柔らかな重みと鼻腔をかすめた甘い香りに、緩やかに眼を開いた。真っ暗な部屋の中で浮かび上がっている赤く濡れた瞳を、ただぼんやりと見上げる。
 肩に押しかかる重みは自分にとって、大した脅威ではない。今にも折れそうな四肢に青白く華奢な身体など、簡単にねじ伏せることが出来るからだ。だから、フレデリックは狼狽することも、焦燥することもなく平静さを保っていた。
 その空気に耐えきれなくなったのは、事の当事者である目の前の人物だったようだ。

「怖くないの…?」
「なんで?」

 淡々と落とされた言葉に、フレデリックも冷静に返す。弱々しい力が腕にかけられ、無防備に晒されている喉元を冷ややかな手のひらがなぞった。

「フレディのこと、どうにかしに来たかもしれないのに。」

 赤く濡れた瞳が煌々と輝く。
 その珍しい色彩の瞳と、異常なほどに低い体温が眼前の少女が人間ではないということの紛れもない証拠である。
 拙い言葉で呟かれたのは、彼女らしからぬ随分と物騒な単語たち。そんな彼女を、自嘲気味に見上げてみせる。

「どうにかって、なに?」
「人間じゃない私たちにしか出来ないことって言ったら。」
「あは、そりゃ物騒だ。」

 人間でない、彼女たちのような存在が出来ること。数々の単語が脳裏に過ぎるが、どれも全て次期大老師と羨望され、オーゼンナート家を背負わざるを得ないフレデリックにとって、プラスになることはなくマイナスになる要素しかない。
 ましてや、その結果次第ではフレデリック・オーゼンナートとしての人生すらも危ういものになる。たった一人の人間の運命を大きく左右してしまう能力を、レナ・タウンゼントは秘めているのだ。今にも手折れてしまいそうな華奢な身体に不釣り合いな力をこの少女は持っている。誰かを傷つけることを嫌うレナにとって、その人間離れした能力はあまりに残酷なものだも思う。

「オレがすることなんて、決まってるでしょ。」

 もしもレナが最大の禁じ手を行った場合、フレデリックが下さねばならない決断はたった一つしかない。それが、オーゼンナートの第七子として生まれ、次期大老師たるフレデリックの使命だからだ。
 組み敷かれた身体の合間から、右手を真上へと掲げる。冗談めかして拳銃の形を模しながら、フレデリックはレナの心臓を指し示す。
 その指先に、赤い瞳が揺れた。ふと伏せられた睫に、震える唇が言葉を続ける。

「そうしたら、どうするの…?」

 悲しいまでに低い体温のてのひらが、フレデリックの右手に触れる。その体温に促されるようにして、彼は手を解いた。

「分かるだろう?レナ。」

 諭すように微笑むと、雪のように白い指を静かに掴んだ。
 もしも彼女が生きていけない世界ならば、それはフレデリックにとっても、生き難い世界だということ。あまりにも冷酷な世界と定められた人生のレールの上で生きている二人は、立場や今に至るまでの経緯は違えど、とても似ているから。
 もしもレナが死なねばならぬ世界ならば、彼の人生もまた死を受け入れなければならないのだ。
 フレデリックのその笑みに、レナは顔を悲痛げに歪める。今にも泣き出しそうな顔を伏せて、繋いだままの手に額を寄せた。

「…ごめんなさい。」
「ん、大丈夫。」
「こんなことがしたいわけじゃないの。…ごめんね、フレディ。」
「ちゃんと聞こえてるよ。」

 右手に落とされた涙を、フレデリックは優しく引き寄せる。肩を下げて小さくなりながら涙を流すレナの身体を、彼は抱き締めた。
 小さく押し殺すようにして震える背中を促すように軽く叩くと、ようやく彼女はフレデリックに身を寄せて、大きく肩を揺らしながら、さめざめと泣き出したのだった。

「ごめんね、ごめんなさい。」
「うん。」

 そっとレナの蜂蜜色の髪を梳くようにして撫でる。
 ここ最近、彼女がこのように宛もない焦燥と不安に駆られてフレデリックの元へと訪れることは決して少なくはなかった。途方もない真っ暗な闇に惑わされて脅えるレナは、まさに人間のそれと変わらない。寧ろ、そこらの人間たちよりも、人間らしいようにもフレデリックは思えたのだ。

「でも、私、どんなに辛くても、」
「うん、なぁに。」
「フレディに生きてて欲しいよ。」
「大丈夫、オレはちゃんと生きてるから。」

 レナの背中を軽く押して、抱き寄せていた身体を少しだけ離す。そして、フレデリックは自分が確かに生きていることを示すかのように、レナの頬に手を重ねた。そのフレデリックの手を、レナは震える両手で触れる。じんわりと溶け合う体温に、レナは瞼を閉じて静かに頷いた。
 それに合わせて、しとやかに一粒の涙が彼女の頬を滑り落ちていく。懸命に微笑を浮かべながら、柔らかに瞳を細める彼女はぞっとする程に綺麗なものだった。再び開かれた双眸は赤みを帯びているものの、それは血に飢えた目ではなく、人間が生理的に起こるものと同じもの。
 まさしく、その瞳の色はレナが人間の心を持ち合わせていることの何よりもの証拠である。

「…レナ、」

 ありったけの愛しさを込めて囁きながら、フレデリックはレナの瞼へと唇を寄せる。突然のことで息を飲んだ彼女の様子に気付きながらも、彼は穏やかに微笑んだ。

「オレもレナに生きてて欲しいよ。」

 だって、君が居て始めて綺麗で尊いと思えた世界だから。
 その言葉に驚いたように涙で濡れた瞳を大きく見開いたレナが何事かを口にする前に、再びその身体をフレデリックは抱き寄せた。







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素敵タイトルは誰そ彼さま
とりあえずごめんなさい。
当初はもっと言い回しがストレートだったのですが、最終的に今のような感じになりました。
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