この身体は、とても便利なものであると気がつくのにそう時間はかからなかった。老いを忘れた肉体は、永遠に同じ時間のまま生きていく。治癒能力だって、並みの人間とは比べものにならないし、突然の死という恐怖感を感じずに生活を営むことが出来る。夜目だって効くし、そして何よりも空腹という感覚がないのだ。好きな食べ物、嫌いな食べ物、そんなものを選りすぐって食べるという行為をする必要がない。
 ある人が聞いたならば、なんと羨ましいと感嘆し懇願するかもしれない。またある人が聞いたならば、なんとおぞましいと怯え戦慄するかもしれない。御伽噺にでも登場するかのような、そんな特殊な存在が、まさかこんなに近くに存在するだなんて、夢にも思わないだろう。
 しかしレナにとって、それは御伽噺でも夢でもなく、確かに現実の出来事であったのだ。

 血の匂いが消えない、そう気付いたのは“村”へと越してきて数日が経ってからだった。最初のうちは、お目付役であるアーウィンが怪我をしていたり、彼女自身もまた深手を負っていた。それに毎夜毎夜、血生臭い場所をさ迷っていたのだ。嗅覚の感覚が麻痺していても、何ら不思議なことではない。いずれ元に戻ると思っていた。しかし、その考えとは裏腹に、彼女の周りに纏わりつく血の匂いはより濃厚にその香りを強めていく。そうして悟ったのは、その血の香りは彼女自身が発しているという事実であった。






「――それ以上先に進むと危ないよ。」

 轟々と容赦なく雨が降っている。無遠慮に責め立てる雨の世界で、少年の声だけがはっきりと響き渡った。その声に足を止めた彼女は、漸く宛もなく前進することを止めたようであった。
 時刻は夕暮れ。快晴の一日であれば、決して彼女はこんな入り組んだ森まで駆けていくことなど出来るはずがない。陽の光を有り難く感じる人間とは異なり、夜の住人である冥使や央魔は陽の光を受け入れることが出来ないのだ。曇天の雨空だからこそ可能であったこと。そうでなければ、麗らかな太陽の日差しに、道中で彼女は意識を失っていたであろう。

「鬼ごっこはねえちゃんの負け。だから、もう帰ろう?」

 少年は息一つ切らさずに雨の中に佇む。しかし、対する彼女は弱々しく肩を揺らしていた。慣れない場所を延々と駆けていたのだ。おまけに、地面は雨のせいでぬかるんでいる。余計に体力が削がれてしまったとしても仕方のないことであった。
 はあ、と大きく息を整えたのは当然、彼女。しっとりと重みを増したワンピースの裾を握り締めながら、レナ・タウンゼントは観念したように少年へと振り返った。

「フレディはすごいわね。息切れ一つしてないもの。」
「まあ、昔からここらを走り回ってたからね。」

 鈍色の空の下。例え雨に無防備に打たれたところで、少年の凛然とした面持ちはぴくりとも変化することはない。眩いほどに力強い輝きを放つグレーの眼は、レナを冷静に見据えている。フレデリック・オーゼンナートという少年は、頭の良い強かな男の子だ。冷静さを失いはしないが、その中ではさまざまな思考に頭を巡らせているのであろう。そんなフレデリックと対峙しているのはレナ。彼女に少年の目をかいくぐることの出来る逃げ道などあるはずがなかった。それは、フレデリックでなくとも、あの世話人の青年であったとしても同じことであっただろうけれど。
 そんな少年に追いつかれてしまったのだ。これ以上、宛もなく走り回るつもりは彼女にはなかった。雨滴を素直に受け入れ続けるレナの様子に、彼女がもう逃亡するつもりがないと認識したフレデリックは、ざりざりとブーツを鳴らしながら、レナの目の前へと近付いた。

「お互いすっかり濡れ鼠になっちゃったね。とりあえず、これ羽織って!」

 気休めでしかないけど、と眉を下げて、フレデリックはレナの肩へとコートを掛けた。それは、いつも少年が着ているものである。雨でその色彩をずっしりと濃くしているが、レナがそのコートを見間違えるはずがなかった。ふんわりと漂った、日溜まりのような少年の香りも。

「どうして、何も聞かないの…?」
「聞いて欲しいの?」

 フレデリックは和やかな眼差しを崩さない。その眼差しを受けるレナは、まるで雨空に捨てられた子犬のように朧気である。その姿に、先ほどまでこの悪天候の中ひたすらに走っていた強かさはとてもではないが見受けられない。
 レナの小さな息遣いは雨音に吸い込まれる。しかし、その肩が震えるたびに濡れた髪からはらはらと滴がこぼれ落ちた。そんな様子を眺めていたフレデリックは、柔らかく微笑むと、雨に濡れた蜂蜜色の髪に手を伸ばす。

「無理強いして聞くつもりはないよ。いつかねえちゃんが話したくなったら話せばいいから。」

 すいと伸ばされた少年の手に、レナは思わず肩を跳ね上がらせた。びくりと揺れた華奢な身体に、フレデリックは少しだけ躊躇する。が、すぐにその手は改めて、レナの髪を撫でた。ね、と促すようにフレデリックが首を傾げると、レナは強ばらせていた肩の力をふつりと解いたようであった。
 どこか怯えていた瞳は、みるみるうちに悲観に染まっていく。不意に俯いた彼女から、再びはらはらと滴が落ちていった。

「ねえちゃ、」
「血の匂いが、消えないの。」

 ざあざあと鳴り響く騒音の合間に、レナのか細い声が突き抜けていく。気を抜けば簡単に雨音にかき消される言葉であったが、彼女の露わになった感情は確かにフレデリックには届いていた。
 肯定も否定もしない力強い少年の眼差しに、レナの張り詰めていた感情はするすると滑り落ち始めていく。

「どんどん強くなって、血が、離れていかないの。」

 雨が降り止まないのと同じように、一度枷を外した感情はとめどなく溢れ出ていくものだ。
 レナが感じる血の香りは、最早彼女にとっ切り離せるものではない。どんなに重たい現実であっても、彼女自身が引き摺ってでも背負わねばならない事実。はらはらと落とされたのは紛れもないレナの弱音であり、しとしと降り注いだのは拙い本心であった。背負いきれずに落としてしまった、本当の気持ち。

「私から、全然、消えていかないの。」

 震える声に合わせて、ようやくレナは涙を零した。それでも頑なにフレデリックに詰め寄ることはせず胸元で両の手を合わせて、しっかりと彼女は自分自身の力で佇んでいた。今にも手折れてしまいそうな脆弱さと、屈することをしない強固な意志を纏いながら。
 何処か悲痛なその姿に、フレデリックは胸を軋ませていた。普段おとなしいレナからは想像もつかないこの暴挙の理由も、彼女の本心が本当は一体何に嘆いているのか、彼女以上に気付いてしまったからである。
 だからこそ。その背負いきれなかった本音を必死になって抱き留めようとして、たった一人で佇んでいるレナは、フレデリックの眼には大変気高く、そして大変痛ましいものに写っていた。

「大丈夫、」

 フレデリックは語りかけるような穏やかな口調で、レナの手に触れた。小刻みに震えながらも、彼女自身を守ろうとする両の手を少年はとても優しく包み込んだ。雨に濡れた手はひどく冷えていたけれど、ぎゅうと触れ続けていくうちに熱を帯びていく。人間の体温とはそういうものだ。
 その温い人間の体温を感じていくうちに、次第にレナの手は絆されていく。ゆっくりと彼女の本心を守ることを止めた手に、フレデリックは優しく微笑みを浮かべる。レナはその優しさに、大きく肩を震わせた。

「大丈夫だよ。」

 そうしてようやく、彼女は一人で佇むことをやめた。
 降りしきる雨の中、二人は身を寄せ合う。少年は小刻みに肩を震わす彼女の背中を、宥めるかのように撫でた。みるみるうちに、レナは大きく嗚咽を零していく。フレデリックは彼女の涙に耳を傾けて、弱々しい本心を受け入れた。
 レナの身体は体温を持たない。どれだけ身を寄せ合っても、彼女の身体が熱を持つことは二度とありえないのだ。その冷ややかな身体を包むのは、人間であるフレデリックのぬくもり。その事実は無情にも柔らかくレナの心を踏みにじる。しかし、覆ることのない事実ごと受け入れたフレデリックの実直な優しさに彼女の心は救い上げられていたのだ。
 その辛い現実と同等の優しさに、レナは更に涙する。力が抜けてしまったらしいレナの身体は泥水へと膝を着けた。壮大に膝を打たずにすんだのは、彼女と同じようにフレデリックが膝を着いてくれたおかげであろう。お互いの衣服が泥だらけになるのを厭わずに、暫くの間、緩やかな時間に身を委ねていた。

「……オレも、」
「え?」
「オレも、同じだから。」

 レナの気持ちが落ち着いたのを見計らって、フレデリックは彼女の身体からゆっくりと離れる。優しい声音と穏やかな眼差しを受けたレナは、大きく瞳を見開いた。ぞわりと跳ね上がった心臓に、彼女はただ一つだけあることを悟った。その瞬間、雨音だけが二人の間を通り過ぎていく。レナの心を支配していたのは、先ほどまでの悲しみでも嘆きでもない。焦燥と恐怖だけが、瞬く間に彼女の心を支配した。
 フレデリックの頬を伝っていく雨滴を目で追いながら、今度はレナがフレデリックの肩を掴んだ。違う、と口を開きかけたレナの声は突然陰った視界にすっぽりと飲み込まれていく。雨の音だけが遠退いていった。

「こんな雨の中、話し込んでいる馬鹿がどこに居るんですか。」

 濃紺の傘を傾けていたのは、仏頂面を称えたアーウィン・ノルティであった。突然の登場に目を丸くしている二人だったが、よく頭を巡らせれば、アーウィンが此処に辿り着くのは当然のことである。屋敷から飛び出したレナに、それを追いかけたフレデリック。そんな二人を、過保護なアーウィンがみすみす放置しておくはずなどありえないことだ。
 雨滴から逃れようともせず、おまけに泥だらけになりながら膝を着いているフレデリックとレナに、アーウィンは臆することなく眉を顰めた。

「……ああ、此処に居ましたね。」
「うっわ、感じ悪!」
「馬鹿者。寧ろ感謝して貰いたいものだが?」

 アーウィンは尊大にはっと鼻で笑うと、傾けていた濃紺の傘をフレデリックへと押し付ける。不満そうに顔をしかめたフレデリックではあったが、アーウィンの無言の指示に渋々とした面持ちで従った。
 そして、青年自身が掲げていた黒い傘をレナへと傾ける。冷ややかな眼差しで見下ろされた彼女は、困惑気味に瞳を泳がしていた。しかしながら、レナの困惑を払拭するかのように伸ばされたアーウィンの指は、レナの目元を優しげに拭ってみせた。

「全く貴女という人は…。立てますか?」
「ごめんなさい、大丈夫よ。」

 レナはアーウィンの支えを受け、ようやく再びようやく立ち上がった。雨と泥水で汚れたワンピースはずしりとした重みを纏っており、その重みが彼女らがどれだけの時間この空の下に居たかを、ありありと証明していた。汚れた服を纏うフレデリックとレナを交互に見たアーウィンは、大層恐ろしい形相で二人を睨んだが、それ以上深く問いただす様子はなかった。

「兎も角、さっさと戻りますよ。」
「それもそうだねー、この格好じゃ埒あかないし。」

 アーウィンの言葉に珍しく素直に従ったフレデリックは、ぷらぷらと傘を揺らしながら踵を返す。そのフレデリックの背中を、レナはアーウィンの傍らで眺めていた。ついさっきまで、あれだけ近くにあった背中。しかし、彼女には少しだけ遠いものに写っていた。
 些細なあの一瞬。フレデリックがレナの言葉に頷いた瞬間に込み上げた焦燥と恐怖は今でも彼女の心に暗い影を落としていた。少年が彼女の嘆きの意味に気付いたように、彼女もまた少年の脆さの一片を垣間見たのである。

「、フレディ。」
「ん?どうしたの?」

 恐る恐るといったようにレナがフレデリックに声を掛ける。しかしそのレナの萎縮ぶりとは異なり、フレデリックは至って平然としていた。彼女の目の前に立っている少年は、レナの良く知りうるフレデリック・オーゼンナートだった。
 もう既に、あの雨に打たれ身を寄せ合った刹那のフレデリックはどこにも居なかったのだ。

「ごめんなさい、……なんでも、ないわ。」

 レナは言い掛けた言葉を微笑みながら飲み込む。彼女とてあの一瞬を忘れたくはない。しかしそれと同等に少年に、あんな感情を思い出して欲しくないという我が儘な想いがあった。幸いなことに、レナの謝罪に対してフレデリックが深く言及することはなく、会話はそこで終わった。
 彼女を囲う血の匂いは変わらない。その事実に対するさまざまな感情は、未だに彼女に留まったままだ。しかし、その葛藤とは異なる複雑な感情が、確かに、彼女の心を捉えつつあった。
 黒衣の傘の下で、レナは立ち尽くす。胸を埋め尽くす感情たちに、彼女は無意識のうちに肩に掛かったコートを握り締めていた。ぼとぼとと切なく泣く雨音に気を取られ、そのことに彼女が気がつくことはなかった。











「…これだから子供は面倒ですね。」

 アーウィンは少年と少女の様子を一頻り静観すると、溜め息混じりにそうぼやく。傍目から見ても、時折この二人が放つ悲壮感というのは並みの人間よりも一際目立つものを背負っていた。それをお互いに無自覚に閉じ込めて日々を過ごしてるさまは、誰が見ても痛々しく写る。お互いの脆さに自覚すれば話は変わってくるのであろうが、二人の互いに対する謙虚さと鈍さがその自覚を遠ざけてしまうだろう。ややこしい関係ではあるが、そのことにアーウィンが口を出すつもりは毛頭もなかった。
 アーウィンの傍らに立つレナは、何か言った?と背の高い青年を見上げる。その少女に対して、アーウィンは首を横に振って何事もないように振る舞った。青年はもう少しだけ、何処か痛ましい少女と少年の様子を見守ることにしたのである。



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素敵タイトルはeerieさま
雨というシチュエーションは雰囲気があって良いですね。
フレ→←レナの場合、無意識のうちにお互いを大切にし過ぎて傷つけてしまってそうな感じがします。それに気付いてるアーウィン。そんな凸凹な三人が好きです。
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