一瞬の夢(アクラム)
側に居ることも…
触れることも…
声を聞くことも…
その漆黒の瞳に自分が映ることも…
何も許されてはいなかった…
ぴちょん、ぴちょんと鍾乳洞を伝い水が堕ちる…
その昼でも薄暗い場所で…水鏡を使って『彼』は『彼女』を見ていた…
八葉に優しく微笑む姿を…
その中でも地の白虎と二人で京を散策し、手を重ねる姿を…
その時の…はにかむ様な微笑を…
強い嫉妬と共に見つめた…許されぬ願いが哀しく…ギリッと唇を噛む…
生まれ落ちた瞬間から『彼』は鬼の首領に成ることを運命づけられていた…
ただの儚い『彼』の願いも存在も…その『首領』という立場の前には霞と化した…
そう…其処に『彼』という存在は、まるで居ないかのように…皆が皆、『首領』として『彼』を見た…
その孤独…ゆっくりと雪が降り積もり…消えていく筈だった『彼の心』を…ただ『彼女』だけが…救った…
初めて出会った時に『鬼』と知らなかった故に…
それは奇蹟のように…
『彼女』は『鬼の首領』では無く…ただの『アクラム』として見た…
それが『彼』を救う…春の日差しだと…『彼女』は気付かない…
それを『彼』も理解しつつ…惹かれる自分を止められはしなかった…
ただ独り消える筈だった『彼』を…見つけてくれた『彼女』への想いを止める術など無かった…
心にひとつ…想う…愛しい…そなた…
遥かなる京…その服装や生活…そして碁盤の目と成っている道にも真貴が慣れてきて…とてとてと京の舗装されいない轍の残る道を歩いていると…
これから逢う目的の人物が反対側から歩いてきて…自然,真貴は微笑んだ…
そして足を速めて…優しく魅力的に笑って待ってくれている『彼』の所に駆け寄った…
「友雅さん!!」
駆けて来た勢いのまま抱きついた途端、薫り慣れた侍従に包まれて…安心する…この腕の中が…
「君は…いつも可愛いね…私の真貴…」
耳元で囁かれる声が心地よくて…ギュッと更に力を込めて背を抱き締めると…友雅のクスッと笑う気配がして…
「きゃああぁぁ!!」
問答無用に,人通りの多い往来で抱き上げられた…その高さに真貴が驚いて友雅の首筋に縋りつくと友雅はフフッと笑って,
「そのまま掴まっていなさい…私を離さないように…」
と言った…その普段とは違う声音が気になったが…
すぐにそのまま歩き出した友雅に、真貴は高さが怖くて、落ちないようにと思い…それ所では無くなってしまった…
そして友雅もザワザワと往来の人々が二人を見て、騒ぎ始めたのを見ると…仕方なくといった風情で真貴を,そっと壊れ物のように優しく降ろした…
「仕方が無いね…手で我慢しようかな…」
すっと前に差し出される大きな手…真貴が大好きな人の手…それに真貴は嬉しそうに微笑み…そっと暖かな手に己のそれを重ねた…
友雅は、それに幸せそうに笑うと『じゃあ河原院へ行こうか』と言った…
その報せが土御門へ来たのは昼頃の事だった…友雅が黒馬を駆って土御門へ現れたのは…
「藤姫は居るかい」
到着と同時に尋ねられ,頼久は眉を寄せる…
常の平静な友雅とは何処か違い…緊張感の在る空気が彼を取り巻いていた…
緊急事態だろう…
そう思い頼久は,すぐに『今は塗籠にて占いを…』と言おうとした所…
「友雅殿!!」
本来なら居ない筈の藤姫の声が渡殿からして頼久は瞠目した…
「友雅殿!!友雅殿!!どうしましょう!!真貴様が!!」
しかも藤姫は普段の平静さなど無く,取り乱しているように見て取れる…
それを友雅も察したのだろう…すぐさま黒馬を土御門の従身に預けて、渡殿まで歩いて行くと…藤姫を落ち着かせるように艶然と微笑む…
「大丈夫だよ…藤姫も泰明殿から使いを貰ったのだね…大丈夫…真貴は私が助けるから…」
その『真貴を助ける』という不穏な言葉を頼久が友雅に尋ねようとした時だった…
「集まったか…」
土御門に『もう一人』の来客があったのは…
くゆる香りは菊か…
これを好んで用いる者がいる…
「泰明殿…」
藤姫の不安な声が渡殿に響いて消えた。
京でも屈指の陰陽師はそれに反応する事もなく、彼には珍しく僅かに焦るように言った。
「友雅、頼久、河原院だ」
言葉少ない彼は余計なことは語らない。それが逆に焦燥をかきたてる。頼久は尋ねずにはいられなかった。
「真貴様がどうかなさったのですか?」
泰明の色違いの瞳がツイッと向けられる、そこに普段とは違う感情が出ているのは気のせいだろうか…
時間が流れて…
「鬼だ」
その一言で充分だった…
もし自分がたった一人ならば…
きっと世界は変わるのではないだろうか…
自分の愛する人のたった一人は自分だけで…
愛する人から想い想われて…
裏切りという言葉は二人の間には存在せずに…
ただ愛していて。
ただ大切で。
それは泣きたくなるぐらい幸せなこと…
それをただ一瞬で良い。ただ一瞬で消えてしまっても良い。
だって全てを望むのは不可能だって分かってるから…
だから…
風が巻き上がる…
河原院の木々がザアアアアアァァと潮騒にも似た音で迫る…
真貴は思わず、その瞳を閉じた。
「すまないね、驚かせてしまって」
ゆったりと頭を撫でられる、それがとても暖かかった…
「ううん、大丈夫だよ」
そっと「友雅」の手に触れると彼は照れたように、本当に嬉しそうに、はにかんで微笑んだ…
その表情が幼くて真貴は、またこの人の違う一面を見つけたと想った…
いつもなら手をさっと取って指先に口付けるぐらいしてしまうのだが…
それが嬉しい…
「友雅さんって大人ですけど、子供ですね」
真貴が頭に置かれた手を取りながら上を向いて囁くと…
その翡翠色の瞳が見開かれて…
「こ、ども?」
分からないと言ったように、呟いた、まるで夕闇の中で途方にくれた子供ように…
こどもという言葉なんて知らない。
こどもを周りは欲していない。
こどもで居れば周りは私を必要なんてしないのに…
生まれた瞬間から…頭領として生きるために、こどもで居させてはくれなかった…
でも真貴が余りに綺麗に笑うから…
わからなくなる。頭がクラクラした…
「それは良いのか?こどもとは良いものなのか?」
真貴は友雅の口調が変わったことに気付かない、けれどパッと表情が変わって。
「はい、素敵な事ですよ」
ふわりっと華が咲く。
瞳を奪われる華…
真貴…
だから素直に言えた…
「嬉しいよ」
その次の瞬間だった…
手が伸びて…
息を止まるぐらいに真貴は抱き締められた…
薫るのは…息が詰まるほどの伽羅…遠い深く落ちてゆくような薫り…
「真貴・・・真貴・・・」
息が止まりそうな程に強く・・・
掻き抱かれる・・・
その激しさの間で切なく呼ばれる自分の名…
何故か、泣きたくなった…
どうして?
あまりに寂しそうな声をするから…壊れそうな・・・
「すまない・・・」
何を謝っているの?
なぜこんなにも苦しそうなの?
言葉にしようとすれば唇を奪われて、熱に煽られる…
そして重ねた熱の合間に…
「ありがとう」
そこで真貴の意識は途絶えた…
あの寂しい金の鬼の声が聞こえた気がした…
遠く伽羅の香りに落ちてゆく…
泰明と友雅と頼久が河原院に到着した時、真貴は白銀の花の褥で眠りに落ちていた…
泰明が素早く印を組む、
「問題ない、眠っているだけだ、一刻もすれば起きるだろう」
それに友雅は安堵の吐息を漏らすと、そっと真貴を抱き上げて、左大臣邸へと帰って行った・・・
河原院では残された白銀の華が風にサラリッと揺れた・・・
そこにザアアアアアアッと突風が巻き起こり一瞬にしてその華を散らしていく・・・
ひとひら、ひとひら・・・
一瞬にして・・・
ただ舞って・・・
散らしていった・・・
もし自分がたった一人なら…きっと世界は変わる…
自分の愛する人のたった一人は自分だけで…
愛する人から想い想われて…
裏切りという言葉は二人の間には存在せずに…
ただ愛していて。
ただ大切で。
それは泣きたくなるぐらい幸せで…
それをただ一瞬で良い。ただ一瞬で良い。
だって全てを望むと君を傷付けると知っているから…
だから…
それだけで生きていける…
その一瞬を抱き締めて生きてゆける…
END
◇