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彼は、よくこの図書室へとやって来た。
図書委員である私の担当は毎週火曜日。彼は私の事を知らなかったと思うけれど、私は彼を知っていた。彼は所謂、強豪である我が校の男子硬式テニス部の期待の新人だったからだ。それはテニス部とは関係の無い私でも、歳の違う私でも耳に入る程だった。

かと言って初めは存在だけしか知らなかった。彼と私を繋ぐ物は何も無かったからだ。その後自然と広がってきた噂で苗字を知ったけど、だからといってそれだけだった。

『大丈夫?』

ある日、男子生徒が一人、高い所にある本を取ろうとしていた。彼はどうやら左肘を怪我しているようで、右手を上に伸ばしていたけれど。何処か危なっかしくて声を掛けずには居られなかった。

『はい』

そう頷き、再び上に右手を伸ばす。危ないな、でも、大丈夫って言ってたし。私はその横で返却された本を戻し始めた。視界の端で僅かに、それでも確実に動く黒い物体という名の男子生徒。頑張れ。そう、気付いたら心の中で応援していた。あからさまに見る事は出来ない。でも先程見た彼を思い出すと、不思議とそう思ってしまうのだ。

『っと、』

ふう、と息をつくのが聞こえて、私もつい顔を向けてしまった。

『……あ、良かったね』

目が合い、とりあえずそう言って笑いかける。はい、と彼はほんの少し頭を下げた。良かった、ちゃんと取れて。勝手に安心し、そして私は再び本を戻し始めた。

『……』

しかし彼はそこから動かなかった。先程までは動いていたのを、そして今は動かないのが気になり再び顔を向ける。先程取った本を手にしたまま、キョロキョロと周りを見渡していた。

『えっと、どうかした?』

やはり、声を掛けずには居られなかった。

『いえ、大丈夫です』

そう答えて、彼はまた同じ様に上を見上げた。私もつられて見上げる。……あ。

『あの、4巻が欲しいの?』

彼が持っているのは3巻で、上の棚を見ると同じ小説が4巻まである。私の質問に、彼は躊躇いがちに頷いた。

『……その手だと持ってられないもんね』

そう言って私は返却中の本を奥のテーブルに起き、その足で踏み台を持ってきた。これだよね?と聞くと、肯定の意味の返事が返ってきて、目的の4巻を取り出した。

『借りたいのはこれだけ?』
『はい』
『じゃあ一緒に持って行こう?そのまま私、カードに書くから』

こくりと素直に頷く彼は、先程までの頑なな雰囲気は少し薄れた様に感じた。

貸出カードに書かれた名前を見る。手塚国光。
テヅカ。何処かで聞いた事のある苗字だとは思ったものの、そこまでしか私の頭は働かなかった。

『ありがとうごさいました』

礼儀正しく頭を下げた彼は、そう言って出て行った。
その後すぐに他の委員の子が、あれが例のテニス部のテヅカくんだよ、と教えてくれてようやく理解した。でも確か、期待の新人なんじゃなかったっけ。怪我してたけど大丈夫かな。そう思いながら、もう一度貸出カードに記された名前を見る。

……国光くん。
およそ今後の人生で呼ぶ事の無いであろう名前を、その時心の中で呟いたのを私は覚えている。




「国光くん」

ふわりと学校の中に漂うこの香りを嗅ぐと、私も去年のこの時期に体験した記憶が蘇る。

「はい」

卵焼きに伸ばしていた手を止め、顔を上げて私の方を見る。




彼は、それからも図書室へやって来た。私は火曜日の当番だったから、私がいる時間以外に来ていたのかはわからない。けれど貸出カードに記された日にちを見れば何故か火曜日で、そしてそれを知ってからテニス部の休みが火曜日である事を知った。

『甘い物、食べれる?』

暦の上では、そろそろ秋が訪れそうな季節だった。

『はい。食べれますが』

頷いた彼を見て、私は受付の横に置いていたカバンに手を掛ける。
彼とはあれから、少しずつ話す様になっていた。テニスをしている所を見た事はないから、私にとっての彼は、毎週火曜日に会う常連さんといった存在だった。

『これね、今日の調理実習で作ったの』

そう言いながら、クッキーが入った袋をを差し出した。

……ほんの、ほんの少しだけ。
こんな事をされたら迷惑かな、とも思った。彼女でも無く、お互い名前しか知らない存在。それでも友達が誰かにあげようかな、と呟いた時、私の中で一番に思い浮かんだのが彼だったのだ。

『いいんですか?』
『あ、いや、要らなかったら私が食べるからそれはそれで言って!』
『……先輩がいいなら、頂きます』

カサ、と彼の手が袋に触れて聞きなれた音がする。そして私の手を離れていったクッキーは、そのまま彼の鞄へと消えていった。




「今日って、一緒に帰れるかな」

本日火曜日はテニス部が休みだ。けれど先月彼は生徒会長に任命されてしまい、時折部活が休みである火曜日に生徒会活動が行われる事があるのだ。

「はい。今日は」
「あ、本当?」
「ただ来週は、来月の文化祭についての打ち合わせがあって」

そう話す彼の言葉はもちろん耳に入ってはいるけど、しかしながら来週は来週だ。今日、彼と一緒に帰れるという事実が嬉しくって、つい頬が緩む。

「そっか、もうそんな時期かぁ」
「そうですね」
「少しでも一緒に回れたらいいな」
「……はい」

目が合うと頷き、俺もそう思ってます、と付け足してくれたのが更に嬉しく思えて、胸がキュンと音を立てた。
彼は言葉にも、態度にも、表情にも、あまり私に対する気持ちを出す事はしない。それでもこうしてちゃんと意志として伝えてくれる事が、私にはとても嬉しかった。

お昼ご飯を食べ終わりお弁当を片付けていると、「ひなこさん」と名前を呼ばれた。


「んー?」


顔を上げると、彼の手には見覚えのある袋が。


「実はさっきの家庭科でクッキーを作ったんです」


覚えてますか?と聞かれ、そりゃあもう覚えていますとも、という意味を込めて頷く。


「あの時は上手く伝えられませんでしたが、あの時はひなこさんにクッキーを貰えてとても嬉しかったです」


ふ、と彼が笑った。それだけで私の胸からは、ぶわっとよく分からない何かが溢れ出る。


「それでこれは、あの時のお返しです。ひなこさんもこうして作ったんだなと思いながら型を抜きました」


袋を開けて、そのまま私に向けてくれて。そっと入れて摘み出したクッキーは、綺麗な星の形をしていた。国光くんがクッキーを作るってだけでも想像つかないのに、私の事を考えてくれただなんて。そう思っただけでこのクッキーは、まるで空に煌めくそれの様にキラキラと輝き始める。

「……国光くん」
「はい」
「どうしよう、もう美味しいよ」

胸のから溢れる思いを伝えると、国光くんは再び笑ってくれた。ああ、きっとこんな幸せな気持ちになれるクッキーは、この世界にはこれしか無いのだろう。



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