わたしは声が小さい。元からだ。
話し下手なのに加えて、大きな声を出そうと思えば出るのだけど、普段はあまり張り上げようという気にもならない。大声を出すと無駄に疲れるような感じがする。だから早口でも喋らない。
必要以上に大きな声は苦手。
必要最低限のつまんないやつだって、誰かに言われたことがある。
「ねえ、おまえ声小さくない?」
顔を上げると菊地原くんがいた。
菊地原くんは耳がとってもいい。それならわたしの声の小ささが気になってもおかしいことではないかもと思ったけれど、大きいならまだしも、わたしほどの小ささの声、彼にとってはじゅうぶんに聞こえるものだろうに。
「不都合あった?」
「別に。何でもないけど」
不都合は別にないらしい。うん、そのわりに不機嫌だ。ないことはないでしょう。
歌川くんは、菊地原くんのことを、口が悪くて少しひねくれていると言っていた。なんでも聞こえてしまうんだから、それだっておかしくはない。世の中いろんな人がいる。わたしみたいに小さい声で話すのがすっかり習癖になってしまった人とか。
「わたしの声が、聞こえづらいってことは…ないよねえ」
「だから、別に何でもないんだって」
「あるからわざわざ言ってくれたんじゃないの?」
あ、こんな皮肉っぽい言い方しなくてもよかったかも。言った後で思った。だけどわたしたちはそんなに話すこともないから、声が小さかろうが、菊地原くんには関係ないはずなのだ。わたしの声の大きさは菊地原くんにとってはきっとけして小さいものではないのに、世間一般で言う音の大小もそれとなく把握しているんだなと思うと、感嘆せざるを得ない。
菊地原くんは、こいつ思ったよりしつこい、みたいな顔をしていた。その通り。わたしはこれで結構聞き分けがなく杓子定規な考え方しかできない。
「言ってくれていいよ」
「絶対言わない」
おまえみたいなやつにいちいち言う必要ない、と言いたげな顔だった。ここまで口ほどに物を言う目を、わたしは初めて見た気がする。わたしの声はなかなか相手も聞き取りづらいだろうから、なるべく顔を上げて相手の話すようにしていた。はっきりと口の動きがわかれば、話している内容もそれなりにわかるものだろう。話している間は相手の目を見るのも癖になっている。
菊地原くんの目はおしゃべりだ。
彼は、いろんなことを聞いたせいで、言わなくていいことをたくさん言ったかもしれない。言ってもいいことを言わなかったかもしれない。そんな菊地原くんの目は、口よりよっぽど素直で、ひねくれていない。ある意味口も素直なんだけれど。おかしくて、つい、笑ってしまった。菊地原くんの目に猜疑のような色が映る。
「…なに?不気味」
「別に何でもない」
さっき菊地原くんに言われたことをそのまま返すと、彼はますます眉根を寄せる。そして私はそれにますます笑ってしまう。あはは、と声が出たところで、菊地原くんが目をふっと、小さく見開いた。
「……なんだ、笑うんじゃん」
わたしに負けず劣らず小さな声だった。だけどわたしの耳にしっかりと届いた。
なんだ、笑うんじゃんって、そりゃあわたしも人間だから、笑いますけど。普段、そんなに無表情でいた覚えはないのに、菊地原くんにとってわたしが笑うということは、驚くに値することだったらしい。
彼は口が悪いけど、言った後で、『ああ言わなきゃよかった』と思うことは少ないんだと思う。素直な気持ちが、彼にしてみればほんの、ほんの少しだけ、形を変えて口から出てきてしまう。きっとそれだけなのだろう。だから、菊地原くんの言葉は、わたしには心地いい。
大きな声が苦手なのはわたしも、たぶん菊地原くんも一緒だ。心からポンと湧き出るような素直な気持ちが耳に心地いいのも、たぶん一緒。
全然似ていないはずのに、案外、似た者同士みたいだ。
変なの。
「わたし、このままでもいいかなあ」
「ダメなんか誰も言ってないし」
「言われたことあるよ」
「どうせ教師とか、声がデカいやつらとかにでしょ」
「だから、菊地原くんに聞いてる」
「は?」
「このままでいい?」
菊地原くんは目をぱちぱちさせて、逸らして、頭を掻いた。
彼の言葉で肯定してくれたら、わたしはもう大丈夫な気がしている。根拠なんか、どこにもないけど。聞き分けがなくって杓子定規な考え方しかできないわたしだから、菊地原くんがくれる言葉なら、大丈夫な気がしていた。
「……いいんじゃないの」
うん、もう大丈夫だ。
「ありがとう」
必要最低限のつまらない人間かもしれないけど、わたしはわたしのままでいいんだって、認めてくれる人がいるのなら。
それが彼なら、なおさら。