いつかきっと王子さま


比較的おだやかな波の日に赴けば、その友人はたいていそこに顔を出していた。岩場に上半身を預けて遠くに賑わう海水浴客を眺め時折尾びれが海水を輝かせて翻り水面を打った。日に焼けることのない白磁の肌をもった、彼は人魚だった。

「あいかわらず、泳ぐ気まったくないよね、その格好…人間てのは海に浮かれにくるんだって聞いてたけど」
「楽しんでる人の裏にはね、必ず働き手がいるのよ一松」

ハルが浜辺から岩礁に飛びうつれば、波しぶきがサンダル越しの素足に心地よい。快晴の空のもと、泳いだら最高に気分がいいだろうが、ハルには当面味わえない贅沢だった。

「言ったでしょ、海の家で住み込みのバイトしてるの。遊びにきてる人だけじゃないってこと」

そうは言いつつ、薄手のパーカーの下にはハルもいちおうは周りに合わせて水着を新調していた。水着にしては露出を抑えたチュニックとホットパンツのデザインは普段着としても遜色ない。
その姿が人魚の一松には納得がいかないようで尾びれの先を震わせて水面を白く泡立たせた。

「それに相変わらずなのはあなたもでしょ一松。よっぽど気に入ってるのね、その本」
「気に入ってるっていうか、まあ、興味はなくもないけど」

一松の手元には、正方形に綴じられた厚紙の本があった。児童向けにつくられた童話。表紙には、けなげな少女が海の中から誰かを想い、背景を巻き込んで飾り文字になったタイトルがふりがなを振られて人魚姫、と踊っている。ページごとに印象的なシーンの挿絵が鮮やかに描かれ、物語は全てひらがなで添えられていた。

「読めるの?」
「まあ、この丸いのなら。線がいっぱい固まってるのはさすがに…」
「漢字はねえ。丸いのが分かれば上等じゃない」

一松は一枚ずつページをめくって天日で乾かしながら、よれた厚紙を丁寧にのばした。潮風に取り残された塩をはらう。海水が乾いたあとのざらついた感触が滑らかになっていく。

そうして夕暮れになるとせっかく乾いた本を抱えて海に帰っていき、次の日にはまた岩場でページを開いて海水浴客を眺めている。
全く違う世界の者に恋をして泡になって消える人魚の話に、人魚が夢中になっている。皮肉を凝らせたような光景だった。

一松は雄の人魚でありながら、童話に描かれる王子とも言える存在を待ちわびていた。日々ひしめく人々を目で追いイメージトレーニングだけは抜かりないのだと得意気になる彼が夢みる少女そのもので、表情の乏しい姿とは違う一面がのぞくことが多くなった。

実際に、二枚貝の髪留めと首飾り、真珠をあしらったオーロラにきらめくサンゴの髪飾りを身につけた一松はハルよりもおよそ華美で女性的ではあったが、人魚について見た目の特徴以上のことを知っているわけでもない。

「人魚、半魚人…マーメイド、マーマン…うーん…」
「半魚人以外ならどうとでも、お好きにどーぞ」

当の本人ですらこの有り様なので、ハルも深く考えることはいくらも前に諦めた。

「私も久しぶりに読んでみちゃった、人魚姫。子供のころ読み聞かせてもらって当たり前に知ってる話だと思ってたけど…。そうね、報われない話ってしんみりするなあ」
「つまり世間知らずは相手の話を鵜呑みにするなっていう教訓でしょ。足元みてる条件にはちゃんと交渉しないと。この童話に悲劇があったとすれば、間違いなくここだね。ひひ、おれたちに足はないけど」
「夢がない感想ありがとう。まあ一松の王子さまはきっとこの話みたいにはならないよ、大丈夫」
「保証してくれる?」
「私には、できないけど…でも本当にそう思ってるよ」

ともすれば児童向けのお伽噺を現実的に読み解いてみたり、一松の深い色を宿す瞳からはその本懐を察することはできない。

「ねえ、人魚ってほんとに泡になったりするの?」
「いやそれこそお伽噺でしょ」

掃除屋に分解されて骨になるよ。と淡泊にこたえた一松がちょうど人魚姫が海の泡となって風の精とともに空にのぼっていく挿し絵を開き丁寧に塩を払っている姿を眺めながら、ハルに分かったのはどうやら話をなぞりたいわけではないらしい、という程度だった。

裏表紙の皺までを伸ばし終わると、また表紙に戻りページを開いていく。開きながらハルととりとめもない話に興じ、ふいに流れる静寂に紛れるように鼻歌を柔らかい低い音色で風にのせた。

一松は気分の良いときはこうして人魚の歌声を披露した。それは代々一族の子供に口伝される遊び歌であったり、この日のように脈絡のない鼻歌であったり。とにかくハルは彼の歌を聴くのが好きだった。人間のそれとは違う吸い込まれそうな魅力を孕んでいる。
どこか儀式的で、風の音やさざ波、陽光までもが一松の歌声に織り合わさっていくようだ。

海の底から響くような深みのある、何重にもかさなって複雑な音色を紡ぐ鼻歌はほどなく、鳴り響くサイレンにかき消された。騒然とする浜辺を縫って、数人のライフセーバーが一目散に海へ飛び込んでいく。

「だれか、溺れたみたい。最近おおいね、クラゲ増えてるのかな」
「いや、普通じゃない?」
「そう?」
「数えたわけじゃないから、体感ですけど」
「一松がそういうなら、そっかあ。あ、ねえ行かなくていいの、助けに…あれが王子さまかも」
「うん、したよ。イメトレ」

海のただなかで上がった溺者の水飛沫はみるみる萎み間一髪、静かな波紋をのこして沈むところをライフボードに引き上げられ、沸き起こる拍手に一命をとりとめたことを知る。
今はその時じゃないだけ、と一松は拍子を打つように尾先で水面をたたきハルを振り向かせた。

「一松のお眼鏡にはかなわなかったと」
「だいたい知らない人とか触りたくもないでしょ」
「それじゃあ…まるで誰が自分の王子さまなのか知ってるみたいな口振りね」

てっきり遊泳客の中から見初めるものだとばかり、と目を丸くしたハルには、なべて知人に一松と共通する人物はいなかったはずだった。岩場にいる間は一松が誰かと交流していたこともない。ひとりで岩場にしなだれ本を開く姿がただ絵になるばかりだと、伝承されるに足る様相に目を細めていた。

それが数年越しに、訪れるかも分からない相手を待っていたのだとしたら、ハルはいかほどか残酷な仕打ちを彼にしてきたのだろうか。

「心外だ」

そう言ってハルの頬に水をかけた一松は耳の位置にあるエラを不機嫌そうに寝かせた。思いの外器用らしい大きな尾ひれの先が水を掬った名残でハルを向いている。新調した水着が初めて濡れた。

「…会ったことのある、一松の王子さまなんでしょ?」
「どこぞの王子がほしいとかおれが言ったことある」
「でも絵本が」
「ただのお伽噺がどうかした?」
「興味はあるんでしょう」
「…ん、参考にしたよ」

しんと沈黙が降りたが、一松がまた歌うことはなかった。体の一部のように片時も手放さなかった童話は序盤で止まったまま、紙がめくられることがない。あたら物のように慈しんでなぞる。

「おれはずっとひとりだけ見てるけどね」

耳に残る、海に揺蕩うような声だった。ハルはしなだれた岩場に頬を寄せた彼の瞳に映る自分を見つめていた。ようやくその深い色のなかに彼の願望を見てとった。
海水に濡れた一松の唇が艶めいて緩やかに開かれた。

「ね、ハル。はやく溺れてみせて」



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