メビウスの溜め息 | ナノ


 彼女は秘密の恋をしている。

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 廊下の向こうから黒いスーツを着た彼が来るのが見えた。隣を歩く彼女の表情がぱっと明るくなる。無自覚なんだろうけど、抑えきれない嬉しさが溢れ出ている感じだ。視線の先には、スーツ姿の土方先生。彼も随分前からこちらに気づいていた。相変わらずの仏頂面に、周囲にいた生徒が思わず道を譲る。歩くだけで道ができるって、モーゼですか貴方は。でも、そんな高尚な存在じゃないですよね、貴方は。
「こんにちは、土方先生」
 無言ですれ違うのも変だから、僕はそう挨拶をした。土方先生は僕を一瞥して、「ああ」と短い返事をした。
「土方先生、あの」
「雪村。悪いが今忙しいんだ。話ならまた後にしてくれ」
「あ、はい…わかりました」
 足を止めることなく、彼はそう言って職員室に戻っていった。彼女に見向きもせず。千鶴ちゃんは、呆然と彼が消えていった廊下を見つめていた。幸福そうだった彼女は今、唇を噛み締めている。まるで痛みを耐えるように。ああ、見ていられない。
「…千鶴ちゃん、いいとこ行こうか」
「、え?」
 彼女の返事も聞かず、僕は彼女の手を取って歩き出した。
「あの、沖田先輩、一体何処へ?」
「内緒。ついてくればわかるよ」
「あのっ、もうすぐ授業が始まります」
「サボっちゃおう」
「そんな、ダメですよ…!」
 千鶴ちゃんは足を止めて僕の手を振り解こうとした。しかしびくともしない。まあ当然だよね、離す気なんてないんだから。千鶴ちゃんを振り返る。茶色い瞳を真っ直ぐ見て、僕は言い聞かせるように言った。
「そんな泣きそうな顔してる君を、一人にしておけないよ」
「っ、」
「いいから黙ってついてくる」
「………はい…」
 笑顔で言うと、彼女は観念したように頷いたのだった。

 千鶴ちゃんの手を引いてやってきたのは屋上へ続く階段だった。立ち入り禁止の立て看板が置いてある先に、屋上に出る扉がある。僕は立て看板を無視してその扉に向かった。もちろん千鶴ちゃんの手を引いたまま。
「お、沖田先輩! ここ、立ち入り禁止です!」
「知ってるよ」
「帰りましょう、誰かに見つかったら大変です」
「大丈夫、この時間は誰も通らないよ」
「でも、鍵閉まってますよね?」
「それがちょっと前から壊れて開いてるんだ」
「え…!」
 そう言ってドアノブをひねる。重い鉄の扉は鈍い音を立てながら開いた。
「ほらね。さあさあもう諦めて素直に楽しもう。屋上に出る機会なんて滅多にないでしょ」
 彼女は真面目だ。授業をサボることも、こうして校則を破ることも、きっと初めてだろう。そういうところは千鶴ちゃんのいいところだけど、たまにはもう少し肩の力を抜いてもいいと思うんだ。でも、力の抜き方を知らないんだろうな、とも思う。だから少し強引だけど、こうして無理矢理にでも連れ出すことにした。
 屋上に出ると、僕らはフェンス際に並んで座った。もちろん校舎側からは死角の場所だ。視界には空が広がる。先程まで不安げな顔をしていた千鶴ちゃんは、まだそわそわしていた。まあ、立ち入り禁止のこの場所でいきなりリラックスしろ、と言ってもできないだろうな、この子は。そういう反応が僕にはとても新鮮で、かわいいなあと思う。
 このまま二人でのんびりしていてもいいかな、と思った。けど、校則違反をさせてしまったお詫びは、ちゃんとしてあげないといけない。僕は大きく伸びをした。
「んー、青空だねえ」
「はい…」
「僕はこれから昼寝するから」
「え?」
「だから、誰も何も聞いてないよ。空に思いを吐き出したって、誰も責めやしない」
「沖田先輩…」
 千鶴ちゃんの声に困惑がにじむ。僕はフェンスに背をもたれて目を閉じた。
「………」
 沈黙が流れる。賢い彼女は僕の意図することを理解しているだろう。
 吐き出してしまえばいい。誰にも言えないまま、一人で抱え込んでいないで。一人で我慢しないで。楽になってほしかった。だけど、わからないふりをして、そのまま何も言わなくても構わなかった。
「…わかっているんです」
 ぽつりと千鶴ちゃんが小さく呟いた。
「学校では、距離を置かなきゃいけないって。私たちの関係は、周りに気づかれてはいけない。立場が危うくなるかもしれないというリスクを負って、あの人は私を選んでくれた。それだけで充分なんです…。満足、しなきゃいけないんです…!」
 嗚咽が聞こえて、僕は静かに目を開けた。俯く彼女に手を伸ばしかけ、止める。震える肩が、華奢な身体が、全身で「恋しい」と言っていた。ああ、この涙を止められるのは、僕じゃない。空に浮いた手を握り締めて、下ろす。そして僕は再び目を閉じた。
「…これは、寝言なんだけど。僕には大嫌いな人がいてね。口うるさくて、自分より規律とか組織を優先して、頑固っていうか融通がきかないっていうか。いつも前を見てばかりで、背中を見ているこっちの気持ちなんてお構いなしで、それはそれは自分勝手な人なんだ」
「…………」
「自分の幸せより、他人の幸せを優先しようとするんだけど…。それって、こっちにしてみればバカ言わないでくださいよ、って感じだよね。何で勝手に決めるんですか。一人で結論出す前に、こっちにも話してくださいよ、って」
 あの人が、千鶴ちゃんを大切に思っているのはよくわかる。現に先程すれ違ったときも、それはそれは鋭い視線を送られたものだ。あの目は「何でお前が千鶴と一緒にいる」と言っていた。そして、皆の前で千鶴ちゃんに気安く接することができない自分に憤っていた。結果、ぶっきらぼうな態度になってしまったのだろう。何て不器用な人だ。本当は千鶴ちゃんに会いたいくせに、話したいくせに、優しくしたいくせに。しかし、教師である自分があまり構うと千鶴ちゃんがひがまれるかもしれないと、必要以上に接触を避けている。それが千鶴ちゃんを傷つけているというのに。
 愛情表現が間違っているんですよ、貴方。何泣かせてるんですか。確かに周りの目を気にすることも大切だけど、それよりもまず彼女の気持ちを気にするべきでしょう。
 そんなことを考えていると、不意に心地よい風が吹いた。気づけば嗚咽は聞こえなくなった。どうやら落ち着いてきたらしい。
「…ありがとうございます、沖田先輩」
 僕は目を閉じたまま、返事をしなかった。一応寝ているということにしているので。易々と目を開けてしまっては、此処に来た意味がなくなってしまう。
 千鶴ちゃんがくすりと笑う気配がした。そして床に投げ出していた手を、ふと握られた。
「っ!」
 思わず目を開けてしまった。すると彼女は微笑んで、それから手を離した。
「私、行きますね」
 そう告げる彼女は、綺麗だった。凛とした、真っ直ぐな瞳。
「……、」
 立ち上がり、背を向けた彼女に何か言おうとして、けれど声がうまく出なかった。彼女はそのまま屋上から消えてしまった。
 一人になった僕は、ぼうっと空を見上げていた。先程の彼女の笑顔と、赤く腫れた目が忘れられない。
「…僕なら君を泣かせたりしないのに」
 やっと出た声はやけに掠れていた。
 告げてしまえたらどんなに楽だろう。あの瞳が見つめるのは僕だけであればいいのに。
 だけど、脳裏にあの背中がよぎった。浅葱色を翻し、誠の文字を背負って戦った、あの人の背中。その背中を、ただ見つめるだけしかできなかったあの子の後ろ姿。
 幸せになってほしかった。今度は。今度こそ。
「……好きだよ」
 誰にも届かない言葉は空に溶けていった。

 彼女は秘密の恋をしている。
 僕は報われない恋をしている。


End
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切ない話を書くのが好きなので、すごく楽しく書かせていただきました。でも土千まで切なくすることなかったかな、と書き終わった後思いました。甘さどこいった。この三人を書くと千鶴ちゃんを泣かせてしまいます…幸せにしてあげたいのに!前世の記憶は沖田だけ持っています。土千の二人は、土方さんはおぼろげにあって、千鶴ちゃんは持っていない、という感じで書いていました。呉羽さまに捧げます!リクエストありがとうございました!
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