「荒船くんて、犬が苦手なんでしょう」

改めて言われると少し恥ずかしいものがあるが、開いた本に手を添えてこちらを向いた春駒先輩があまりにも綺麗に淀みなく、澄み切った顔で笑うものだから、俺は首を縦に振った。先輩はきっと馬鹿にしないと思った。思った通り先輩は、ちっとも馬鹿にするふうではなく、寧ろどこか嬉しそうに微笑んで、そうなのねと言った。夕方の図書館には、俺と先輩以外、誰もいない。
いつの間に先輩は俺の手にある文庫本を見ていた。つられるように、俺も表紙を見る。
夏目漱石の短編集だ。文鳥、夢十夜、思い出す事など、ケーベル先生、永日小品……、その他いくつかの話が収録されている。最初に載っている文鳥がシニカルで面白かったの、と先輩が言っていたから、以前来た時借りてみたのだ。確かに面白かった。今は永日小品を読んでいる途中だ。

「永日小品の途中ってことは、夢十夜はもう読んだのね?」
「はい。面白かったです」
「夢十夜、私大好きなの。特に第一夜と第三夜と、あっ、でも第七夜も好きだわ。…決められないわね。荒船くんは?」

決められないとはにかむ先輩はかわいい人だ。
先輩の『好き』という言葉を簡単に得てしまう文豪を、少しずるいと思った。理不尽であることなどわかっている。
第一夜、女が死に際に言った、百年待ってくれという言葉を守る夢の話。第三夜、人殺しの父親が、自らが手にかけた息子を背負って歩く夢の話。第七夜、自殺を図って、身を投げてから後悔する話。文鳥をシニカルで面白かったと評した先輩は、皮肉を帯びた、陰のある話が好きらしかった。

「俺は第六夜が好きです」
「ああ、ええと、…ああ」

感嘆して、荒船くんらしいわと笑った。第六夜、仁王を彫るのが上手い運慶が今日まで生きている理由を知る話。俺らしいとは、先輩は俺をどんなふうに見ているのだろう?

「漱石はいいわね。読みやすいのに一概には説明できないような話ばかりで」
「読みやすい……」
「あら、そうでもない?」
「いやまあ太宰に比べれば全然…読みやすいですけど」
「ふふ、太宰ね、そうね、確かにあの人の話はじっくり読むのに限るわ。疲れたら、龍之介を読んでみたらどうかしら。優しいわよ。あ、容易って意味の易しいではなくてね」
「龍之介…」

相変わらず本が好きな人だ。
頷いた先輩は本に栞を挟んで、楽しそうに本棚を物色し始める。少しかかりそうだ。俺には読んでいる途中の話があるから、一冊に絞ろうとしてくれるはずだ。それまで俺は、先輩の言った、『優しい』という言葉の意味を考えることにする。龍之介というのは、芥川龍之介で合っているはずだ。

容易という意味の易しいでなく、優しい。穏やかで親切だとかいう意味の。何となくわかりそうだが、読んでみないことにはなんとも言えない。俺はもともと読書家ではなく、単に、本の話をする先輩に惹かれて読み始めただけだから、かの有名な芥川龍之介作品は、せいぜい国語の授業で扱った蜘蛛の糸くらいにしか触れたことがないのだ。
あっ、と先輩が小さく声を上げる。お目当てのものを見つけたらしい。嬉しそうな横顔。

「これ、これの、白って話。読んでほしいの」
「白?」
「犬の名前よ」
「え」
「主人公が犬のお話」

先輩は笑った。犬が苦手なんでしょうと俺に確認したのは、この白という芥川龍之介の話を薦めたかったからなのか。
犬が主人公でもフィクションの本なら読めるかもしれないし、何より、先輩が俺に薦めてくれたものは読んでおきたい。かくして芥川龍之介の短編集は先輩の手から俺の手に渡った。

「白だけでも、読んでくれたら嬉しいわ」
「…嬉しい?」
「うん、嬉しいのよ」

はっきりとした即答だった。何がどう嬉しいんだかさっぱりだったけれど、先輩の即答にはやや気恥ずかしくなったから、そのあとは何も言わなかった。
春駒先輩は少し変わった人だった。本を読むのが速くて、文豪たちを親しげに呼び、俺なんかを好きになって、俺なんかと付き合って、いつも笑っている。

俺が行きたいと言えば、映画を観に行くのだって嫌な顔ひとつせず一緒に来てくれる。観た後は持ち前の豊富な語彙を用いて事細かに感想を述べてくれるから話もはずむ。それは勿論楽しい時間だが、本に囲まれた先輩はそこにいるのが当たり前のように、それでいて控えめな存在感を放ちながら佇むから、自分が先輩に惹かれたのは事実だと一番再確認するのは図書室や図書館や古本屋、たくさんの人が紙の上で息づいている場所。紙に綴られた文字の向こうの人と心を通わせている横顔を見るのが、好きだ。

「堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらっしゃいますまい……だって。地獄変、借りようかしら。私も久しぶりに龍之介を読みたくなったわ」
「地獄変?」
「芸術に魂を売った不躾な絵師と、その娘と、豪快な大殿様の話よ」
「へえ…?絵師と、その、大殿様?が、どうやって関わりを持つんです」

こうして俺が聞くと、やっぱり楽しげな顔をするのだ。

「娘が利口で愛嬌もあるから、大殿様が気に入って、傍で仕えさせるの」
「そりゃあ、光栄ですね、絵師にとっては。雇われることもあるんでしょう?」
「そうねえ、確かに大役も仰せつかったわね。だけどこの絵師は娘のことが大好きで…何事も簡単にはいかないんだわ」

にこにこする先輩から察するに、これもまた陰のある話なのだろう。俺は龍之介の短編集を、先輩は地獄変を携えて帰った。

「不思議よね、何がどこでどう繋がるかなんてわからないの」

わかる人だっているのかもしれないけどねと言う先輩の横顔はやっぱり笑っていて、白い肌が夕陽で橙に染まっていた。普通なら、わかる人もいるんだろうということなんて、考えるだろうか。

「だって私考えもつかなかったわ、荒船くんのことを好きになるなんて」
「…まあ、それは俺もです、けど」
「そればっかりはどうしようもないわよね。好きよ荒船くん」
「、っ」
「あはは、顔、真っ赤」

先輩はいつだって俺より一枚上手だ。仕方がない、読んできた書物の差による教養の差だ。だから俺は本を読むのだ、先輩に薦められたものは必ず。いつか先輩に追いついて、赤面させられるくらい―――には、釣り合うように。
兎に角まずは白を読もうと思った。目次を開くと、白の前にも何本か話が収録されていたけれど、白から読もうと思った。犬は苦手だ。苦手でも、この作品を読むときは、きっと先輩のことを思い出すだろうなと考えると、むずがゆく嬉しくなった。
そうか、俺も先輩から『好き』という言葉を得ることができるのか。ああ、相変わらず、先輩といるとたくさんのことに気づかされる。

「先輩、俺も、」

そしてまた俺は、先輩に、俺の『好き』を与える権利もあるのだと。



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