小話置き場 | ナノ



▽理撫←鷹(CZ)


※子供(娘)視点注意




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あの人の、優しくて寂しげな瞳を、よく覚えている。

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ピンポーン。
インターホンのチャイムが鳴り響く。その音を聞くや否や、幼子だった私は一気に玄関まで走り出した。両親は顔を見合わせ、後ろから「転ばないようにね」などと声をかけてきた気がする。もちろん、そんな忠告は耳に入っていなかった。私は今日の来訪者の到着を、ずっと待ちわびていたのだから。
「いらっしゃい、鷹斗おじちゃま!」
玄関を開けると同時に、そう言って元気よく挨拶をした。迎えられた鷹斗おじさん(今は鷹斗さんと呼んでいる)は、いつもの通りに微笑んでそこにいた。そして私に目線を合わせるために屈むと、優しい声で返事をくれた。
「こんにちは。大きくなったね、桜ちゃん」
頭を撫でられ、私は嬉しくなった。
「うん!桜、もう小学生になったの」
「へえ、もうそんな年になるのか。学校は楽しい?」
「うん、楽しいわ」
「それはよかった」
「桜、鷹斗をお家に入れてあげてちょうだい」
玄関先で話し込んでいる2人を見かねて、母が声をかけてきた。隣には父が、普段の仏頂面を少し緩めて佇んでいた。
「よお、鷹斗。久しぶり。元気そうだな」
「うん、君もね、理一郎。撫子も変わらないようで、安心したよ」
にこり。鷹斗さんは笑った。
あれ? いつもと違う気がするわ。どこが、とか、何が、とか、上手く説明できないけれど。鷹斗さんの笑顔にはいくつか種類があるのだと、私が気づいたのはこのときが最初だった。

鷹斗さんをリビングに通すと、両親と鷹斗さんは近況報告を始めた。当時の私には難しくてよくわからなかったので、母に「何のお話をしているの?」と尋ねたら、母は「お仕事と趣味のお話よ」と教えてくれた。
お仕事のお話は知らない言葉がたくさんあって記憶にないが、鷹斗さんが笑いながら「この前鍋を爆発させちゃって、キッチンを取り替えるはめになったんだ」と話していたことは、何故かよく覚えている。母が「相変わらずね」と苦笑して、父が「お前はもう料理をするのを諦めた方がいい」と結構真面目に忠告していたのも、覚えていた。
多分、そのときの3人の空気が、子供ながらに心地よかったからなのだろう。大好きな鷹斗さんがいて、大好きな父と母が笑っているその空間が、印象深く残っている。

しばらく談笑していると、父の仕事の携帯が鳴った。父は「悪い」と言って席を外し、2階の仕事部屋に向かうため階段を上がっていった。
「休みの日まで仕事の連絡が入るんじゃ、理一郎も大変だね」
「そうね。でも、何だかんだ楽しそうにやってるわよ。それに、大変っていうなら鷹斗の方じゃない?海外支部のプロジェクトリーダーなんて、中々休み取れないみたいだし」
「始めの1、2年はね。今は組織がしっかりしてきたから、きちんと休めるようになったよ」
「そう、ならよかったわ。だけど、ちゃんと食べてる?鷹斗、放っておくと研究に夢中になってご飯食べるの忘れるって言ってたわよね」
「あー、それは、昔から変わらず、かな」
「もう、リーダーが倒れたら元も子もないでしょう。きっちり食べてきっちり栄養をとること。体調管理には気をつけるのよ……って、ごめんなさい。何だか口うるさくて」
「ううん。撫子に心配してもらえて、嬉しいよ。何だか小学生に戻った気分だ」
鷹斗さんは微笑んだ。
「小学生か……懐かしいわね」
母も昔を懐かしむように思い出しながら、私の方を見た。
「この子も、もう小学生になったのよ」
「うん、さっき聞いた。早いね。前に会ったときは、まだ幼稚園に入りたてだった気がする」
「早いわね」
「小学校は、どこに通ってるの?桜ちゃん」
大人しく椅子に座っていた私に、鷹斗さんはそう声をかけてくれた。
「秋霖学園!」
「へえ、秋霖か」
「そうなの。理一郎とも色々考えたんだけど、やっぱり秋霖がいいって話になって」
「うん、俺も賛成だな。いい学校だったよね。……俺にも子供ができたら、きっと秋霖に通わせたいと思う」
「え、鷹斗、子供できる予定あるの!?」
母が身を乗り出して鷹斗さんに近づいた。鷹斗さんは慌てて否定していた。
「ううん、もしもの話だよ。残念ながら、浮いた話は全くないんだ。ごめんね」
「そうなの……。謝らなくていいわ。こっちが勝手に勘違いしたんだから。こちらこそ、早とちりしてごめんなさい」
「鷹斗おじちゃまは、好きなひとはいらっしゃるの?」
私の質問に、鷹斗さんは一瞬困った顔をした。
「桜、いきなり失礼なこと聞くものじゃありません」
「えー、でも気になるんだもの」
「でもじゃないの……」
「……いないよ」
母の言葉を遮るように、鷹斗さんはそう答えた。
「……そう、なの」
「研究で忙しいから、そんな余裕もないしね」
にこり。また、鷹斗さんの笑顔に違和感を感じた。
母は気づいていないのだろうか。ちらと様子を窺ったが、母はいつも通り、何も変わらなかった。
昔からの仲である母ですら気づかない変化を、私は気づいている。そのときの私は、そんな小さな優越感を抱いて少し得意になっていた。
しかし、それはすぐに間違いだったのだと気づく。

「お茶、冷めちゃったわね。新しいのを淹れてくるわ」
「ありがとう」
母がお茶を入れ直しにキッチンへ向かうため席を立った。そのとき、私は鷹斗さんを見ていた。鷹斗さんは、母の背中を見つめていた。優しく、寂しげな瞳で。
見たことのない表情だった。だけど、何となく感じた。ああ、私も今、同じ表情をしているのではないかと。
「……鷹斗おじちゃまは、ママに恋をしてるみたいね」
「え?」
鷹斗さんがびっくりした顔でこちらを振り向いた。そして困ったように笑うと、人差し指を口の前に立てた。
「内緒だよ」
静かに小さな声で囁かれた言葉に、私はこくりと頷いた。声を発したらその約束が壊れてしまう気がして。

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今ならわかる。きっと母は全てを悟った上で、気づかないふりをしていたのだろう。気づいたら、3人でいられなくなる。鷹斗さんを失わないためには、鷹斗さんの気持ちに応えてはいけなかったのだ。
幼い私はそんなことを知るはずもなく。しかしその変化に気づいたのは、私が鷹斗さんに恋をしていたからなのだろう。それは一種の憧れだったのかもしれない。とても純粋に、惹かれていた。この想いは、きっと鷹斗さんが母に抱いていたものと、よく似ていたのではないかと思う。

十年経った今も、あの人のあの優しくて寂しげな瞳を思い出す。
私の初恋の人は、恋の痛みを知った人だった。


(言葉にしてはならない感情がある)

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