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それは私の中ではもはや事件だった。

毎朝一緒に行く友人を待っていても中々来ず、いつもの場所で待つこと二十分。『ごめん、寝坊した!間に合わないから先行ってて!』というメッセージが届き、私は慌てて学校を目指して歩き始めた。いつもなら他にも多数いる生徒達と一緒になりながら、友人と前日見たバラエティ番組のくだりとか、友人の好きな人の話をしながら歩く道。しかし今日の私の周りに他の生徒の姿はない。それもそのはずで、もう朝学習まで二十分しかなかった。学校まで十分は掛かると考えれば、これは当然のことなのではあるが。
私ですらこの状況だから友人は遅刻決定、これなら私もいっその事……と思いたいものの、普通に行けば間に合うし、何より自分のせいで私が遅刻したとなれば友人が気にしてしまう。電話越しにでも聞いたことの無いほどの、寝起きとは思えぬ謝罪の言葉を思い出せば私も同じく遅刻というのは避けたかった。
――あ、忘れてた。
ふと、今私自身が急いで向かっている教室を思い浮かべ、少しだけ足取りが重くなった。
三日前に行われた席替えで、仁王雅治くんの隣りになってしまった。もちろん喜ぶ女子もいる……というか校内にアンケートを取れば『嬉しい』という意見が圧倒的に多いだろう。でも私が隣の席の人に求めるものと言えば、忘れ物をした時に借りられたり、わからない時に教えてもらったり、他愛ない雑談を出来たり等の条件だ。彼はそのどれにも当てはまらず、確かに目の保養にはなるかもしれないが、隣の席にともなれば安易に眺めることも出来ないし。もし交換出来るものならしてやりたかったとすら思った。……少しだけ、だけど。

学校が見えてきて時計を確認する。無事始業には間に合いそうだ。そう思って少し歩む速度を落とす。疲れたなあ、今日はまだ始まってもないのに。いつもであれば風紀委員の目が光る校門も、時間が時間である為誰もいない。癖で下ろそうとしたスカートをそのままにして私は校門を潜った。
その時だった。先程までは私の髪をふわふわと揺らしていたはずの春風が突如強く吹き、スカートの中に風が入るのを感じて私は咄嗟に前の方を抑えた。


「わあっ」


擬音で表すなら、ブワッという音になるだろうか。咄嗟には抑えきれなかった後ろ側が膨れて捲れたような気がして、声を上げながら慌てて次にそちらを抑えた、のだが。
その拍子に振り返った私の視界に飛び込んできたもの。テニスバッグを肩にかけた銀色の髪の人。その人は普段の切れ長の目を見開き、見たことのないほどに驚いた表情をしていた。

「……」
「……」

やっばい。嘘でしょ、有り得ない。無理。瞬時に頭の中に浮かんできた言葉はひとつも表に出ること無く、恥ずかしさで痛いくらいに速く鼓動を刻み始めた心臓と一緒に、そのままそこから走り去ることしか私には出来なかった。


ようやく教室に着き、ドアを開ければ友人達がこちらを向いた。おはよう、遅かったねと各々に声を掛けられ、それに返していきながら呼吸を整えるものの。自分の席に着けば否応がでも思い出される彼の表情、ただでさえこの席はあまり楽しくなかったはずなのに、どうしたって気分は沈んでいった。

そうして私の少し後に再びドアが開く音がしたが、そちらに顔は向けられなかった。それでもその足音がこちらにやってくるのが聞こえて、そして私の隣りで椅子を引く音がして。……神様って私のこと嫌いだったんだ。よりにもよって同じクラスになって半年も話したことなかった人に、隣の席になってから三日目にしてパンツを見せさせるなんて。確かに仁王くんが時々遅くに来ているのは知っていたけど、それにしたって、どうして今日、私のすぐ後ろにいたん。タイミングが悪すぎる。神様のくそったれ。


……と初めのうちは思っていたものの、時間が経つにつれて、私のパンツなんか見せて申し訳ないな、という気持ちも少しだけ芽生えてきた。別に見たかった訳じゃないだろうに、こんなにあからさまに顔を逸らされ、幾ら仁王くんが他人に興味が無さそうでも良い気持ちはしないはずだ。しかしそうは思っても、私だって女の子である。パンツを見られたとなったら普通には出来ないし、それなりにショックなのだ。記憶を弄れるのなら忘れさせたい、彼に施せないのなら私の見られたという記憶を消して欲しい。そう思うくらいに参っていた。だってまだ、家族と女友達にしか見せたことなかったのに。

三時間目の休み時間が終わり、席に戻ると隣の仁王くんは伏せていた。……なんで見られたのが隣の席の仁王くんだったんだ。思わず漏れそうになる溜息を堪え、ふと机の下に何かが落ちているのを見つけた。それは彼の前の席の丸井くんが先程食べていたチューインガムの包み紙だった。
――珍しい。丸井くんはこのようなごみはキチンと捨てるのに。

何故か四つ折りにされた、元包み紙だったものを拾いあげ、しかしもう授業が始まるために捨てには行けない。仕方が無いのでカバンの横浜ポケットに入れて、後で捨てに行くことにした。


***


私の中の小さな事件勃発から、一週間が経った。相変わらず隣りの席の仁王くんには多少なりとも思うものがあるものの、こればかりは時が解決するのを待つしかないだろうと思うことにした。あの出来事自体、誰も悪くはないのだから。


体育の授業が終わり、今週の片付け担当の班は女子が使ったボールを、男子がポールとネットの片付けだ。席によって割り振られたこの班は席替え毎に組み替えられ、私は仁王くんと同じ班になっていた。


「あ!」


ボールをカゴに入れて戻しに行く途中、体育館の端っこに残されたボールを見つけた。一緒にカゴを運んでいた友人達に声を掛け、私はそれを取りに行く。するとそこで仁王くんが網を畳もうとしていたのだが、一人のせいかとてもやりずらそうに見えた。

「……あの」
「ん?」
「一緒にやろっか?」

初めて、授業中以外で声を掛けた。緊張しているのは先日の事件のこともあるが、彼自身に声を掛けると言うこと自体がたぶん、私にはその対象に当たるのだろう。「ああ、頼む」しかし私の緊張など全く知らぬ彼は、変わらず落ち着いた表情でそう頷いた。それを見て私はネットの端を持ち、彼のところまで歩いて渡し、それを何度か繰り返せばすぐに綺麗に畳むことが出来た。

「すぐ出来た」
「ね。女子三人いるし、次は私じゃなくても声掛けてくれれば一緒に畳んだらいいね」
「うん、ありがとう」

そう言って小さく笑顔を向けられてしまえば、単純にその顔の良さに鼓動が反応してしまう。笑ってお礼とか、ちゃんと言うんだ。ついそんなことを思った。申し訳ない。
それでは、と言って私がボールを取りに向かおうとするも、「あ」と後ろから声がしてそれは止められてしまった。


「なに?」
「あー、先週のことじゃけど」


彼はそう言いながら私からネットに視線を移してまとめ始めるのだが、まさか本人から言われると思わず。心臓がドクンと大きく一つ音を立てる。


「紙見たかもしれんけど、俺、ほんまに見とらんきに」


そのままくるくるとまとめられていくネットを見る仁王くんと、そんな仁王くんを見る私。


「まあ、嫌な思いはしたじゃろと思とったけど、あんまり俺の方から言われてもそれはそれでお前さんが気にするとも思ったけえ」
「えっ、待って待って」


一つ目が終わり、二つ目のネットをまとめようと手を伸ばした彼に思わず声を掛ける。でも、紙ってなんのこと?いやそれより仁王くん、見てなかったの?


「……仁王くん、見てなかったの?」
「え、うん。先週、確かその日のうちに鈴原さんの机の上にそう書いて紙置いたんじゃけど」
「紙……?」


そう思い返しても全く頭に浮かばず、無かったけど、と伝える。すると首をひねった彼が、丸井に貰ったお菓子の包み紙みたいなやつに書いた、と言われて思い出されるものが、一つだけある。

「あ、それ、私の机の下に落ちてたからゴミかと思って」
「あー、捨てたか」
「いや、気づいたら授業始まりそうだったからバッグの横ポケットに入れてから捨てるの忘れてた」

言われて思い出した。そう言えばそんな紙が落ちてた気がする。「……ほう?」不思議そうに頷かれ、それじゃあまだ見てないんかと問われ、こちらも頷いた。そして一瞬の間の後、二人同時に吹き出す。


「あはは、なんだ仁王くん見てなかったんだ」
「ん。まあ俺からすれば、お前さんも見てなかったんじゃなって感じやけど」


そんな風に言われて、確かに、と笑い合う。


「じゃあ見てなかった同士ってことで、明後日の網畳むのも手伝って」
「え、あ、うん」


そう答えれば、よろしく、と再び笑いかけられる。さっきと同じように見えて、でも何処か楽しそうに見えるのは私だけだろうか。
教室に戻り、バッグの横ポケットを見るとやはり出てきた銀色の紙。いよいよごみにしか見えないそれを開くと『俺、何も見てないから。気にしないで』とだけ書かれていて、思わず笑ってしまう。

何故この紙だったんだろう。当然のように浮かんだ疑問は、今はまだ戻っていない隣りの席の彼が戻ってきたら聞いてみようと思う。


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