(※数年後設定※)



 膝丈のスカートを揺らしながら、慌ただしい様子でレナは屋敷の廊下を走り抜けていた。顔馴染みの女中たちには大層驚かれたが、悠長に受け答えしている余裕が今のレナにはなかったのである。血相を変えて声を掛ける女中たちに申し訳なさを覚えてつつも、彼女は軽く会釈だけをして、ひたすらに走った。目的地はただ一つ。通い慣れたその場所へとレナの心は急かされていた。
 礼儀や作法に厳しいアーウィンが見たならば、それは口うるさく注意されるであろう。しかし、それ以上に気掛かりな事柄が彼女を突き動かしていたのである。
 レナが辿り着いた先はとある一室。恐らく、彼女が探し求める人物はこの部屋にいるはずだ。いざ息を整え、ノックしようと一歩踏み出した瞬間にぐらりと足がもつれる。きゃ、と言う短い悲鳴の後に彼女の身体は前へと傾いていった。しかし、レナを受けと止めたのは鈍い痛みではなく、穏やかな香りと温かな体温。茫然としている琥珀の双眸が捉えたのは、同じように少しだけ驚いたような灰色の眼だった。

「わー、びっくりした。大丈夫?」
「フレディ?……そうよ、フレディ!」
「えぇっ!ちょっ、レナ?」

 軽やかにレナを受け止めていたフレデリックの腕を、今度はレナが力強く掴む。事の成り行きを把握しきれていないフレデリックは彼女の様子にすっかり気後れしていた。だからといって、レナとて冷静でいられるはずもなく。危機迫るような緊迫した面持ちで、ずいっと爪先立ちをして彼へと詰め寄る。

「婚約って、本当なの?」

 アーウィンから聞かされた話。フレデリックに婚約の話が舞い込んでいるということ。大老師に就任してそれなりに落ち着いてきたとなれば、縁談の一つや二つあっても決しておかしいことではない。しかし、だからこそレナは気掛かりであったのだ。
 彼女の背後で緩やかにドアが閉まる。途端に外界から切り離されたフレデリックの部屋は、昔から変わらない。そんな部屋で彼女が思い出していたのは、数年前のこと。

「それ。何処から聞いたの?」
「……アーウィン。」
「ったく、あの性悪男。」

 昔。まだレナよりもフレデリックが小さかった頃。彼の部屋で聞いたのは、フレデリックの恋の話だった。当時まるで弟のように思っていた少年から聞かされたその話にレナが胸を踊らさないわけがなかった。多少淋しい気持ちはあったけれど、彼女はフレデリックに応援すると微笑んだことを良く覚えている。
 今ではもう背は抜かされてしまって、弟と言えるような立場ではなくなってしまったけれど、レナがフレデリックを大切に想う気持ちは変わらなかった。だからこそ、彼の少年時代の恋を今でも応援しているのだ。少なくとも、レナが知りうる範囲でフレデリックと親密な女の子は居ない。ついこの間問いただしてみたら、未だに片思い中だと渋々ながらも彼は答えていた。

「ねぇ。フレディは、本当にそれで良いの?」

 そんな中、今回の婚約の話が舞い込んで来たわけである。もしもその婚約が纏まってしまえば、フレデリックの想いはどうなるのだろう。そう思った途端に、レナは居ても立っても居られなくなったのだ。
 じっとフレデリックを見つめるレナの肩を彼はすとんと下ろす。ぴったりと床に着いた足にレナは緩やかに顔を上げる。昔は自分よりも小さかった彼の背。今では見上げるのは彼女となった背が、漫然とした時間の流れを知らしめる。さらりと肩から滑り落ちた彼女の髪を慣れたように耳に掛けると、フレデリックはでもさ、と言葉を続けていく。

「仮に俺が婚約したとしても、レナにとって不満なことってあるの?」

 どきりと胸が跳ねた。同時に込み上げるのは、頭が真っ白になるようなずくずくとした痛み。傷ついたなどと大それたことを言うつもりはないが、フレデリックのその言葉に彼女が衝撃を感じたのは確かであった。
 フレデリックが言うことは尤もである。例え彼が何処かの令嬢と婚約したところで、到底レナが関与出来る立場でもない。どのように事が運んだところで、力のない彼女はただ流れを見守るだけだ。

「……確かに、フレディの言う通りだわ。」

 レナは自らの未熟さを強く実感している。今の何不自由のない生活だって、フレデリックを始めとするオーゼンナート家の人々や村の助力あってこそだ。そして昔からのお目付役であるアーウィンの保護もあり、彼女は此処まで来た。いや、来れたのだ。

「私がこんなこと言える立場じゃないのは分かってる。」

 それはフレデリックに向けたものだけではなく、自分に向けた言葉でもある。きりきりと締め付けられる胸に、思わず泣いてしまいそうになるが、その涙をしっかりと押し留めてレナはフレデリックへと一歩踏み出した。

「でもッ!私、フレディに自分の気持ちに嘘なんて吐いて欲しくない!」

 縋るように再び彼へと手を伸ばして、彼女は声を荒げた。
 真実を隠す嘘は時に誰かを泡沫の幸せに導く。誰かを貶めるだけが嘘ではなく、その誰かを護る為に嘘を吐かなければならないことだってある。誰かの為に吐く嘘の犠牲になるのは優しい心。フレデリックが今まさにその心を犠牲にしようとしていると考えたら、レナはどうしようもなく胸が急かされたのだ。
 子供じみたわがままであることは、頭の隅では充分に理解している。だけど。

「だって、だって私、あなたのこと……!」

 ぎゅうと勢いのままにフレデリックにしがみついたまま、はたりとレナは顔を上げる。同じようにきょとんとしている灰色の眼に、彼女は思わず首を傾げた。

「フレディの、こと…?」

 不自然な形で語尾についた疑問。自分はフレデリックに何を伝えたかったのか。そして、何を想ったのか。それをはっきりと言い表す言葉が胸の奥でつっかえて、声にまでならない。その違和感にレナが黙してしまうと、今度はフレデリックが困り果てる番であった。

「ちょっ、そこで俺に投げかけられても困るんだけど!」
「あぁっ、ごめんなさい!」
「……うん。まあ大体予想はしてたけどさ。」

 やれやれと言わんばかりの面持ちで、フレデリックはいきり立っていたレナの肩を窘めた。詰め寄っていた距離を元に戻されると、高ぶっていた彼女の気持ちも次第に落ち着きを取り戻し始めた。そして、頭が冷静になればなるほど、一体自分は何をフレデリックに告げようとしていたのかが益々分からなくなっていく。
 気持ちよりも先に何事かを呟こうとした口元に触れながら、彼女は頭を悩ませていた。そんな頭を、ぽんと軽やかにフレデリックは撫でる。促せるように見上げたレナの瞳が写したのは、彼の優しげな眼差しだった。

「俺こそごめん。」
「どうしてフレディが謝るの?」
「レナがそんなに頭を悩ます必要がないから。」
「それって…。」

 窺うような琥珀色の瞳に、フレデリックは微笑を浮かべて小さく頷く。彼女の額から手を離すと、彼は口を開いた。

「そういう話が出ただけだよ。」
「話だけってことは、…じゃあ正式な婚約じゃないってこと?」
「そ。だからそんな大袈裟な話ってわけじゃないんだ。」

 普段通りのにこやかなフレデリックの笑みに、不思議と心が和らいだ。ふんわりと張り詰めていた緊張感が解かれるのと同じくして、不意に頭を過ぎったのはこの短時間で自らが起こした破天荒な言動たち。フレデリックの婚約が正式な話ではないと分かった今、途端にレナを気恥ずかしさが襲う。
 頬に熱が集まるのを感じて、反射的に彼女が顔を隠すように手を伸ばそうとすると、不意にフレデリックがその手を引き留めた。何処か性急さと強引さが滲むその力に、レナは頬が赤くなっていることも忘れてフレデリックを見上げた。

「安心、した?」
「え?」
「俺が婚約しないって聞いて。」

 見透かすように細められた眼に、どきりと胸が答える。フレデリックの婚約の話を聞いて気が気でなくなったのも事実であるし、彼自身の口から婚約を否定されて不思議と心が落ち着いたのも本当のこと。安心。彼がそう言ったように、今のレナの心中を埋めるのは穏やかな安心感だった。
 躊躇いながらもフレデリックの問い掛けに小さく頷くと、すんなりと彼はレナを引き留めていた手を解いてみせた。

「なら良いよ。」
「良いって何が…、」
「俺もレナと同じ気持ち。」

 今日一番の笑顔を浮かべたフレデリックは、レナの返答を待たずにくるりと踵を返す。大きな背中だけを向けられてしまって、結局レナは何も言うことは出来ない。ただただ頬に残る熱を感じながら、彼女は胸にじんわりと広がる不可思議な気持ちに困惑した。
 ああもう。こんなときに、そんな笑顔ってずるいよ。なんにも考えられなくなっちゃうじゃない。



(もうとっくに時間切れ)
(あとは君が気付くだけだよ。)






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素敵タイトルは少年チラリズムさま。
向こう見ず、嘘がつけない、わがまま。そんな感じでフラグをへし折るレナさんが書きたかった。この二人は無自覚のうちにそれはもういちゃついてそうですね。
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