蓮華の花 後


いつになく渋い呻き声で目覚めると、高く上がった日がにわかには信じられない。

「いやいや…え?…まじか」

体中の関節が鳴り不定休に甘えてしまおうと楽なほうに思考が働けば、意欲など跡形もなく消え去る。散らばったままの紙類を無秩序にかき集め角を揃えるだけ揃えると、件の書類をただ眺めて日暮れまでを過ごした。

のそりと動けば節々の痛みのせいだけではなくのらりくらりとなにもかもが怠惰で余計に疲れが溜まっていく。

「今日はもう終わりですか?」

そう声を掛けられたのは、裏口を出てすぐ。きのう疎かにしていた生ゴミをほうほうの体で纏めポリバケツに放りこんだ時だった。
ビル間のデッドスペースのような狭い路地に、何かしらの物音には気付いていたけれど、いちばん似つかわしくない存在にまず幻聴を疑った。

「表の貼り紙を見て、その、急だったので気になって裏を覗いてみたらちょうど店主さんが出てきたのでつい」
「ああ、はい」
「ごめんなさい邪魔してしまって」
「いや、気にしないで」
「…今日はもう、終わりなんですよね?」

組んだ指を弄りながらこちらを伺う彼女が欲目も相まっていじらしく、申し訳なさに滲ませた期待が眼差しに乗せられる。

「餃子くらいしかないけど…」

それも準備に時間がかかるけれど、彼女は待ちますと表情を緩ませた。

実際は店を開けてすらいないのに。その理由をうまく言い繕う機転もきかず暖簾のない表から招き入れる。彼女が現れてから、頭の中にはずっと警鐘が鳴り響いていた。
薄暗い店内に真っ先に明かりを点ける。いっそ誰か、手違いでも何でもいいから入ってきてくれと切に思った。おれがどれだけクズな男か知らないからだ。だからふたりきりで狭い空間にいても新鮮だのと宣える。
ほとんど手探りで換気扇をまわし、呻るファンに荒れる呼吸を紛れさせる。限界を超えるのはいつも呆気ない。もうまともには見られない彼女が、例のスープの共有もなく目と鼻の先でまるで無防備だ。

無理だ。悟った瞬間、無我夢中で掴み寄せたのはこちらの挙動を目を丸くして見守る彼女ではなく、店の暖簾。
どう転んだらおれが女の子をどうこうできる展開になるのか、人生を振り返って考えてみろ。無理だ。会話すら続かないのに。
今からでも店を開けて最初に通りかかった人間をとにかく連れ込めばと肩を怒らせたおれの目の前で、クローズの下げ札が外に向けて返され、カタリと扉を打った。
振り向いた彼女が満足そうにきゅ、と目を細める。

「これ、ずっとやってみたくて」
「ああ、はは…。席にどうぞ」

立つ瀬を失えば、どうにでもなれと、そう開き直るのかもしれない。そして出来るのは自分が培ってきたことだけだ。
作りおきの具を包むところから始め、フライパンに注いだ水が撥ぜる激しい音に蓋をして沈黙が際立っても、彼女は頬杖をついて逐一目で追うだけで話が続かないどころかきっかけで既に躓いている。喉まで出かかったものを飲み込んで繰り返すほど、一言目が重くなっていって気付けばほとんど背を向けたまま皿に餃子を移していた。

「お待たせ、しました」

カウンター越しに差し出せば、ぱ、と姿勢を正すものだから少したじろぐ。彼女はこの特別感を客として楽しんでいるのだ。常連の多少のわがまま。融通を利かせただけだと腹を括れば、会話の入りとしては十分だった。
もう習慣ともいえる撮影を経て、けれども今日は珍しくスマホを手放さないと首を傾げれば内装もおさめたいと伺い立てるので手のひらを向けて促す。
追い打ちでおれも餃子と一緒に、などとも勧められたが、それはさすがに了承しかねたけれど。

こちらからは隠れている手もとで醤油、ラー油、酢から思うようにつけダレを合わせ、豪快に一口で消えた餃子が舌で転がされる。

「餃子も一緒に頼もうか、いつも悩むんだけど食べ終わったあとはお腹いっぱいで…これは入らなかったなって納得させて帰ってたから。こんなおいしいの、知らなかったなんて勿体なかったなあ」
「なんならサイドメニューだけでもぜんぜん…かまいません、けど」
「ラーメンが食べたくて来るんですよ、まずそっちに食指が動くんだもの」
「ああ、だからハーフにはされなかった」
「やだ、覚えられてる」
「えっ、あいやこれは変な意味じゃなくてじ、常連さんのことは特に目が留まるっていうか、だ、だからってじろじろ見てたわけじゃなくてその…あ、あの…警察呼びましょうか」

弁解しようのない後ろめたさが墓穴を掘っていく。
広げた穴を深める前に掘るべきは自分の墓だ。お縄になるつもりで自ら店に引いている固定電話の受話器をとれば、なぜそうなるのだとからから笑って彼女が肩を揺らし、それからはにかんで、餃子を含む。

「…照れてるんです」

食んでいた箸先を殊更ゆっくり伸ばし、残りを惜しむように皮の柔らかいところから割り入れ切り分ける。切り口から滴る油の纏わりつく唇に目眩を覚えた。

「私、このお店の雰囲気…すきですよ」

服の上から心臓を押さえ込んだ。聞き慣れない言葉はそれだけが切り取られて容赦なく貫いてくる。おれではない。店のことだ。

「むさ苦しいでしょ、おっさんしか来ないし」
「そこもポイント高かったりするんだけど…私としては」
「いい趣味してるね」
「あとはここから見える外の感じとか。だから撮らせてもらって、記念に……ここは閉めちゃうんですもんね」

肩をすくめて、つまらないジョークでも言うような調子だった。
正確には、移転するだけで辞めるわけではないのだが、この場所にあることに意義があった人にはなるほど、なくなるのと変わりないのかもしれない。

「貼り紙のとおり、ですね」

外に向けて貼られたそれは、内側からは白地にうっすらと黒のインクが滲んでいる。本日の最も時間のかかった作業だ。
さっきから視界を掠めるたびに、勘違いして自惚れかけた自分を思い出し忸怩たる思いで内臓が抉られた。

「ほんとに急だったからびっくりしました」
「あ、いや、もともと兄弟子が居抜きで…あー、内装とか設備ごと安く譲ってくれるって話で…それで、地元のほうに」
「じゃあ、前から決まってはいたんですね」

なんとなく後ろめたい気になりながら頷いた。実際、彼女が通い始めるころには既に書類は手もとにある状態だった。
土地柄が肌に合わないとは折に触れて感じていたことでもあったし、きっとこんなことがなければ手続きの面倒さにかこつけて先延ばしてはいただろうけれど。

チカリと窓の外で街灯が明滅し、思いのほか時間が経っていたことを知らされた。空を染めていた薄明は鳴りを潜めてすっかり街灯の明かりが映えている。
それとなく、帰りを促すべきだろうがまだ餃子の転がる皿を下げることもできず、話の合間に冷めてしまったそれを一口おさめるたびに彼女の伏せた目の縁で睫毛がより深く影を落とした。

「帰り、気をつけて」

外、暗いんで。と耳の裏を掻くおれに彼女の丁寧な謝辞とともにつむじが向けられる。その、いつもは綺麗に髪の流れを作っているつむじがわずかに乱れていて、見てはいけないものを覗いた気がして爪が皮膚に食い込んだ。

「今日はとんだわがままをきいて貰って、ご迷惑でしたね」
「贔屓にしていただいて感謝してます」
「迷惑ついでにきいてもらいたいんですけど」
「…どうぞ?」
「私しばらく来れなくなるんです、仕事の都合で。たぶん次はもう間に合わないんじゃないかな」

それで、と。そこで言葉を切った彼女の、焦らすように噛んだ唇の柔らかさに目を奪われる。こめかみから流れた髪の一房を絡め耳に掛けた指が耳の縁を伝って控えめなピアスをなぞった。

明日、休みなんです。どことなく潜めて朱唇に乗せられたそれがまるで知らない国の言葉のようだった。

「…店主さんは?」

これ以上はしゃれにならない。本能に近い部分でそう感じ取り背中にひとすじ汗が伝う。そして喉を鳴らした。明日は店を開けなければと思いながら。

「あ……休み」

じわりじわりとその意味を自分で理解するにつれて鳩尾のあたりが締めつけられた。


「どうすんの、こんなのつかまえて」

アパートへの最寄り駅を出ると外は肌寒い。電車内の籠もった空気から解放されて次第に冴えてきた頭がやっと正常に働きだした。とぼとぼと静かに連れ立った彼女を気遣う余裕もないままお洒落とはほど遠い二階建ての集合住宅の一室を借り受けただけの自宅にもうすぐ着いてしまいそうだ。

「こんな男にほいほい着いてきてやばいでしょ普通に考えたら……なにも知らない相手に」
「そういえば名乗ってもいませんでしたね私たち。あ、でも食品衛生責任者に書いてあったから私は知ってて……松野一松さん、でいいんですよね?」
「いやそうなんだけどそうじゃなくて、こういうのはお互いもっと知ってからっていうかまあ…今更だろうけど…とりあえず名前聞いてもいいですか…」
「ハルです。好きに呼んでもらっていいので」

ハルさん、ね。口の中で反芻していると隣を歩く彼女が笑った気配がする。アパートまでの道筋を知らない彼女はナビゲートをおれに委ね驚くほど素直に足並みを合わせている。ここでもし、狭い路地裏に入っていったとしても疑いもなくいざなわれるに違いない。
これだけは本当におれが言えたことではないし完全に棚に上げた思考だけれど、この調子で彼女は大丈夫なのだろうかと老婆心が覗いた。

雨風で錆だらけの階段下に辿り着き、一呼吸おいて彼女を一瞥する。特に変わらない表情で外観を眺めて二階ですかと聞くので頷き返す。ここに来てなぜこんなボロアパートに連れて来たのか後悔の念にかられながら彼女のその表情の陰に揶揄が含まれていたかは分かりかねたが、思い止まるための猶予はそれこそいらぬ世話のようだった。
やけに大きく聞こえる靴音を響かせドアの前に立ち、そのとき、部屋の惨状を思い出した。仕事場との往復ばかりの、こんな成りの男のひとり暮らしなど察するに難くない。

「ちょ…っと待ってて。ここで。す、すぐ来るので」

わずかに開けたドアの隙間から体を滑り込ませ脱ぎ捨てられた累々の衣服をまずは一所に集め洗濯機につめていく。使いっぱなしの食器を片し見られては困るものを纏めて押し入れに放り込めば、そのほかは散らかせるほど物を置いていなかったのが幸いしてこざっぱりとした部屋におさまりがついた。

それほど時間は経っていないはずだった。体感でしかないけれど人の怒りを買うような時間ではなかったはずなのに、おまたせ、と開けたそこには見飽きた風景ばかりで、彼女の姿はどこにも見あたらなかった。

「…あー、あー…っそ…」

本気で怖くなって逃げたのかもしれないし、どこかであざ笑っているのかもしれない。ついとさっき笑っていたのはつまりそういうことだったのかもしれないが、理由などさして重要ではなく、残ったのは彼女が賢明であったという事実だけだ。
ため息とともに膝の力が抜けその場に腰を落とした。手持ち無沙汰に首の後ろに手を回し、存外ショックを受けているらしいことに驚いた。

想定していた最悪のケースの中から照らし合わせ、やはりそうだった、こうだったと傷を浅くするのは得意なほうだ。終わりがくるのは突然で気持ちはあとからついてくるもので、きっとまた夜が明ければいかに起こるべくして起こったのかを幾分か冷静に分析できるに違いない。

ひゅうと冷たい風が懐に舞い込んだ。遠くの街灯にぽつりと表れた足早に駆ける人影が彼女に重なっていよいよ振り切るように室内へ引き返そうとした時、明らかに大きくなる足音に少しだけ躊躇する。でも賢明な彼女は帰るために駅へ向かったはずなのでは。

まさかと思う暇もなくあれよあれよとアパートの階段を駆け上がり、コンビニ袋の中で缶酎ハイを踊らせた彼女が息を弾ませていた。

「あれ、え…ハル、さん?」
「あ、ごめんなさい。コンビニが見えたから…すぐ戻ってこようと思ったんだけど歩くとちょっと遠いですね」
「いや言って…危ないでしょ」

このままでは彼女は愚鈍と蔑まれてしまうかもしれないのに、決して明確に帰れとは促さないであくまで受け身の体をつくるのがどこまでもクズのクソ野郎だ。

「氷ありますか?邪道かもしれないけど」
「や、おれもよくする」

袋の中でされるがまま振られて抜けた炭酸が氷でさらに泡立ち口当たりがまろやかに感じる。組み立て式のテーブルで隣り合った彼女の指先がアルコールで赤らんでいく。グラスに絡ませたそれが良くない妄想を掻き立て気休めに氷をかみ砕いてみたがあまり効果は得られそうになかった。

手土産が何もなかったから、と眉を下げて掲げられた酒類におれは一瞬、言葉に詰まってすぐに受け取ることができなかった。後戻りのできないものをありありと目の当たりにしたら簡単に尻込みして何もかも能動的になれない。
もてなせるものがないか、頭の中で部屋中をひっくり返した。こういう時に限ってだいぶ昔に香典のお返しで貰ったお茶と、インスタントのわかめスープしかないことに気が付いて笑顔が引き攣った。幸い冷蔵庫にチーズが残っていたし、つまみくらいはつくれるだろうからと誰に弁論しているのか酒の必要性を強く言い聞かせて、それでようやくだった。

ちぎったレタスでチーズを巻き、それを更に豚肉で巻いてレンジで蒸したものにぽん酢とごま油をかけただけの簡単なつまみ。けれどおれには酎ハイもつまみも、鼻に抜けるアルコールと辛うじて分かるレタスの食感を頼りに飲み下すだけで味などよく分からなかった。一縷の望みも持ち得なかったこの状況に味噌っかすのあたま同様、舌も馬鹿になっていた。

「…ほんとどうすんの、こんなのつかまえて」
「言って欲しいなら……今日で、最後にしたくなかっただけ」
「スープ飲み干すくらい自分好みのものを作るやつが同じように自分好みの人間だとでも思ってる?おれじゃなくても、次のお気に入りすぐに見つかるでしょ」
「べつに私、そこまでラーメン好きなわけじゃないんですよ、初めはたまたまで。ほんとに美味しかったのもあったし、あとは松野さんになんとか覚えて、もらいたくて」
「裏でなにしてるか分かったもんじゃ、ないのに」
「だから、今から知りたいんです…」

即席で寄せた万年床が敷かれていた場所に置いたままだった目覚まし時計の針をくるりと回し、悪戯が成功したように歯を見せて笑んだ。

「終電のがしちゃった」

畳の上に崩した足を投げ出してこちらを覗く彼女と徐々に距離が狭まる。太腿に置かれたほてった指先がなぞるように衣服を這って背にまわされた。口の中が乾いて空気ばかり胃に溜まる。いよいよアルコールのまわった血液が沸騰しそうになりながら、両手が宙を彷徨っている。
触れたら箍が外れてしまわないかと歯を食いしばり、そっと肩に手を添えた。

「…もっと自分を大事にしたほうがいいよ」

世間一般にあるような漠然と描いていた流れとはかけ離れていたが、このまま酒の勢いにまかせてしまえる。けれど次に繋げる度量がないことを身に染みて知ってもいる。今日限りの出来事を生涯に渡って反芻ししゃぶり尽くしておいて、事実からは逃げ続けるに決まっている。

「できれば、順序を踏んでまた今度。今日はやめておこう…ど、どうでしょうか」
「それは………それって…」

さらりと流れた髪の隙間から覗いた首筋まで紅潮していく。隠れるように胸元に顔を埋め、よろしくお願いしますとくぐもった返事が届いた。
予想に反してまわされた腕に力が込められ背筋が痺れる。

「ハルさんあっあの、おれ、風呂っ…く、臭いから」
「じゃあ私も、餃子たべたしお酒も飲んだ」

そう言って肩を揺らした彼女と隙間なく触れ合いまた行き場をなくした両手が彷徨う。
ひとしきり笑って完全に体を預けると今度は触れた部分を擦り合わせて、余計に彼女の体温を意識させられる。順序を踏まえて、などと言ったものの、今現在いくつ階段を飛ばした所にいるのか比較もできず浮かせた腕に辟易していると、ふいに彼女の吐息で胸元が熱くなった。

「松野さん、いいです…そのままぎゅってして」

こういう時はきっと素面で、自分がリードして。まだ幾分か自分が純粋だったころ描いていた淡い理想は粉々に捨て去られ目の前の誘惑に思わず、くうと喉が鳴る。目頭を押さえた。押しには弱いのはおれ、だったのかもしれない。

「遠距離かぁ…がんばるね私」

懐に閉じ込めた彼女が身じろぎ、見上げてきた赤らんだ表情が間近に広がる。

「え…あ、いちおう都内…移転先も…なんだけど」
「え、…え!?」
「電車で30分、くらい」
「…………なんだあ。てっきり…」
「ひひ、田舎もんだとおもった?」
「だって、これっきりみたいな顔してたもの…でも、思い切ってよかった」

確かに、その点についてはぐうの音も出なかった。背を向けて諦めるつもりで、ここに彼女がいなければ始まる前に終わっていたのだ。
静かな室内に目覚まし時計の秒針が正確に時を刻む。ほうと息をついて頬を押しつける彼女を、もう一度強く抱きしめた。




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