなんとか言い終えたとき、春市の肩がちいさく震えた。それだけは収まらずに、とうとうくすくすと笑いだす。 「それじゃあ、春と数字の1だよ」 「聞いてたんだ……」 「うん、ばっちり!」 髪を梳くあいだに、うたた寝から醒めていたらしい。だったら早く言ってくれればよかったのに、唇を尖らせる降谷の髪に今度は春市が触れる。まるで幼い子供をあやすように、もしくは褒めるように、ぽんぽんと撫でられる。 「もう一回聞きたいなぁ」 「春……市」 「あはは」 あともうちょっと、と言う春市はすっかり楽しそうである。いつもは内側に秘めているはずの感情が表面に滲んでいる気がして、居心地が悪い。降谷は目を伏せて、すぐそこの床に横たわっているかもしれない時空の歪みを探した。 「あの時の降谷くん、かわいかったよ」 「……うれしくない」 季節はくるりとひと回りした。あの時とおなじ仕草で、春市が微笑む。ぬるい缶ジュースを片手に、バルコニーの手すりにもたれて夜風に吹かれている。思い出話ぐらいは咲く。 「大体なんで春市はまだ僕のこと降谷くんって呼ぶの?」 「それは、」 「沢村くんのことはずっと前から下の名前で呼んでるくせに……ずるい」 「栄純くんはほら、友達だし。降谷くんも友達だけどっ……、それだけじゃないじゃん。だから……」 「ずるい」 「……さ、……さと……」 「え、なに?聞こえない」 「もうっ、わがまま言わない!!昔の話は終わりっ」 わがままを言っているのはなにも自分だけでないことはわかっていたが、友達だけの関係ではきっと見ることのできない春市の横顔に免じて、これ以上の追求は諦める。空いている左の人差し指でつついた頬は赤らんでいる。 おわり うちの降谷くんと春っちは引きこもりなうえに寝てばっかりですね笑。次はもうちょっとアクティブにしたい。2012.08.02 main . |