君にほほえむ


目の前に転がされた女は抵抗もなく、静かに拘束を受け入れていた。後ろ手に縛られ、口には粘着テープ。おれを見上げる芯のある瞳と目が合った。

「なにこれ」

敵対ファミリーとの内通と武器の横流しが発覚し、炙り出した構成員の始末を命じたのは記憶に新しい。滞りなく遂行されたと報があったのは先ほどのこと、それなりの地位を与えていた人員の損失ではあったが代わりはすでに動いていた。それ以上も以下もない。
ならばあたかも命じられた通りに手柄を取ってきたと言わんばかりの部下の朗らかな笑顔はなんだ。

曰く、始末した男の愛人である。曰く、この歳で色事のひとつも覚えないおれへの手土産である。曰く、好きにされたし。

おれの回答はひとつだ。

「こ、こういうの困る…」

いらないと捨て置くつもりが、やんわりと諭され促され、気付けば設えられた寝室に二人きり。ベッドの端に腰かけ、横たわる女に向けた背中でその存在を痛いほどに感じた。ドンのメンツという蜘蛛の糸のような矜持にしがみついて辛うじて涼しい顔を保っているが、シャツはすでにじっとり湿っている。

男を誘う服でシーツに埋もれる女は拘束されたまま上質なマットレスに体を預けていた。衣擦れが童貞には刺激が強すぎて直視できない。有り難くもないことに僅かな身動ぎすら伝わって精神衛生を乱してくれるときた。天蓋のレースが余計に神経を逆撫でする。
今引き金を引いて童貞を守ったことをアジト中に知られるのはあまりにも格好がつかないので朝までは心頭滅却に努めるのが理想だが、どうやらそれもさせてはくれないようだ。
縛られ、粘着テープに口を覆われて深く沈むベッドへ身を投げていては呼吸がままならないのも仕方がない。背後からの鼻から抜ける苦しげな声に眉間を押さえた。このまま見殺しにするか逡巡し、結局はだけた胸元から目をそらしながら仰向けに転がした。

「念のため言っておくけど、騒がないのが身のためだよ」

これ見よがしにジャケットの内側から取り出した銃を突きつけ口のテープを剥がしてやると、その勢いに柔らかい唇が破れて呻いたほかには、忠告通り大人しくしている。

「長生きしたいなら利口でいることだね」

どちらにせよ明朝までの命だけど今ここで散らすよりは世を偲ぶ猶予を得られる。トリガーにかけた指で銃を反転させ懐に戻した。

「よかった、生きてる…」
「残念だったね、せっかく金持ちのイロになったのに、そのせいでこのザマだ」

女は唇に滲んだ血を舐めいっぱいに見開いた目で部屋中を見渡した。置かれた状況を飲み込もうとしているようだった。タイトなドレス一枚、そのほかには靴も身につけずに連れ去られた場所がおれの足下じゃあ目もあてられない。そこに関しては同情の余地すらある。

「私ってとても運がいいんです。あの人の愛人でもありませんでしたし、まだ、ギリギリ。暴かれる寸でにあなたの部下が殺してしまいましたもの」
「与太話を聞く時間じゃねえんだ。ただ生かしてやるほど甘い世界だと思ってくれるな」
「あずかり知らぬ所で見初められていたんですから、たとえ口だけになっても有意義な情報は出せませんよ」
「どうだかね、それを決めるのはおれだ。あんたじゃない」
「まあ、横暴」
「だいたいその格好…とてもいやいやだったとは思えないけど」

レースの裾から覗かせた艶めかしい肌がシーツを撫でていく。爪先まで洗練された動きでシーツの皺をかき、膝口を擦り合わせて腰を捩ると捕らわれの身であるのが嘘のように純白の海が似合いだった。胸の頂がつんと滑らかなシルクを押し上げ、たまらずボルサリーノの鍔を深く下げた。

「私いままで、何度も同じような目にあって、その度に死ななかった。生き延びるためなら豚の夜伽くらい喜んでしますわ。でもそれすら逃れられた、ほら、私ってとても運がいいんです」
「…それ逆に悪いんじゃないの」

所在無げに組んだ指を無意味に組みなおし手前から指先同士を合わせては筋を伸ばしてみたりと手遊びを続けるおれに、下瞼を押し上げて目を細めると女は囁いた。

「縄、嬉しい」
「さてね、おれは知らない」

自由を奪っていた拘束がはらりと力なく解けていた。いつの間に、と女は鋭利なもので切られた縄の切り口をあらためると、執拗に壁を向いたまま背を丸めるおれの手際を褒めた。
おれは知らないから、応える義理もないけれど。

それに助かったと勘違いされては困る。この女の命は変わらずおれの掌の上であって、煩わせない限りで黙認しているにすぎないのだから。

壁と装飾品が全てだった視界におもむろに腕が伸ばされ、足元に解かれた縄が垂れ端からとぐろを巻いていく。重力に任せて残りの端が落ちると、その上に見覚えのあるドレスがいっそ軽やかに重なり落ちておれのほうが悲鳴をあげて部下を呼びそうになった。
あられもない姿で懐に入り込み納まってきた女の腕が首にまわされる。飛び出て毛の逆立った尻尾を乱暴に撫で付けて、余裕を貼りつけた表情が引き攣った。耳の中では心臓が爆音を奏で、平静をたもつふりをするのが精一杯だ。目前に広がっているはずの絶景を見ていいのかすら判断がつかない。情けない。

「へえ、相手してくれるっていうの」
「そのために連れられたつもりなのだけど。私だって、豚より色男がいいわ」

胸元に裸体がすり寄る。慣れない体温に背骨が久々に音を鳴らして正しい位置を越えて伸び、反らせた喉が締まって息までか細くなった。頭のてっぺんから糸を張って吊られた木偶の坊みたいだ。

窓のない壁からは空模様が伺い知れないせいで夜明けまでが余計に長く感じる。腕時計を確認する余裕もないし、と途方に暮れたところで、無遠慮に開かれたドアに少なくともこの緊張からは解放されそうだと悟った。
向けられた銃口で新たな問題が上書きされただけだけれど。仮にもファミリーのトップに許可なくなだれ込んでくるような連中は相場が決まっているから、息を飲んで身を縮めた肌色の塊をジャケットの内側に抱き込んだ。

乗り込んできた男たちは血気盛んに「死んでもらう」などと宣っているが、正直この世界で撃つ前に悠長な詰めの甘さがでる奴は出世は期待できない。
ベッドを盾にどれだけ時間が稼げるか、弾の残数と敵の数、負傷はやむなしと判じるまでに懐が蠢いて胸元のホルスターから銃が抜かれ、気づいたときには遅かった。

「おい、まっ、」

安全装置が外れ、おれの懐からジャケットを目隠しにトリガーが引かれた。オーダーメイドのジャケットが連射式の銃弾でズタズタに破れ翻り、敵を蜂の巣にしていく。それが銃撃戦の皮切りとなった。
不安定な体勢からの射撃では反動に耐えられるはずもなく、銃ごと体をおれに押しつけなんとか保っている。当ててくれと言わんばかりのでかい的を晒していながら敵ばかりが重なり倒れていく光景がまるで現実味なく、反動を直に受ける肋骨の痛みで混乱から引き戻された。

何発か銃弾が擦めていたが、明らかな致命傷は免れていた。おれの腕の中では女が珠の肌を保って顔を埋めながら確実に敵を屠っていく。
とうとう腕力が尽き、平衡を保っていられなくなった銃口がコントロールを失い壁を伝い天井に穴を開けシャンデリアが装飾を散らした。それに留まらずボルサリーノまで打ち抜き、おれの額にかすり傷をつけた銃弾を最後に、ようやくガチガチと弾切れをおこして女の手から滑り落ちた。最悪にも一人を撃ち漏らして。

血の海に伏しながらこちらに銃口を向けている。ほとんど虫の息で照準がぶれながらも任務を遂行しようとする忠義は、ぜひおれのもとで発揮してもらいたかった。しかし、ここまでか。外すほうが難しい距離だ。トリガーに掛けた指に力がこもった。

鋭い発砲音が響き、抱き寄せていた肩が跳ねた。チリ、と赤く一閃の走った頬が熱い。銃口の向きと射出のタイミングを読めれば急所は免れるもんだなと首を鳴らしながら、やはりというか、女は無傷のすました顔で倒れた敵を眺めていた。ため息がでた。納得せざるを得ない。
腰のホルスターから抜いた愛銃の硝煙が燻り静寂が戻った部屋の余韻となっていた。額に風穴をあけ床に鮮血を注いだのは目前の男のほうだったもっと上手く立ち回れればもう少し長生きできただろうに。

「つく側を間違えれば、そこが墓場だ」

それにしても派手にやらかしてくれた。そのうち部下が駆けつけるだろうが、女にうつつをぬかしている間に襲われたなどと吹聴されてはどう尾ひれがつくか分からないから厄介だ。
当の女はおれの胸を押して離れるとジャケットの端切れを払い体を検めている。

「生きてる」

この世で最も味気ない生の実感だった。あたかもそれが当たり前であることを指さし確認するような。

「ああ、すごいよ。あんたほんと、」

飛び出た羽毛が舞うベッドに押し倒し、銃を突きつけた。

「ただの女が一朝一夕でできる所業じゃないなあ」

赤と白のコントラストの中で、むっと充満する生臭さを思い出したように眉をひそめている。

「どこのファミリーのもんだ。言え。目的は」

突きつけた銃が肌を介して内臓を抉った。ひそめた眉が深く皺を刻み息を詰めながらも抵抗の色がない。こんな時でも確信があるから落ち着いていられるのだ、彼女は。

「命の危機に瀕したときに引き金を引ける者と引けない者。私は引ける側だった、というだけですわ。はじめに言いましたでしょ。私ってとても運がいいんです」
「えぐいね、死なないためなら手段はどうとでもしてきたんだ」
「出きることに尽力したのよ」
「これは例えばの話。君に危害を加えないことを誓えば、おれの側にいて…いられるの、君は、」

そろりと銃を退け、柔らかな肌からすぐに視線は泳いでいった。暫しの逡巡ののちにおれを見据えた彼女と、気まずそうに伺う眼差しが交わった。彼女は小さく頷く。

「ふぅん」

部屋の外から、複数の足音がこちらに向かってくる。何事かを言い争い慌ただしく駆けつけたのは二人、幹部を務める二番目と六番目の兄弟だった。
全員が集うことはなかったがすでに遠征先の兄弟にも伝わっているだろう、帰還と共に雷が落ちることを確信してうんざりと拾い上げたボルサリーノを目深にかけた。

「ドン、大丈夫か」
「なにがあったの!?」

累々の死体と見るも無惨なジャケット、艶めかしく肢体を投げ出した女がひとり。部屋の惨状をみとめるや、困惑を持て余した彼らの視線はおれから、そして彼女へと流れる。そこに明確な敵意はなくとも、四方の壁を血に染めるほど熾烈を極めたなかにあって傷ひとつない彼女に警戒の色をありありと見せていた。

身じろぎした彼女のもとへ二人がにじり寄ろうとした刹那、先程の銃撃戦で破損したシャンデリアが自重に耐えかね落下し、彼らの鼻先を掠め進路を阻んだ。肩をすくめ、脱いだジャケットを彼女に掛けてやると、口の端を上げた。

「おい、誰の許しがあって見てる」
「この……ご令嬢は?」

しばしの沈黙のあと、彼女の口元で緩やかに弧が描かれた。

「おれの手に余る幸運の女神さまだ」

トド松と互いに見合ったカラ松が襟を正す。もう一方で、トド松が後ろ手に腕を組んだ。

「これは失礼した」
「ドン、まずは手当てしよう。救護を呼んだから」
「いい、かすり傷だし」
「そう言って、あんたすぐ貧血おこすでしょうが」
「…それより、向こうのアジトにベッド新調して」

それとこれと何の繋がりがあるのか、と首を傾げる二人をよそに、マットレスから飛び出したスプリングをなぞる彼女に向き直る。

「スパイが割れてから、もともとここは捨てるつもりだったから。その、一緒に来てもらうことになるけど…」
「あんなこと言ってるけど、諫めなくていいのカラ松兄さん」
「オレ達は従うだけさ。ドンがここまで我を通したいほどの相手ならな」
「…あっそ。なら、デザインのお好みは?」

スマホを取り出し、手配にとりかかると告げる弟に応えようとして、その類いの引き出しがおれには全くないことに気がついてしまった。この天蓋もベッドにどう必要なものなのか検討もつかない。洒落たものほどおれからは遠い存在で、だから口添えられるのはほんの触りだけだ。

「あんた、名前は」
「ハル」

おれは頷いた。

「ハルにとびきり似合うものを」

契約の印に、と落ちたシャンデリアから長いひとくさりを外してハルの首に巻いた。きらびやかな石が大小連なってそれだけでも映える。

「ありえない」

ジャケットを掛けなおし、ドレスを着るよう促した横から呆れた様子でトド松の進言が飛んできた。

「あ、本物…一応」
「そうじゃない」
「そ、それとあとからちゃんとオーダーメイドして贈るし」
「彼女は来てもいいって言ったの、それで」

ば、と彼女に振り向いた。トップの立場にありながら兄弟に支えられてようやく矜持が保てる。自信というものはとうの昔に落としてきた。指先を爪で掻きながら鍔の下から伺い見る。

「あ、えっと、いい…ん、です…よね?」

ハルはジャケットを胸元に掻き寄せる。ゆるりと笑むとおれの手をとり、その甲にそっと口付けた。




[ 78/78 ]