(※転生ネタ※)
(※捏造しまくり※)




 もう全部が嫌になった。次期大老師候補だなんて重苦しい肩書きも、それに比例するように重くのしかかる人々の重圧も。それに拍車をかけたのは、いつも嫌味ったらしい祓い手のリーダーの一人である人物の一言だった。それが引き金になって、今まで耐えてきた祓い手の鍛錬から逃げ出したのだ。
 兎に角、がむしゃらに走った。屋敷に居たところで心が安らぐこともなければ、あの鍛錬の場へと引き戻されるのが常だ。だから、村をひたすらに走り抜けた。人の居ない方へ。森の奥へと。とてもではないが人が通れないような道を通り抜けて、辿り着いた先は、小高い丘だったらしい。ただ、勢い余って丘から足を踏み外してしまった為、頭がここを丘だという認識をしたのは、不快な浮遊感を感じてからだった。

「いってぇ〜…。」

 先ほどまで自分が居た場所は、今は真上にある。 そこまで高い斜面というわけではなかったので、受け身をとることが出来たものの身体の節々が痛い。つくづく踏んだり蹴ったりな一日だ。内心で悪態を吐きながら、じんわりと責める身体の痛みに悶えながら上体を起こすとぼすん、と何かが転がる音がした。
 反射的に顔を向ければ、舗装された砂利道の奥に小さなバスケットがころりと転がっていた。そして、その横で立ち尽くす白いワンピースの裾。たおやかな風に裾を揺らしながら、小柄な女の人が立っていたのだ。その瞳を大きく見開きながら。

「君は……!」

 木漏れ日の光を受けながら、女の人は信じられないものを見るかのように両手で口を覆っている。まあ突然、葉っぱまみれの男の子が落ちてきたら驚くのは当たり前だろう。しかし、女の人のその狼狽さはそれだけではなさそうに見受けられた。
 ふんわりとした長い髪に同色の瞳。綺麗な琥珀色の瞳は目一杯見開らかれている。雪のような白磁の肌にか細いその四肢は頼りなさげで、村に居る女性たちとはまるで違う。何処か頼りなく危うげなその姿は、フレデリックには物珍しく映った。
 でも、その琥珀の瞳だけは見覚えがあるように感じたのは何故なのだろう。こんな女の子らしい人は初めて見たはずなのに。

「いけない!大丈夫?!」

 暫く経ち、漸く女の人は慌てたように上半身だけを起こしたままのフレデリックへと駆け寄って来た。今までに嗅いだことのない甘い香りが鼻について、思わず胸が高鳴る。
 そんなものをお構いなしに、女の人は無遠慮に顔やら手やら足やらに触れていく。冷たく柔らかな感触にむずがゆさを感じつつも、どうにも振り払うことは出来ない。細い肩から蜂蜜色の髪が滑り落ちて、フレデリックの腕を悪戯になぞった。

「ちょっと打撲してるみたいね…。立てる?」
「たぶん大丈夫、デス。」
「そう。なら良かったわ。」

 優しく身体を労る手に、香り。慣れないことばかりのそれにフレデリックが狼狽えるばかりだ。花が綻ぶような微笑みに、どう反応していいのか困ってしまう。初対面の相手にはもう少し不躾な態度をとれるのだが、どうにも目の前の女の人にはそんな態度がとれそうにない。

「ここでまた巡り会ったのも、きっと何かの縁ね。」

 遠目で見たときは、十代後半ぐらいかと思っていたが近くで見るとその顔にはまだ幼さが残っているように見える。ただ、その宝石のような瞳に時折滲む深い憂いの色が彼女に大人びた印象を与えさせているようだった。

「せっかくだから手当させてくれないかしら?」

 にこー、と無邪気に微笑むその表情にどうしたら無遠慮な態度が取れるというのだろうか。更に善意を責めるかのように、ぎゅうと丁寧に両手で握られた左手に善良な心が悲鳴を上げる。

「でも、悪いし…!」
「……だめ?」
「手当、お願いします。」
「ほんと?良かった。」

 それはもう嬉しそうな笑顔に、ほっと胸を撫で下ろす。全くの初対面だと云うのに、何故こんなにもペースを乱されるのだろうか。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、女の人に支えられて立ち上がる。女の人の方がやっぱり背が高くて、少しだけ悔しい。
 左手はまだ、女の人の手と絡んだままだ。離れそうもない手に、弱々しい力が籠もった。

「手、あったかいね。」
「え?」
「ううん。さ、驚かせに行きましょ!」

 あの憂いの色を深めたかと思えば、意味深な発言と共にお茶目な笑顔が咲く。ゆっくりと優しく進む小柄な身体は、放り出されたままのバスケットを拾うと砂利道を真っ直ぐ進み出した。
 日影を進むその姿が、瞼の裏で朧気な後ろ姿と重なって見えた。見知らぬ情景に、前を進む長い髪と温かな木漏れ日だけが確かな現実を教えてくれているかのようだった。







 女の人によって誘われたのは、小さな洋館であった。フレデリックが住まう随分と昔からあるらしい屋敷に比べれば見劣りするものの、可愛らしいその外観から相当に手の凝った造りであることが見受けられる洋館だ。

「一体、コレはどういうことですか。」

 そう、それは構わない。構わないのだが、何故自分はこんなにも睨まれているのだろうか。案内された応接間の入り口で、仁王立ちしているのは長身の男性であった。
 この男性も例外なく自分を見た瞬間、隣に立つ女の人と同じように驚いた表情を浮かべていた。しかし、その後すぐに笑みを浮かべてくれた女の人とは異なり、目の前の男性は無表情でフレデリックを見下ろしたのだ。心なしか、その目には苛立ちがあるようにも感じる。
 そんなきつい洗礼に憤りを感じるものの、女の人が一向に穏やかな雰囲気を乱すことはなかった。だから、拍子抜けてしまう。

「いつも、動くものは易々と拾ってくるなと言っているでしょう。」
「うっ…、ごめんなさい。」
「いやいや。オレ動物とかの類じゃないし…!」

 目の前の青年は黙れと言わんばかりに一瞥されてしまったが為に口を噤むしか出来ない。少しだけ女の人の背に隠れるようにすれば、ぎゅう繋いでいた手に優しい力が込められる。

「大丈夫よ、アーウィン。」
「何がですか。」
「この子には、帰る場所があるもの。」

 決意に溢れたその声にフレデリックは驚きを隠せなかった。何処かふわふわしていて頼りないように感じていた女の人の横顔が、とても凜としていたからである。
 それに驚いたのは、どうやら目の前の男性もそうだったらしい。まるで頭痛に耐えるように頭を押さえ、それはもう重い溜め息を一つ。漆黒の玲瓏たる眼差しが、静かに女の人を見つめ返した。

「…分かりました。今、軽くお茶を用意しましょう。救急箱の場所は分かりますね?」
「ええ、勿論。」

 そう言って青年の脇を通り抜け、アンティーク調の戸棚から大きな箱を女の人は取り出した。青年が小さく頷いたあたり、それが救急箱なのであろう。
 ふわりと長い髪を揺らして、女の人はフレデリックの小さな手を引いて応接間から飛び出していく。どうやら、庭へ向かうようであった。

「それじゃあ、お茶の用意が出来たらお庭に持ってきてね!」

 無表情で立つ青年に軽やかに手を振りながら、女の人は応接間を後にする。閉められていくドアの向こう側で、一瞬だけ女の人を穏やかな眼差しで見つめていた青年の姿が、とても印象的であった。
 それに気付いてるのか気付いていないのか。鼻歌でも口ずみかねない陽気な調子で、女の人は柔らかな太陽の日差しを避けながら庭へと進んでいた。

 女の人と青年が住んでいる洋館の目の前には丁寧に手入れのされた芝生が広がっていた。そして、その中央には屋根のついたアーチが佇んでいる。可憐な花々が巻き付いているその下には、テーブルと椅子が置かれていた。程良い日光を受けられるこの場所が、彼女のお気に入りなのらしい。ご丁寧に椅子を引かれてしまえば、大人しく座るしかない。
 おずおずと腰掛ければ、女の人は手慣れた動作で救急箱から包帯やら湿布を取り出して、処置を施してくれた。あまりに的確な対応に思わず目を丸くしてしてしまうほどに。大変失礼な話だが、こんなに丁寧な処置を何処か抜けていそうな彼女が出来るとは思えていなかったからだ。

「なぁに?」

 じぃと訝しげに見てしまっていれば、無垢な瞳が疑問を問い掛ける。ほんの些細な感情の機微を察知するのには、どうやら大分敏いらしい。
 腕や足に小綺麗に巻かれた包帯をまじまじと見下ろしながら、フレデリックは口を開く。

「いや…、ただ手慣れてるなって思って。」

 優秀な祓い手の家系に生まれた為に、物心ついた頃から鍛錬やらで擦り傷や切り傷は勿論、今回のような打撲はまるで日常茶飯事のようなものだ。
 しかし、ごくごく普通の家庭では日常茶飯事のようには怪我をすることはないだろう。一般常識として救急処置というのは身につけていて当然だとは思うが、どうにも目の前の女の人には縁遠いものに感じてしまうのだ。住まいや身なり、立ち居振る舞いから育ちの良さが見受けられるからである。そんな彼女が、あんなに手慣れた処置が出来るのにはやはり小さな疑問を覚えてしまうのだ。
 女の人はその言葉に、瞳を細めながら小さく首を傾げた。

「昔、よく怪我をして帰ってくる人がいたから。」
「アーウィンってやつ?」

 思いつくのは、あの無愛想な青年だけだった。でも、あの何でも完璧にこなしそうなタイプの人物がしょっちゅう怪我をして、彼女に手当をして貰っている図は少々想像し難い。
 フレデリックの返答に、女の人は小さく吹き出して首を横に振った。

「ふふ、違うわ。…そうね、君にとても良く似てる人よ。」
「ふぅん。」

 腕に巻かれた包帯を慈しむようになぞる女の人の眼差しには、あの憂いの色が濃く輝いていた。そのわけを、今し方会ったばかりのフレデリックには理解出来るはずがない。
 それでも、淡い木漏れ日の光の下でその目を浮かべている女の人は今にも消えてしまいそうで。危うい儚さを纏うその姿を見る度に、どうしようもなく胸が騒ぐのだ。心の、奥底が。
 無意識に胸元を押さえていたフレデリックを、穏やかな琥珀の瞳が見据える。

「今日はディンブラね。」
「え?」

 突然投げかけられた言葉は、自分よりも少し上に向けられている。その目線を辿るようにして振り返るよりも先に、後方からティーカップを持った腕がひょっこりと伸びてきた。

「御名答です。流石ですね。」
「うわっ、いつの間に!」

 聞き心地の良い、されど感情のない冷淡な声音。フレデリックの後ろには、あの青年がティーセットを携えて立っていたのだ。

「ちょっと前からだったかな。」

 にこにこと微笑みながら、女の人は慣れたように青年からティーカップを受け取っている。彼女の座っている位置からは洋館をしっかりと見ることが出来る。だから、青年がティーセットと共に現れたのを知っていたのだろう。
 それにしても、この男は恐ろしいまでに気配を消していた。でなければ、こんな真後ろに居てフレデリックが気付かないはずがないのだ。その証拠に、フレデリックが青年の姿を認識した瞬間からしっかりと気配を発しだしたのだから、この青年は意図的に気配を消していたことになる。

「まだ見習いの祓い手と言えど、背後を取られるだなんて情けのない…。」
「なっ、」
「もう。意地悪しないの!」
「私は至って正論を述べたまでですよ。違いますか?」

 青年はそう言って、シニカルな笑みを口元だけにうっすらと浮かべる。言い返すも何も、完璧なまでの横暴さに此方が驚かされてしまう。女の人は不服そうに頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。確かにあのまま彼女が反論したところで、理不尽ながらも完璧な言葉で言いくるめられ、ねじ伏せられるのが目に見えているからだ。
 初対面から腹の立つ男ではあったが、ここまでくるともう何とも言えなくなってしまう。そんな微妙な空気を感じ取ったのか、おやおやと青年はわざとらしく呟く。

「では、私は用事がありますので。飲み終わったカップは片して置いて下さいね。」
「分かってるわよ。」
「くれぐれも割らないように。」
「もう、馬鹿にしてるでしょう。」

 じとりと睨む女の人に青年は肯定も否定もせず、肩を竦めてみせた。それが限りなく肯定に近いものだということは、彼女だけではなく、自分にも分かってしまった。そんな青年の態度に女の人が噛み付く前に、早々に彼は洋館へと戻って行ってしまった。
 すれ違いざまに、深い漆黒の眼で睨まれたことを感じながら。

「よく、あんな人と暮らせてるね。」
「でも、素敵なところもたくさんあるのよ?…ちょっとひねくれては居るけど。」

 子供っぽくふてくされたように告げた女の人に、思わず笑みがこぼれてしまった。どうやらそれが気に食わなかったらしく、彼女は暫くの間ぷっくりと頬を膨らませて、フレデリックの言葉ですらまともに返してくれなかったりもした。
 まったく、これじゃあどちらが年上か分かったもんじゃない。見目だけは、何処か浮き世離れした妙齢さを纏っているので大人びた印象を受けるものの、蓋を開けてみればまるで幼い少女のような人物だ。

「…ごめんなさい。何だかいろいろと懐かしくて。」
「なつかしい?」
「君は久々のお客様だから。」

 そう言って、女の人は当然のように角砂糖を二個フレデリックのカップへと沈めた。じんわりと砂糖が紅茶に溶けていくのを見下ろしながら、彼女たちの閉鎖的な生活にぎしりと胸が軋んだ。
 伏せていた顔をなぞったのは、女の人の冷たい指だった。テーブルから身を乗り出すようにして、彼女は優しく頬を撫でてくれた。

「君が気に病むことじゃないよ。」
「それは、そうだけど…!」
「ほら、冷めないうちに飲まないと。あっという間に日が沈んでしまうわ。」

 思ったよりも間近にあった琥珀の瞳が促すように微笑む。するりと離れた指に余韻を残すようにして、女の人の赤い唇が動いた。

「早く村に戻らないと、君みたいな可愛い子は悪いおばけに食べられちゃうよ。」

 可愛らしい単語に隠された本意は決して見えそうにない。それはまるで、琥珀色の瞳に潜む憂いの色と同じように思えたのだ。そのことをフレデリックが言及するよりも先に、何事もなかったように芳しい紅茶を嗜み始めた彼女に聞けるはずもなかった。
 促されるようにして口に含んだディンブラの味は丁度いい甘さで、なんだか懐かしい気がした。

「何か、嫌なことがあったのね。」

 飲み下したはずの感情が、その一言によって蘇る。女の人と青年の謙遜や敬いのないごく自然な対応たちに、すっかり絆されてしまっていたのだと今更気付く。まるでそうあることが当たり前のような居心地の良さが、この場所にはあったのだ。
 その居心地の良さを知ると、あの村での息の詰まる生活に尚更嫌気が差してしまう。

「……初めて、逃げ出したんだ。」

 初めてだった。周りから示されたものに背いたのは。今まで逃げ出さなかったのは、自分に寄せられる大きな期待がなくなってしまうのが恐ろしかったのだ。その期待がなくなったら、自分には一体何が残るのだろう。そう思うと、どうしようもない焦燥感と孤独に押し潰されてしまいそうになるのだ。

「でも…、すごく怖いんだ。」

 祓い手のリーダーの一人に言われたあの一言。その言葉に、結局自分に向けられているのは“次期大老師候補”という肩書きと、年齢から見て桁外れの祓い手として能力だけなのだと気付いてしまったから。
 ただ一人の、決して代えなど存在しないフレデリックとして誰も見てくれていないのだ。そう考えれば考えるほどに、深い深い孤独の闇に飲み込まれていく。そこから救い出してくれる人は、居なかった。
 視界の真横で白いワンピースが揺れる。か細い腕が躊躇いながらも誘ったのは、女の人の胸元だった。

「……痛かったね。」

 宥めるような穏やかな声が、頭上から落とされる。そっと頭に乗せられた重みと、抱き寄せられたその身体が、他でもない“フレデリック”が確かに此処に存在して居ることを教えてくれていた。
 その事実にようやくフレデリックは力強く縋りついた。自分よりも大きいとは言えど、掴んだ背中はあまりにも細くて。一体彼女の何処にそんな強さを秘めているのだろうかと疑問に思った。

「立ち向かう強さも必要だけれど、逃げ出す勇気も必要だわ。」

 大きな優しさと強さ。そして、小さな悲しみを秘めた言葉にフレデリックは自分の存在を認識することが出来たのだ。
 久々に感じたその想いと、ぬくもりに瞼を閉じる。ふわりと嗅覚を刺激する甘い香りに、心の奥が小さくどきりと脈打った。




 しばらくの間、女の人に縋りついていた。しかし、どちらともなく離れると不思議な安堵感だけがひっそりと胸の中に息づいていた。自分は孤独な存在だけではないと、そう思えたから。
 女の人の柔らかな手に誘われて、椅子から立ち上がる。行こうか、と言う声に頷いて彼女と共にフレデリックは静かに歩き出した。

「この道を真っ直ぐに行けば、村に帰れるよ。」

 つい先程まで真上で燦々と輝いていた太陽は、今では赤黒く輝き夜の訪れを告げている。その下で佇む女の人は、やはり危うげで儚いものに映った。

「もう会えないの…?」
「…そうね。きっと、会わない方が良いわ。」

 寂しげに女の人は微笑むと、フレデリックと目線を合わせるようにして腰を屈めた。ふわりと舞い上がった蜂蜜色の髪が夕焼け空に煌めく。それはまるで、一枚の絵画のようで小さな身動き一つすることすら躊躇われるほどに。

「君は、誰よりも強くて優しい素敵な祓い手になれる。」
 だから、
「生きてる限りは、前へ。」

 綺麗な琥珀色の双眸に、憂いの色が濃く映り込む。どうして、彼女はこんなに悲しい目をするのだろう。あの小さな背中に、一体何を背負っているのか。
 まだ幼いフレデリックには、到底理解することは出来ない。そんな自分の無力さを酷く愚かしく感じた。

「ありがとう、ねえちゃん。」

 だから、せめてもの償いを込めて精一杯の感謝の言葉と笑顔を浮かべて見せる。そうすれば、きっと花が綻ぶような笑顔を見せてくれると思ったからだ。
 しかし、目の前の彼女が浮かべたのは驚きと悲しみに濡れた瞳だった。

「“フレディ”」

 震える声で落とされたのは、自分の聞き慣れた愛称であった。疑問を口にするよりも先に、女の人の身体によって塞がれてしまう。彼女によって抱き締められたのだと悟るには、彼女の言葉が耳元に響いてからであった。

「――ずっと、会いたかった。」

 先程、抱き締められたものとは異なるそれ。慈しみとぬくもりに満ちていたものではなく、今あるのは深い悲しみと嘆きであった。
 どうして、そんな悲しみを背負っているのかは分からない。だけれど、あの一言を境にして女の人がひた隠しにしていた闇を吐露したのだ。

「ごめんね、でも会えて嬉しかったよ。」

 頼りなく震える身体は、ひどく痛々しい。でも彼女の弱さを知ることの出来ない自分は、つまるところ何もしてあげることは出来ない。だから、彼女が再び強さを取り戻せるまで、その小さな身体を受け入れることが自分が彼女に出来る最善のことだと思った。

「ありがとう、――さよなら。」

 女の人は一粒の涙を白い頬から滑らせて、儚げに首を傾げた。するりと離れていく身体に、軽い力で突き放される。それが、彼女の明確な別れの意志だと気付き、フレデリックはやり切れない思いを抱えながらも、苦々しく己の手を握り締めることしか許されないのだ。
 彼女の意志はあまりにも強固なものだったから。

「さようなら。」

 初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っていたような気がする不思議な女の人。だけど、もうここでお別れ。
 夕闇の下で、淡く微笑む女の人の姿が何処かで見たことがある情景に酷似している。勿論、そんな記憶なんてないはずなのに。もしかしたら、前世にでも知り合っていたのだろうかと非現実なことを考えてしまう。そんな馬鹿げたことを思ってしまう程に、この短い出逢いはかけがえのない尊いものに思えるのだ。
 しかし、そんな名残惜しさを残しながら彼女はゆっくりと夜が深まる道へと足を向ける。揺れる後ろ髪を見つめて、気付いたときには唇から言葉が滑り落ちていた。

「さようなら、“レナ”」

 また会うことが出来て、短い時間ではあったけど幸せだったよ。ごめんね、ありがとう。だから、さようなら。
 夕焼けと夜空の不釣り合いなコントラストの中で、レナが振り返ることはなかった。着実に遠退いていく背中を、フレデリックは静かに見守り続けた。
 それが、二人の短い再会であり、二人にとっての淡い出逢いだった。




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素敵タイトルは誰そ彼さま。

生まれ変わりフレディ君は、本編フレディよりも3、4歳ぐらい下だったりします。だから、紳士的な態度はまだなくちょっとだけ小生意気な感じだったり。
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