本当に一瞬の出来事だった。息を吐く暇さえもないほど時間に萩間の視界は暗転した。人を柔らかに受け入れる用途に作られていない床は鈍い衝撃を持って彼を突き放す。声に出せない痛みに悶えながらも、萩間は現状を把握するべく目を凝らした。
 ぼんやりとした輪郭が見える。二、三度瞬きすると漸くはっきりとした姿を捉えられた。勿論、萩間の目の前に居る人物なんてたった一人しかいないのだけれど。
 さらりと艶やかな毛先が彼の頬を撫でる。その奥で漆黒の瞳が黙したまま、萩間を冷ややかに見下ろしていた。本来ならば、彼女という存在は既にこの世には存在しない。生きている者ならば誰もが必ずしも持ち得る肉体を彼女は持ち合わせていないのだ。かつて起きた事件のせいで、歪で悲しい恋心と共に彼女の心だけが、肉体を離れてこの世に留まってしまったのである。

『ああもう、苛々するわ。』
「さとみ、ちゃん?」

 ある夜をきっかけにして、萩間とさとみの共同生活は始まった。萩間が彼女が求め続けた“せんせい”ではないと認識した直後、さとみはあのアパートの一室から姿を消した。しかし、しばらく経ってから再び彼女は神出鬼没に部屋へと出現するようになったのだ。言わば、現世に留まる迷子であるさとみは、結局、この部屋に戻ってくることしか出来なかったらしい。
 戻って来たからといって、四六時中部屋に居るわけでもないし、現れては消えるという繰り返しの日々だった。それを聞いて、事の顛末を知っている浅葱は決して良い顔(普段から仏頂面だけど)をしなかったが、萩間は特に気にする素振りを見せなかった。さとみがかつて忘れてしまった日常を思い出すことで、正しい道を見いだせるかもしれないと思っていたからだ。
 しかし、今目の前に居るさとみはこれっぽっちも楽しげな様子はない。苛々する、吐き捨てるように告げられた言葉に、青白い手がするりと伸びてきた。

『ねえ。あたしの手の感覚分かる?』

 さとみの手が押し当てられたのは、萩間の胸。一定のリズムを刻む心臓の上だった。視覚を通して見れば、彼女の手がそこにあると把握出来る。しかし、実体を持たないさとみが触れている感覚を得ることは出来ない。彼女が幾ら力を込めて触れようとも、さとみの手が萩間に触れることは絶対に有り得ない話なのだ。
 返答に困り果てた萩間の様子を見下ろして、彼女は不遜げにほくそ笑む。

『分かるわけないわ。でもね、あたしには分かるの。あんたが、生きてるってことが。』

 息遣いでも、温い体温でもない。彼女の生の判断基準は柔らかく脈打つ鼓動。僅かに跳ねる萩間の胸が、さとみに彼が生きてると告げていた。
 きっと何かに眉を顰めたさとみは、きゅうと萩間のシャツをしわくちゃになるまで握り締める。

『……どんな心臓をして、どんな色をしてるのかしらね。』

 這い寄るような低い声に、ひたりと背筋に冷たい汗が滑っていくのを感じた。確かにさとみは死者である。実体もなければ、その存在自体脆弱なもの。しかし、死者だからこそ、成せる荒技も持ち合わせているのだ。人を殺すことさえも可能な能力。事実、萩間だってその手によって殺されそうになったこともある。
 けれども、彼は全くもって予想外の言葉を発した。萩間自身もまた無意識のうちに。

「何か、あったの?さとみちゃん。」

 情けなく震えていた声だったが、さとみの暴挙を押し留めるぐらいの力はあったらしい。冷笑を浮かべていた口元は不自然に凍りつき、我に返ったように彼女は萩間から少しだけ距離をとった。そこにあったのは険しく顰められた眉ではなく、不満げにむくれた顔。
 あの一瞬で見せた表情とは打って変わった子供じみたその顔に、驚くのは萩間の方だった。

「えぇっ?!ちょ、ちょっと!どうしたの?」
『…うるさい。ほっといて。』
「だ、だって、さとみちゃん何か怒ってるみたいだから…!」
『うるさいわよ。それに、大体怒るのはあんたの方でしょ。』

 唇を尖らせて、彼女は黒髪を揺らしてふわりと萩間の上から退いた。器用に宙に浮いてみせたさとみは、腕を組みながら萩間を睨む。
 確かに怒ってはいるが呆れという要素が強いらしく、その空気に後押しされるかのように思わず苦笑いを浮かべてしまいそうになるほどだった。さとみの雰囲気が変化したように、場の空気もまた一変したのを萩間自身が知覚したからである。
 どうやらその安堵感が顔に出てしまっていたらしく、さとみは訝しげな眼差しを萩間へと向ける。

『何よその顔。』
「はは、なんか安心したら、気が抜けちゃって。」
『ヘンな顔。』
「へ、変な顔って!ひどいよ、さとみちゃん!」

 がばりと勢いよく起き上がった萩間に、さとみはつんとそっぽをむいてしまう。長く伸びた髪のせいで、彼女の表情はすっぽりと覆い隠されてしまっていた。
 不意に俯いたさとみの肩から、さらりと髪が流れた。更に深く彼女の表情を隠した中で、さとみは口を開いた。

『勝手に名前、呼ばないでよ。』
「え?……じゃあさとみちゃんのこと、何て呼べばいいかな?」
『だからそういう意味じゃないの。』

 さとみが言わんとしていることの見当が全くつかない萩間は困惑してしまう。察しが悪いのは自他共に認める萩間の短所でもあるのだが、そう易々と改善できるわけでもない。その結果として今の現状を作ってしまったのだから。
 伏せられた横顔は尚更に萩間の混乱をふつふつと煽る。さとみの心境を把握すべく必死に思案する萩間へと、小さな笑い声が落とされた。はっとしたように思考の海から萩間が帰ると、いつの間にかさとみは彼の顔を見つめていた。
 その表情は優しげでもあり、苦しげにも見える。ちくりと胸が痛むような、そんな表情。

『本当。あんたって腹立つ。』

 普段と変わらない辛辣な言葉。しかしその声音は穏やかなもので、不思議な違和感を残した。さとみの暴挙もその違和感の真意を萩間が理解することは出来なかった。
 聞けば良かったのかもしれない。優しく声をかけてあげれば良かったのかもしれない。でも、そうすることで再びさとみを日常から遠ざけてしまう。そんな一抹の不安が漠然と込み上げ、萩間は口を噤んだ。そんな萩間を一瞥すると、ひらりとさとみは姿を消した。



(きらいって言っても)
(どうせ、腑抜けた顔で笑うんでしょ。)



************
素敵タイトルは花畑心中さま
萩間くんの鈍さと剽軽さに浅葱さんは勿論ですが、さとみちゃんも振り回されてそう。ぶんぶん振り回されるけど、何故だかほっとけない。そんな一夜組。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -