Etranger





携帯のバッテリーは切れかかっていた。黒いコートに、長い金髪をけだるげにかきあげた女は、メールボックスからお目当てのメールを見つけ、内容を確認し、階段に足をかけた。
風は少し弱まって、太陽はわずかに傾き、その光をうっすらと石畳の地面に投げかけていた。枯葉が風に舞って、足元をふわふわと漂っている。人は少ない。こつこつと一定のリズムで刻まれる足音。彼女の気持ちは高揚していた。
ブラックアウトした画面を鏡代わりに、女は唇のルージュを確認した。
携帯を鞄にしまい、階段の途中で彼女は足を止めた。一度後ろを振り返り、あたりに人影が居ないことを確かめ、女はにっこりした。
そして、残りの階段を、たんたんとリズムをつけて登ってゆく。
長い金髪がふわふわとはためく、きりっと引き締まった表情が緩み、彼女の頬に一瞬幼さが戻る。最後の段を飛びこえ、両足で着地すると、女は顔を上げた。
人の姿はない。物足りなさそうな顔をし、彼女はふふっと恥ずかしそうに微笑んだ。
その美しい顔に再びきりっとした大人の表情が戻ったのは、一瞬だった。
女はコートのポケットに両手を入れ、階段を上りきった手すりにもたれかかった。
時は静かに流れてゆく。白い空に黒い影を落とし、鳥がゆっくりと弧を描くように飛んでゆく。
白い頬に、金髪がふわふわとかかる。女はルージュを引いた唇をきゅっと結んで、黙って手すりにもたれていた。どこからか、夕食の支度をしているのだろうか、いい匂いが漂ってくる。
女ははるか昔の“故郷”の味を思い出していた。この世界に身を置いてから、もう、二度と、帰ることはないと思っていた“故郷”の、あの素朴で温かく、懐かしい味だ。
彼女は一度大きく深呼吸した。
――後悔はしていない。戻りたいとも思わない。好きだったと言えば嘘になる。でも、あの場所は唯一自分を“人”として受け入れてくれる場所だった。失うのは辛かった。
時折、そんな思いが自分を圧倒して、いてもたってもいられなくなる。
だが、彼女はその感情を表に出さない方法を、この十年で身につけていた。
そっと階段に足を乗せ、ゆっくりと腰を下ろし、ひざを抱えた。腕時計を確認。時間を見て、彼女はふっと笑みをこぼす。
相変わらず変わっていない。時間にルーズなところは。
階段の下に人の姿が見えた。
待ち合わせの時、相手を見つけると、ついつい顔をそむける癖が出てしまう。いざとなると、なんだか恥ずかしくなってしまうのだ。
足音は近づいてくる。じっと膝を抱えて動かないでいると、階段を見つめていた視界の上方に、よく履き込んだ、すりきれた革の靴が見えた。彼女は微笑んだ。
靴の先は、視界に入ったかと思うと、すぐにすっと消えた。足音は彼女のすぐ横を通り過ぎて行った。

彼女は静かに顔を上げた。自分の背後から聞こえる足音は、次第に遠のいてゆく。それでも、まだ彼女は動かなかった。まだまだ、と満足そうに微笑み、思い立ったように振り返った。
次第に離れてゆくその背中を見つめて、金髪を揺らし彼女は立ち上がった。
首に巻いたストールに顔を埋めるようにして歩く、背の高い黒髪の男。その歩き方も、全て、相変わらずだ。
こつこつと早足で、背後から男に近づく。そして、十分声が届くであろうと思われる距離まで近づけることができた。
『Pardon, Monsieur!』(すみません!)
その声は、空気を震わせるように響いた。ぴんと空気が張りつめる。だがそれは、男の足を止めるのに十分だった。
言いながらも足を止めなかった女は、男が振り向いた時には、彼に追いつき目の前に立っていた。翡翠色の目を細め、女はゆっくりと微笑んだ。
『Tu prends ton café nature?』(コーヒーはブラックで?)
すると、男もその顔に、にやっと笑いを浮かべた。ストールを下げ、黒髪を大雑把にかきあげると、彼はいささかぎこちないフランス語で答えた。
『Non, avec du lait et du sucre.』(いいえ、ミルクと砂糖入りで)
先ほどまでの張りつめていた空気が一気にほぐれる。金髪の女は、ぱっと花の咲いたような笑顔で男に抱きついた。
「ジョン!久しぶり!」
「キャサリン、久しぶり。相変わらず綺麗だな君は」
ハグの挨拶を交わし、二人は離れた。
二人は幼馴染で、キャサリンはフランス人、ジョンはアメリカ人と日本人のハーフだった。同じ“故郷”を持ち、二人はしばらく同じ部署で働いていた時期があったのだ。もっとも、その頃、ジョンはすでにマスターで、キャサリンはただのソルジャーだったのだが。
ジョンは目の前の彼女を一歩下がってまじまじと見つめ、笑って言った。
「君、フレデリクから聞いたよ。マスター昇格おめでとう」
キャサリンは金髪を揺らして嬉しそうに笑って、メルシーと言った。
「うれしいだろう?」
「そうね。でも、そうでもないわ。やっとスタートラインに立てたんだもの」
肩をすくめ、キャサリンは言った。
「君のこと、みんなが言ってたぞ。パリ支部最年少だって」
「そうかもしれないわね。でも、全組織一というわけではないわ」
そう言って、キャサリンはジョンを見つめた。
「そう、私よりも早かった人が、二人もいるもの」
風がさっと吹いて、二人の間を通り抜けて行った。太陽の光が石畳に影を投げかける。時が経つのは、やはり早い。
「パリには慣れた?」
「まあまあだね。フランス語はまだちょっと不安だけど、ご飯もおいしいし、景色も良いし、上々」
「それは良かったわ」
キャサリンは微笑んだ。
その時、ジョンはふっと何か思い出したように、着ていたジャケットのポケットに手を伸ばすと、中から何かを取り出した。
「あぁ、そうだ。忘れないうちに」
殺風景な白い封筒を受け取って、キャサリンは分かったような顔で頷いた。
「ボスから」
「次はどこ?」
「リヨンだ」
「分かったわ」
キャサリンは鞄に封筒をしまいながら、私もマスターになれてよかった、とつぶやいた。
「任務に参加できる」
「研修期間は長かっただろうね」
「もちろんよ。嫌になるくらい、長かったわ」
待ち望んでいた時がやっと来たというのに、何故か気分は晴れなかった。封筒をしまって、キャサリンはアンニュイにため息をついた。
昇格試験も、研修期間も長かった。任務もやりがいがあるし、達成感もある。しかし、どこか納得できない。何かが腑に落ちない。自分が思っていたものと違う気がするのだ。
「でも、それは僕たちが“故郷”を出た時からずっとそうだったじゃないか。今更…」
「そうね。ねぇ、ジョン」
「ん?」
「あなたは、どう思う?」
手すりに手をかけて寄りかかるキャサリンの横顔は、どこか寂しげだった。ジョンはわずかに表情を曇らせながら、彼女に近づいた。
彼女の言いたいことは分かっていた。
「アーサーの、ことかい?」
「この前、ボスの机の上に」
キャサリンはジョンを遮って、言葉を発した。
「次の昇格試験の受験者リストが置いてあったわ」
「そうか」
「その中に、あなたの名前があった」
「うん」
「バーサーカーへの昇格試験、受けるのね?」
ジョンは一度ちらりとキャサリンを見てから頷いた。彼女はこちらを見ていないので、頷いても仕方がなかったのだが、その沈黙を、キャサリンはイエスと取ったようだった。
「…そう」
「黙っていてすまない、僕は」
「分かってるわ。あなたなら受けると思ってたから」
もちろん、二人とも十年前のあの事件を忘れたわけではなかった。
いつも一緒に居た三人、その三人目の存在を。

アーサーは、十五歳でバーサーカーになった。史上最年少だった。彼は何かが違っていた。人と違うものを持っていた。同じ“故郷”で育った同士、もちろん彼のバーサーカー昇格を二人とも誰より喜んでいた。でも。
「アーサーは死んだわ」
「キャサリン」
「わたし、どこか信じきれないのよ」
バーサーカーになって三年目。アーサーはロンドン支部に派遣され、任務中、亡くなった。
彼が居なくなるなんて、信じられなかった。
階級こそ違えど、三人はクリスマスや年越し、イベントがあるたびに休暇を取り、集まっていた。誰かが欠けるなんて、考えもしなかった。
ロンドン支部は事故だと発表し、その通りにされたが、キャサリンの中ではどこかそれがしこりのように残っていた。
アーサーの遺体が見つからなかったからだ。
キャサリンは、彼の遺体を戻してほしいとごねた。どうしても彼が死んだという証拠が欲しかった。そして、彼をきちんと埋葬し、幼馴染二人で見送ってあげたかったのだ。
だが、結局うやむやになり、死んだとも行方不明ともよく分からないまま、事件は闇に葬り去られた。
「ジョンは、どう思ってるの?」
キャサリンはジョンを振り返った。
「キャサリン」
「私は……」
すると、いきなりキャサリンの肩を、強くジョンがつかんだ。
「表裏一体。鏡の表と裏」
「え?」
ジョンは早口につぶやいた。よく聞き取れなかったのと、意味が分からなかったのとで、キャサリンは訝しげな顔をした。
「この組織はそういう場所だ」
「鏡……」
「触れちゃいけない部分がある。決して、触れちゃいけない部分が」
ジョンの目は本気だった。いつになく、彼の目は据わり、キャサリンを見つめていた。
「いいか、キャサリン。絶対に言いふらすなよ」
「ええ」
「アーサーは……」
不意にびゅっと、強く風が吹いた。一瞬驚いたようにキャサリンから手を離したジョンが、ゆっくりと空を見上げる。東の空から、夜の帳が見え隠れしていた。
「あいつは、死んだんじゃない。“消された”んだ」
空を見上げたまま、ジョンはそう言った。
「………」
「君が気にするのも分かる。だが、自分のことを第一に考えろ。アーサーに何かがあった。でも、それは触れちゃいけないことなんだ。それに、触れでもしたら」
ジョンは再びゆっくりとキャサリンに視線を戻す。
「次、消されるのはお前だ」
辺りを、沈黙が満たした。張りつめた空気は、ちくちくと肌に突き刺さるような感じがした。
キャサリンは眉を寄せて、再び口を開く。
「もしかして、あなたが昇格試験をうけるのは……」
「バーサーカーにならないと、あいつと同じフィールドに立てない」
ジョンはジャケットのポケットに両手を無造作に突っ込んで、手すりにもたれた。
「時間がかかりすぎた」
「まさか、あなた」
「キャサリン、君にはまだ早い。それに、君にはフィアンセが居るだろう?」
「あなたにだって、ニューヨークに妹が居るじゃない」
矢継ぎ早のやり取りの後、再び二人の間に沈黙が流れた。
「そうだとしたら」
キャサリンの声は震えている。
「あなただって、“消される”わよ」
「覚悟してる」
「そんなこと言わないで……」
時が経つのは早いが、場合によっては、時が経つことは残酷なことを引き起こすこともある。
いつか、誰かがそう言っていたような気がする。
「僕は行くよ。あのフィールドに」
十年前の事件から、お互いそれぞれの道を歩んできた。恋人も出来た。彼は妹と二人ニューヨークで生活していた。同じ組織の一員ではあったが、かたやニューヨーク支部、パリ支部では、任務の場所も違う。会うことは滅多になかった。それでも、たまたま任務でパリに来ていた彼と落ち合えたのは、不幸中の幸い、いや、幸い中の不幸なのかもしれない。
「わたしも、また昇格試験受けるわ。わたしも、バーサーカーになる」
ジョンはキャサリンを見つめた。
「わたし、アーサーの仇、絶対に取るわ」
「死ぬなよ」
「あなたこそ」
そんな元も子もないこと、しないわ。キャサリンは唇をかんでつぶやいた。

日は暮れかけていた。鞄越しに封筒に触れながらキャサリンはもう片方の手を固く握った。
「まだ、始まったばっかりね」
「あぁ」
「今日はごめんなさい。いきなり会いたいとか言って……」
「いいよ、君と話せて良かった」
お互い、向き合ってそう言った。こわばっていた表情がふっと緩んで、キャサリンは小さく微笑んだ。
「また、連絡頂戴」
「分かった」
「うん」
「キャサリン、絶対、無茶するなよ。何か、動きを起こすなら、僕に知らせてくれ」
「分かったわ」
支部には、夜には引き上げないといけなかった。キャサリンは鞄を背負い直し、空を見上げた。
「……戻らないと」
「そうだね」
「……ジョン、死なないでね。あなたまで失ったら…」
「僕も君を失うのは嫌だ」
一度ぱちんと手のひらを打ち合わせて、同時に、お互いに背を向けた。
こつこつと二つの足音。
リズムよく刻まれる音に、キャサリンは思い出したことがあった。
別れるときは、潔く。
支部長が、いつも言っている言葉だ。この仕事をする上で、必要ないこだわりや執念は余計だ。何事も潔く。そうすれば、何も感じなくてすむ、と。
何も、感じない。
そんなことはない。十年間、ずっと苦しんできた。アーサーと別れることは、未だに出来ていない。おそらくジョンもそうだろう。
それでも、進まなければならない。今までもそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。

今となっては昔のことで、ほとんど覚えていないが、“故郷”の暮らしていた場所に、アネモネの花があったことだけ、強烈に記憶している。
アネモネ。
薄れゆく希望、それから“期待”








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