キスをした。ただそこに胸をときめかすような甘さはなく、後にも先にも張り詰めた空気だけがきりきりと頭から足の先まで絡みついていた。例外なく、柔らかなキスをしたその唇も。
 衝動的だったそれとは異なって、ふんわりと開いた瞳の先では、灰色の眼は少しの動揺もなく、至極穏やかだった。その眼差しは、慌てふためいて混乱してしまったときや、うまく感情を口で表現出来なかったときに、よく彼が向けてくれた眼差しだった。どうしたの、とか、落ち着いて、そんな思慮の含んだ眼。この局面で、そんな眼が出来る彼は、やっぱり今も昔も変わらずに大人だった。

「キスしたのよ。」
「うん、そうだね。」

 温かな肩に手を合わせたまま、今度はその唇に指先で触れる。するりとなぞった唇は温い優しさがあった。
 そんな行動でさえ、彼は狼狽えない。拒絶しない。ただ柔らかく頷いて、その暴挙すら受け入れるように彼女を抱き寄せた。胸が鳴る。血が脈打つ。でも、そこに決定的な何かが足りない。それを埋める術も、育む術も、持ち合わせてはいなかった。それはきっと、眼前の彼も同じ。

「もしも此処が御伽噺の世界なら、魔法にかかっちゃうね。」
「でも此処は御伽噺の国なんかじゃない。」

 昔。まだ普通の女の子だった頃。きらきらと眩い御伽噺の世界は、いつだって安らいだ夢を魅せてくれた。いつの日かわたしだけの王子様が現れて、共に危機を乗り越え恋に落ちる。そうして、訪れる円満な終焉。そんなことを、彼女も夢見ていた。ずっと前。遠い記憶。戻らない、戻れない過去に。

「そう。だから、これは魔法のキスなんかじゃないんだわ。」

 脳裏に過ぎる情景に、冷めたような声を発した。そんな彼女が最後に発した言葉にだけ、彼はぴくりと反応をみせた。次いで痛ましげに深まった灰色の眼差しを、彼女は真っ直ぐに見つめ返す。じりじりと胸を焦がすような痛みが込み上げた。そんな眼差しさえ受け入れるのは、痛い辛いと分かっていても、彼女は絶対に彼から逃げるような真似はしたくなかったから。例え、進む先も戻る道もなかったとしても。
 彼女が伸ばしていた手首を彼は掴む。左の手のひらが宙に浮いた。その合間から、はっきりと灰色の眼が覗いていた。

「それじゃあどんなキスなの?」

 伏せられた睫が薬指に落とされる。指に恭しく触れた感触に彼女はふわりと微笑んだ。
 あれは幸福を保証する魔法のキスなどではない。だけれども、確かに意味はあった。ぐるぐると足元から巻きついて、じわじわと身体の底に深く染み込んでいく。そう、これは。

「きっと、呪いのキスだわ。」
「わぁ。それはまた随分とおっかない。」
「ふふ、私たち二人ともかかっちゃったね。」

 少し身を屈めていた彼は、小さく微笑んで肩を下げた。
 二人には未来なんてない。不釣り合いな時計の針は彼女だけを置き去りにしていく。彼女を絶対に眠りにつかせない。そして、彼女に未来へ進む足を与えない。だから、夢のような物語りは始まりもしなければ、終わりもしないのだ。“わたしだけ”の王子様は、彼だけの物語りを綴るしかない。“わたし”の居ない物語りを。
 彼の左手が彼女の頬を撫でる。掴まれたままの彼女の手と、彼のその薬指に繋がっていた赤い糸はもう解れて、腐って、黒ずんでしまっているはずだ。無理やりに繋ぎ止めたその糸は、変色した血の色と同じ色をしているだろう。それでも離れないのは、血の色に染まったその糸が歪に絡まっているから。

「――オレはとっくの昔にかかってるよ。その呪い。」

 彼の指が唇をなぞる。何事かを聞き返す前に、左手を彼の後方へと引かれた。温かな腕の中。優しい香り。穏やかなぬくもり。触れる吐息。互いの前髪が重なり、睫さえも絡まってしまいそうな距離で囁く。それでも彼女は臆することなく、目の前の彼を見据えていた。

「だからもっとかけてよ、呪い。オレの為だけに。」

 その言葉を境に、彼女はようやく瞼を閉じた。彼も同じように眼を伏せたという確信があったのだ。だって互いに互いの呪文にかかってしまっているのだから。

「うん、いいよ。だから私にも頂戴。」

 キスをする。二人だけの呪いのキスを、自分の為に。ひとつふたつみっつ。支配、憧憬、憤り。よっついつつむっつ。諦観、欲、征服。そうして七回目のキスで、二人は運命の糸を振り払って、罪を重ね合う。明るい御伽の世界の結末から背を向ける度に、絡みつく糸が更に重く歪にその力を強くしていくと気付きながら。
 それでも、キスをして、衝動的に倒された視界がどうしようもなく安心感を募らせた。二人の夜は未だに明けない。








(とけない呪いにかかりました。)
(あなたも、わたしも。)




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素敵タイトルはeerieさま
七番目は色欲。
足場を踏み外した二人。
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