(レナレナの日おめでとう!)





 きらきらとした日差しが降り注ぐ。じっとりとした暑さに目を細めながら、不思議な気持ちで澄み渡る青空を見上げた。大きな雲。照りつける夏の陽光。当たり前のはずの情景を、何故か懐かしく感じていた。

「どーしたの、レナ。」

 はっとして我に帰れば、目の前にエメラルドの瞳。心配そうにレナの顔をのぞき込むのは、エリザベスであった。おまけに、その奥でマシューも同じように眉を下げてレナを見守っていた。
 ああいけない、とレナは頭を横に振って何事もなかったかのように微笑む。

「ううん、なんでもないの。」

 どうしてあんなことを思ったのだろう。何てことのない毎日のことなのに。しかし、その小さな疑問はひっそりと息を潜めながら、レナの心の中に居座っていた。
 今日はいつもの三人で町に出掛ける日だった。病弱なレナはあまり外に出られない為、前々からずっとこの日を楽しみにしていたのだ。何も不自然なところなどないのに。
 微笑み返したレナに、エリザベスは安堵の表情を浮かべて、はきはきとした笑顔で言った。

「なら良かった。ほら、じゃあ行きましょう。」
「この道を抜ければ、もうすぐだったよな?」
「ええそうよ。マシュー偉い!良く覚えてたわね!」
「このっ、子供扱いするなっ!」

 ぽんぽんと繰り広げられる二人の会話に、気付かれぬようにレナは小さく笑った。大きく笑うと、何故だか二人から怒られてしまうので、なるべく気付かれないように笑うように彼女は心掛けていた。
 ――ずっと、こんな情景を見ていたかった。

(“レナ”)
「――えっ、」

 聞き慣れたはずの、自分の声がした。でも、自分の口からは発せられていない。だから、一瞬だけ、全く別人の声に聞こえた。でも、あの声は間違えなく、自分の声だった。弾かれたように辺りを見渡すが、レナの周りにあったのは、ありふれた日常の景色しかない。
 “自分の声がする”そんな非日常が入り込む隙間などあるはずがないのに。軽やかな足取りで前に進む二人の背中を見ながら、追いかけていたはずの足は、いつの間にか速度を落とし、ぴたりとその場に立ち止まった。

「…レナ?」
「やっぱり、体調良くないんじゃないか?」

 ちがう、そんな声は喉でつっかえて音にならなかった。
 一体、これはいつの記憶なんだろう。優しい母に見送られ、大好きな二人と合流する。そうして、こうやって肩を並べて歩いたのは、いつのことだろうか。思い出せないのは、目の前の状況が“今”の出来事だからではない。彼女が夢見た幻だったから。
 レナはゆっくりと顔を上げる。目の前には、エリザベスとマシューの姿。

「私、大丈夫よ。」

 淡く瞳を細め、レナは二人の手を優しく取った。温かい体温。在りし日の思い出。優しいこの体温を、忘れるはずがないのに。
“ゆめはいつかさめるもの”
「もう大丈夫。…だから、もう行かなくちゃ。」

 次第に夏の陽光が増していく。段々と真っ白に視界が染まっていった。
 切り離されていく世界で、最後に二人を見上げた。エリザベスとマシューは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、直ぐにレナに向けて穏やかで優しい眼差しを向けた。

「そっか。」
「ならもう、大丈夫ね。」

 うん、と大きく頷く。ぼたぼたと涙が落ちて、声は嗚咽に紛れた。
 ――ごめんね、ありがとう、だいすき。握っていたはずの手が、次第に、消えていった。柔らかなぬくもりだけを残して。
 視界が白に染まって、足場がふわりと消え去った。





「貴女が私を呼んでくれたのね。」

 上も下も右も左もない広々とした不思議な空間。ぼんやりとその世界を見上げながら、レナは傍らに寄り添う同じ顔に呟いた。

「レナ、心配シタ。」
「うん、心配かけちゃってごめんね…。」

 じぃとレナを見上げるのは、同じ顔。ただ異なるのは、血のように赤く染まった目と、唇から長く伸びる赤黒い舌。もう一人のレナ。影の彼女。
 ほんの少しだけ、甘い夢に迷った。あのまま迷い続けていたら、永遠に目が覚めなかったのだろうか。そんな危うい道に進みかけたレナを、影が引き留めてくれた。

「……レナァ?」
「ありがとう、ごめんね…。」

 不安だっただろう。たった一人の半身が何処かへ消えていきそうだったのだから。影のレナは誰よりも孤独の恐ろしさを知っている。そうして、彼女は淋しがりやだ。自分と同じで。 影へとレナは手を伸ばして、その華奢な身体を抱き締めた。二人には大凡体温というものがない。それでも、心にはぬくもりが灯った。

「カナシイ?レナ?」
「ちがうの、ちがうのよ。……ただ、苦しいだけ。」

 心に灯ったぬくもりが、余計にレナの胸を痛めた。記憶の彼方にあった、エリザベスとマシューの体温をまじまじと思い起こさせたからだ。
 影を困惑させてしまうと知りながらも、レナは影の自分を抱きしめながら、再び落涙していた。

「――“ゆめはいつかさめるもの”」

 不意に、“レナ”ではない声が辺りに響いた。影の肩に預けていた顔を上げると、涙で濡れた視界に、何処からか舞い降りた革靴が見えた。ゆっくりとレナが目線を上げていくと、突然の来訪者はこつんと二人の目の前へと着地した。

「君はもう大丈夫だよ、レナ。」

 すらりとした長身の来訪者は、レナと影に目線を合わせるようにして腰を屈めた。
 しかし、肝心の顔は涙でぼやけてレナの目には写らない。そして、ぽんと頭に置かれた大きな手が尚更にレナの視界を遮った。

「この子も心配してたけど、君はもう、母のぬくもりも、大切な友人たちの思い出も、ちゃんと背負っていけるはずだ。」

 そうだろう?と問い掛ける穏やかな声に、レナは小さく頷く。
 欲に塗れ、最期はレナの手で葬ったアーシュラ。それでも、ナタリーとして過ごした日々は虚偽だけではなかったと信じている。そして今も昔も変わらないレナの太陽であるエリザベスとマシューは、記憶の中で、確かに生きていると、思えるようになったから。

「うん、良い子だ。――それじゃあもう、目を覚まさないと。」
「私、眠っているんですか?」
「そう、眠ってる。目覚め方は覚えてるよね?」
「はい。大丈夫です。」

 そっと腕が離れていく。その手が離れていくのと同時に、意識が遠くへと引っ張られていく。今回は思ったよりも早く、目覚めることが出来るようだ。
 浮上していく意識の中で、感謝の気持ちを込めて影の手をきゅっと握る。応えるように、優しい力が握り返してくれた。そして、はっと思い出したように目の前に居た男性に向かって、ありがとう、と口にする。結局それは言葉にはならなかったけれど、一瞬だけ見た男性の表情は優しく微笑み返してくれた。特徴的な色彩の眼に、何故か懐かしさを覚えた。





 ふわりと目を開く。霞んだ視界と、深緑の香りが起き抜けの頭を覚醒へと導く。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、はっきりとしていく意識の感覚に、自分は確かに目を覚ましたのだと知覚した。

「ねえちゃん!」
「レナ、大丈夫ですか。」

 意識が繋がるのと同時に、目の前に端正な二つの顔がレナを覗き込んでいて、彼女は驚く。一人はそれはもう隠すことなく心配そうな顔をしていて、もう一人は相変わらずの無表情だけれど、その眼差しには焦燥が滲んでいた。

「ごめんなさい。……ええと、おはよう?」

 謝罪の言葉と、共にレナは首を傾げて二人を見上げる。のんびりとしたレナの様子に、目の前の二人は呆れかえったように肩を下げて、溜め息を落とした。

「ねえちゃんのばか!もー、こっちがどれだけ心配したと思ってんだよ!」
「ごめんね、フレディ。……アーウィンも。」
「貴女の危機感のなさには呆れて何も言えません。」

 じとりとレナを一瞥してから、フレデリックの横で屈んでいたアーウィンは静かに立ち上がった。そんなアーウィンの背に広がっていた空が、いつの間にか黒く染まっている。所々に輝く眩い星が、時間の経過をありありと告げていた。
 レナが思うよりもずっと、時間が過ぎていたらしい。どれだけフレデリックとアーウィンに心配と迷惑をかけたのだろうと思うと、ふつふつと申し訳なさが募っていく。

「兎に角、お説教は屋敷に戻ってからにしましょう。」
「そうだねー。屋敷の人たちも心配してるだろうし。」
「……ごめんなさい。」

 しゅんとうなだれたレナの頭を、フレデリックの手がぽんぽんと宥めるように撫でる。優しい灰色の眼差しが、穏やかに微笑んでいた。

「とりあえず、今は良いよ。ねえちゃんも反省してるみたいだし。」
「フレディ…。」

 微笑みながら頭を撫でるフレデリックの姿に、あの夢の中の男性が重なった。直感的に似ていると思ったのだ。それでも結局、朧気な輪郭しか思い出せなかったのだけれど。あの男性の優しさとフレデリックの優しさが重なって、レナの胸に安心感が生まれた。
 そんなレナに、白い手が差し出される。アーウィンの手だった。

「帰りましょう。立てますか?」
「……ええ、大丈夫。ありがとう。」

 アーウィンの手を掴む。人ではないアーウィンの体温は冷たかった。でもそこに、人の体温よりも温かな優しさがあることをレナは知っている。
 その手に支えられ、彼女はしっかりと地面に足を着けて立ち上がった。

「暗いので足元に注意して下さい。」
「うん、わかったわ。」
「あ、そうだ。今回は帰ったら、オレもお説教に参加するからね。」
「ええっ!フレディまで?」
「それだけ心配かけたんだから当然でしょー。」
「あの慌てぶりは見物でしたよ。」
「……兄ちゃんだって人のこと言えないだろ。」

 ぽんぽんと楽しげな会話がレナの目の前で繰り広げられていく。大きな背中と小さな背中を追いかけながら、ふと何かに気を取られたようにレナは後ろを振り返る。
 そこにはただひっそりと、レナが身体を預けていた大木があるだけだった。

「レナ?」
「ねえちゃん?」
「……ううん、なんでもないの。」

 あの夢のときと同じように言葉を返して、今度こそレナは足を止めることなどなく、二人の背を追いかける。
 どっぷりと夜に染まる暗い道も、何も怖くない。何処かすっきりとした気持ちがレナの心を明るく照らしていたから。





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