懐かしい香りがした。それはとうの昔に、忘れたと思っていたはずの香り。華やかで芳しいその香りは、いつだって優しさの象徴であった。
 それはまだ何も知らない無知だった頃の話。屋敷という穏やかなお城で、病弱なお姫様で居られたときのこと。視界のすみっこで、眩いブロンドの髪が靡く。

「レナ、今日は絵本を買ってきたの。」

 とても綺麗な人だった。自分の髪色とは異なる、輝かしい金色の髪。理知的さを滲ませる碧眼の双眸に、レナはいつも憧れていた。

「熱は大丈夫?無理しちゃ駄目よ。」

 とても優しい人だった。無償の愛を注いでくれたその眼差しに、てのひらに、何度幸せを貰ったのだろう。とても大好きで、自慢の人だった。

「――だったらもう、優しくする必要はないわよね?」

 そしてとても、嘘吐きな人だった。突きつけられた現実と、偽りだった思い出たち。欲にまみれた顔は、醜い執着と強固な意志で恐ろしい形相へと変貌していた。しかし、その表情こそが紛れもない本当の彼女の姿だった。それに気付くことなく、凄惨な現状を招いたのは一重に浅はかな自分が招いた過失。

 ――さようなら、おかあさん。

 引き金を弾いた瞬間。その弾丸が正確に女を貫いたのをはっきりと覚えている。母を殺した手の感触も、確かにその手は覚えていた。



 永遠に自分を苛み続けるであろう悪夢から目を覚ます。正確に言うと、まだ完全に夢から覚めたわけではない。
 安定しない不明瞭な視界。まるで身体が浮上しているかのように不安定な足場。何処が上で何処が下なのか。はたまた左右さえも分からない不思議な空間。彼女はこの空間にとても見覚えがあった。
 自分の心が不安定なとき。あの悪夢にうなされたとき。必ずと言っていいほど、レナはこの場所へと誘われる。正確には、自分から行っているのかもしれないし、引きずり込まれているのかは分からないのだけれど。

「レナァ?」

 声がした。聞き慣れた自分の声。だけれども、幼さを残す声音はちょっとだけ自分の声とは違うようにも聞こえる。
 振り返えろうにも、耳を澄まそうにも、自分の身体が存在していないことを思い出した。
(ええと、確か自分の意志をしっかり持つのだっけ?)
 この空間に、レナという存在はあまりにも不可思議な存在なわけである。だから、この場に訪れる度にレナ自身が自分の意志をはっきりと持たないと、“レナ” という存在はこの空間に象ることが出来ないらしい。だから、強固なる意志を持って、自分の身体やその感覚を思い出さなければならないのだ。
(まずは落ち着いて、瞼を閉じるという感覚から思い出す。)
 瞼、目、鼻、唇。顔の輪郭、髪、首、胴体、腕、手のひら。そして、太股、足。ゆっくりと呼吸しながら順当に行っていくと、ぐん!という強い衝撃にはっきりと意識が繋がったのを感じた。

「レナァ!」

 嬉々とした声に今度は確かに瞼を開いて、振り返る。レナの目線の先には、同じ顔をした赤い目を持つ影が存在していた。

「ちょっと久しぶり、かな?」

 ここはもう一人の自分、影の空間なのだそうだ。どうも曖昧になってしまうのは、レナ自身がこの状況をうまく説明出来ないからである。だから、初めて夢の中で影のもとへと辿り着いたときは本当に戸惑った。
 そんな彼女が、今、知り得る情報を教えてくれたのは、優しい男性の声だった。知らないはずの声音。だけれど、とても聞き心地がよくて自分の身体に馴染むように聞こえたそれ。その声の主の姿形を見ることは叶わなかったけれど、その声だけであれだけ不安だった心がすっかりと安心という言葉で埋まってしまったのだから、不思議なものである。自分の姿の象り方を教えてくれたのも、その男性の声であった。

「レナ!レナ!」
「ふふ、ほら落ち着いて。大丈夫、私は此処に居るよ。」

 小さな身体が力一杯しがみついてくる。するすると頬をなぞる長い舌に、レナは微笑んだ。ぎゅうと力強く抱き付く腕と、頬を撫でるだけの舌。それが影なりのウレシイという気持ちの表れだということに気がつくのは、そう時間はかからなかった。それは、レナにとって影は大切な自分の半身だからである。
 本来ならば、この空間のことも、影の存在も、あの優しい声のことも。昔からの世話係の青年や、何かと面倒を見てくれる少年に告げるべきなのだろうけれど、何故だか言ってはいけない気がしたのだ。

「レナ、ウレシイ?」
「うん。貴女に会えて嬉しいよ。」

 そう言って、影の身体を抱き締め返す。冷たいその身体は自分の体温と馴染むかのように、心地が良かった。
 影が孤独な存在であったことは融合した瞬間に知覚した。表の存在であり、人間だったレナには母はとても優しく愛してくれていた。しかし、裏の存在であり、冥使として存在していたレナには、母はとても厳しく冷酷な人物であった。
 影は、誰かに愛された記憶がないのだ。いつだって向けられる眼差しは過大で歪んだ期待と、悪意。その影の暗闇を共有していく度にどうしようもなく胸が痛んだ。

「今日は何のお話しよっか。」

 私生活の中でも、時々影が経験した記憶が顔を出すことがあった。もちろんそれは、恐怖や痛みを伴う辛い記憶である。突然、灯りのない暗い空間に追いやられたりすると、あの修道院での情景が脳裏に過ぎって震えが止まらなくなったりすることがあるのだ。それはまさしく、目の前の影の記憶。

「オハナシ、スキ!」
「じゃあ、今日は御伽噺にしようね。」

 レナ自身が向けられていた愛情も醜い欲の建て前でしかない、偽りの愛だった。だけど、そのときに芽生えた幸せは紛れもない事実だったから。その幸せを、影にも感じて欲しいと思ったから。
 ――だって、二人だけのレナだもの。
 不思議そうに赤く染まった瞳を瞬きする影。そんな彼女を宥めるようにして、穏やかに微笑んだ。

「私の目が覚めるまで、貴女が眠りにつくまでの秘密よ。」



 きっとそれは短い時間でしかないけれど。少しだけでも、彼女に幸せをあげたかった。自分がそうしてもらったように。




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素敵タイトルは誰そ彼さま

レナと影レナは姉妹みたく仲良くしてたら良いなと思います。それを温かい目で見守る初代様とかいらっしゃいましたら、大変素敵ですね……!
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