蓮華の花 中


理由付けがなされると一気に視界が晴れた。
その日4度目の来店を果たした女はすっかり定位置になった席で片手間にメニューを開きすみません、とおれを呼んだ。水で喉を潤しながら横目でメニューの文字を追い、当初の迷いは見る影もなく今晩の一品を告げた。
なんとなく、そうではないかと当たりを付けていた通りだった。3つ目に載っているラーメンの注文を受ければ、上から順に食べていくつもりらしいと確信を得た。

近隣に軒を連ねるビル企業の一角にでも勤めているのだろうか、そうでもなければ、わざわざこんなむさ苦しいラーメン屋に立ち寄る道理が浮かばない。
日々の業務にぶつ切りに中断されながら頭の中の一部を支配するものに、おれはそう結論付けた。

仕方なしにラーメンを食べに来ているのだ、その人は。不意の残業帰りに開いている手頃な店、腹を満たすことができれば厭わない心身の状態であったのなら、うちの暖簾を潜ったことにも合点がいった。
それだけの線引きをしてようやくこの僥倖にあやかることが出来た。

薄いストッキング越しにスカートの内側と店の空気が触れ合っている。無意識に肺を膨らませていることに気付き、ごまかすようにエプロンの紐を締めなおした。
醤油ベースのタレに切り替わったラーメンにモヤシとチャーシュー、長方形にカットした板海苔をトッピングし、すでに携帯端末を構える前に配膳する。

「ごゆっくりどうぞ」
「あ、ありがとうございます」

別になにも期待などされていないと分かれば、自分でも驚くほど気負わずに言葉が滑り出た。ぺこりと見せられていたつむじが揺れて、慌てて改めて目礼が返された。

なるほどはじめの一品は吟味して、ある程度口に合えばあとは選ぶ手間を省きつつ飽きが来ないようにとその人なりの工夫なのかもしれない。残業帰りであればこれっぽっちも頭を使いたくないのも頷ける。であれば有効な手段に違いないのだろう。
その割に記録に残そうとするのは、陽の元にいる人間との齟齬がありすぎて理解するという範疇を超えているから、遠巻きに眺めておくくらいが関の山だった。

遅くてもメニューを一周分、早ければその人の気分次第でいつでも。縁の切れ目が具体性を帯びると、それが逆に安堵を与えてくれた。釣り銭の受け渡しの緊張感が薄れることはなかったが、正体を掴めなかったものの輪郭があらわになって少しばかり浮かれたおれの頭は、駄目でもともと、どうせそのうち次の店を見つけて同じように振る舞うのだろうと、安易な考えにも手を伸ばそうとしていた。

「ごちそうさまでした」
「あざしたぁ…またお願いしまぁす」

事務的な受け答えなら動揺することもない。ラストオーダー前に去ったその人の席と残した空の器とを見つめ、混み合ってはいないからとカウンターの始末を後回して厨房内の雑多に手をつけた。
その日は追加の注文もなく、手すきの時間があったにも関わらずカウンターに残された器は閉店業務が終わるまでその場所に置かれたまま、つまりはその人の温もりの移った椅子に他人が座ることもなかったのだ。

暖簾を下げ、意味もなく駅の方角を見渡してそれらしき人影がないことになんとなく納得してぴしゃりと戸を閉めた。


あっさり系スープの王道とも言える鶏ガラと、コクを出すためにもみじと呼ばれる足部分、これはコラーゲンが豊富だから売り文句にも困らなそうだ。

一度沸騰した鍋で周りが白くなる程度にゆで、それから水にさらして血合いと内臓をよく洗い流す。臭みをとり、スープが濁らないためにこれは重要なひと手間だ。洗い終えたら鶏ガラは骨ごとぶつ切りにして、香味として適当な長さに切り分けた長ネギと軽く潰した生姜もあわせて鍋に放り込む。
コンロの火力は最大まで引き上げる。煮立ったらあとは小さな気泡が立つ程度に弱火にして2時間ほど煮込み、都度アクをとれば、次第に黄金色に透き通った清油スープに仕上がっていく。

鍋に張りつき食材を漉すまでの一通りを終え、その出来に手応えを得て唇を食んだ。
スープを鶏ガラベースにすることはすぐに固まったが肝心なのは中身で、素材の分量はもちろん、若鶏親鳥によっても違えば、豚骨や魚系を加えてコクを出す場合もあるし使う鶏ガラの品種にまで目を向けてしまえば拘ろうと思えばどこまでも拘り抜けるから、どこに着地するかを自分の中で明確にしておかなければならない。一朝一夕であることも加味してようやく及第点をつけられる。

見えない期限がいつ訪れるのか予想もできないなかでそれでもゆうに月を跨ぐほどの時間をかけてしまったが、未だにその人は順調に暖簾を潜り続けていた。
夜も更ける時間帯に中年の男客がいまいまお愛想かという頃、顔を出したその人の来店は7度目を数え、メニューも折り返しに入っている。刻々と、確実に期限は迫っている。

「…お決まりですか」
「えー、と。つけ麺の…とんこつ味噌で」
「はい…あざす」

聞くまでもないとは思いつつ、つけ麺ひと玉分の麺を用意しながら形ばかりの注文を受ければやはり今回もその人のスタンスは振れずに滞りなく湯に投入される。
中年の男が、そこで席を立った。満腹の余韻もなく会計を済ませてしまえば、人の気配が格段に薄くなった店内にはおれとその人だけ。居心地悪く火にかけられた寸胴よりも随分と小ぶりな家庭用の鍋が、出来上がったばかりのスープを揺らめかせている。

何か話さなければと焦燥に駆られる。
下積み時代の修業先でも自分の店を持ってからも触れてきたものとは方向性のまったく異なる味で、いざその時が訪れると内臓がすべて地の底に落ちていきそうだ。踏ん切りをつけられず要領を得ない手つきが中途半端に麺に乗せる具を用意していく。このまま、あたらスープを無駄にする気か。額に幅広く巻いた手ぬぐいを目深に締めなおす。

「あ、の実はいま新メニュー開発中、で。いや、すんませんその、急に……試食…」

端末をのぞき込み伏せていた顔が跳ね上がり、矢継ぎ早に続けた。

「いいんで、お代は、もちろん…」
「じゃあ。はい、それで」

滑り込みで茹で上がりに間に合った麺を息をつく間もなく湯切り、水で締める必要のなくなったそれを塩ダレと完成したばかりのスープが合わせられた器に滑らせた。その様を、おれの急な問いに少しばかり背を反らして頷き返したその人が興味深げに眺めていた。皺のないスーツを隙なく着込んでいるわりに、押しには弱いのかもしれない。
透き通ったスープから覗く行儀よくまとまった麺が新鮮で確かに得た達成感と、反してすっきりとした見た目になにか物足りなさがあると首を傾げたところで盛り合わせる具材を失念していたことに気がつき、手もとに出していたメンマとナルト、チャーシューなどそれらしい組み合わせを並べ立てて完成とした。

お待たせしました、と差し出すとつむじを見せていつものように受け取ったあと、遠慮がちに視線がこちらに向けられる。すぐに構えるはずの端末も出番を控え、正規のメニューではないから躊躇っているらしい。

「…どうぞ?」

素早くつむじが向けられ、かと思うとまたおれを見上げてくる。まだ何かあるのだろうかという疑念は、しかしすぐに解決にいたった。

「これはなに味…というか…?」
「あ、あー…鶏ガラスープの塩ラーメン、です、すいません」
「とりがら…」
「コラ、コラーゲンとかも入ってるんで、口あたりも軽め、だし女性も食べや、やすいかと…」
「女性に…」

端末に2枚、画像をおさめると、いただきます、と俺の耳に届くように宣言する。レンゲのひと掬いに息を吹きかけ、いざ実食したその人の頬が緩み胃ごと気分も浮上する。

週の中日、夜が更ければ昼時の混雑が幻だったのかと疑うほど客足が遠のくこともよくあることで、ご多分に漏れず流れる静かな時間が割かれなかったのは僥倖だった。もとより、その人以外に勧めるつもりなどなかったのだから。

「どう、でした?」
「美味しかったです、とても」
「そう、ですか」
「コクもあるのにあっさりしてて、食べやすかったです、ほんとに」

器に添えていた手が髪を耳に掛ける。その器の中で、レンゲの先がスープに沈んでいる。いままでは飲み干されて底が見えていた器に残された3分の1ほどのスープを認め眇めた。

「ただ私は、こってりが好きだから」
「そうですか」

財布を出そうとする手もとを身振りで押さえ、あくまで試食であることを強調すれば次いで深く頭を下げ、つむじの先が見えた。その人に初めて、面と向かって日本人の慣れ親しんだ食後の挨拶を向けられ、掠めるように合った目がまた素早く泳いでじり、と後退る。またお願いします、の言葉がつかえたのは久々のことだった。

「参考にさせて、もらいます」
「はい、また来ます」

閉店にはまだ少し早い。
念を押して美味かったと告げて暖簾の外へ消える姿を見送って数瞬、静かに動いた足がその背を追って店先へ踏み出した。都内とはいえ繁華街のようなネオンの光源がなければ質素そのもので、街灯ばかりが煌々と照らす通りをこちらに気付かず駅へ向かうその人を視界におさめる。
おそらく、また来るのだろう。社交辞令を馬鹿みたいに真に受けたわけではないけれど今日の晩飯になるはずだったものを食べそびれたのだから。首の皮一枚つながった状態で更新されていく期限が、先延ばしという形で延びたわけだ。

あたりに首を巡らせて、うちの店に用がありそうな人がいないことを確認し暖簾を見上げた。緩やかな風に煽られて揺れている。閉店にはまだ早い。早いが、店主であるおれがお伺いを立てるべき上司もいなければ、その日店を開けるかどうかまで自由に采配できるのだ。もう一度あたりに視線を走らせてから、おれは暖簾に手を伸ばした。

ちゃぷりと中身の波打つ器を下げながら、不思議と気落ちはしなかった。
心の準備もできないまま会話を強いられて放心していては実感する余裕もないのかもしれないけれど。ぐうと主張した腹の虫に浮ついた意識が引き戻され、自覚するとあまりの空きっ腹に気持ちの悪さすら感じたがそういえばスープにかまけて昼飯をろくにとらなかったことを思い出した。改めて考えればそれだけ力を注いだのだと、どこか遠くから俺の意識が語りかけてくる。
その人だけが味わって、その人だけが知っているのならそれで本望。おれの余計なお世話は隅に置いてその人の好みだという普段の味を飲み干してくれればそれでいいのだ。

なおも腹の虫は主張してくる。たしか、サイドメニューの小丼用の米が残っていたはずだ。あり合わせで賄いをつくろうと炊飯器を開け、吐いた息が無意識に潜めるように震える。少しばかり時が止まった俺の目は焦点を不器用に合わせながら、ほどよくスープの残っているその器を捉えた。

よそった米にみるみるスープが染み、チャーシューの切れはし、それに海苔をちぎって振りかけ器に入れたままだったレンゲでかき混ぜる。浅く震える呼吸が舌を冷やしていく。
この味はおれと彼女だけが知っている。

含んだ瞬間、全身から汗が噴きだした。嚥下したそばから、身体の芯に熱源が通ったみたいだ。

猫舌に心地よく乗ったそれが、けれど確かに火照らせながら喉を通り、食道を過ぎ胃に落ちて更にその下に熱を溜めていく。
矢も楯もたまらず器からすべてをかき込み、喉を鳴らして飲み下せば満たされた腹とは裏腹に燻った熱から湧きあがる新たな欲が餓えたように渇きを訴えた。
水を呷ってもカラカラと喉の奥がひりつく。自分のちっぽけな意志など簡単に飛び越える食欲に似た本能の餓えが唇から余さずに彼女の名残を舐めとり、いよいよ背筋を伝う痺れが痛いほど熱を膨れあがらせると渇望に促されるまま、下腹へと手を這わせた。

作業着の上から掠めて焦らし、大腿を撫で上げ衣服の中へ。そろりと、布を掻き分ける。外気に晒されふるりと垂らした先走りを絡めて、その後はもう、何も考えられなかった。

「っうぁ……は、あー……」

左手で受け止めたそれは寂れたアパートで出すよりも数倍虚しくて、その何倍も気持ちよかった。


非道徳的であると糾弾された場合、言い逃れる余地はおれにはない。けれど事実を知るのがおれだけなら誰にも非難されることはないし、なにより彼女に近付く勇気があるわけがないゴミだからこんな陰湿な行為で満足できるのだ。
つまりおれは、何食わぬ顔でいま、変わらず彼女にラーメンを出している。

「いつもありがとうござい、ます」
「この前の、載らなかったんですね、メニューに」
「…皆さんとんこつ好きみたいで」

少なからず気にしているらしい表情にすぐさま膝を付いて懺悔をしそうになるが、知らぬが仏、という悪魔の囁きにあっさりと耳を傾ける。
そうだ。わざわざ言ってやらなくてもどうせそのうち来なくなるのだから、彼女主観の期限いっぱいまでをどう使おうと、それはこちらに依存させてもらおう。

別皿に盛られた中華麺を具をかき分け豚骨ベースの味噌味のスープにつける。中程まで食べ進んだのを見はからってスープ割り用のハンドポットを添えたらあとは終始無言。次に上がった麺の湯切りをする。彼女とはカウンター越しの明確な隔たりがある。その距離が縮まることはないし釣り銭の受け渡しで触れるか触れないかにいちいち臓器のあちこちが右往左往する程度の知れた男が、よほど奇跡的な何かが起こらないかぎり長くは続かない縁をはじめから諦めて程度の知れたクズさで慰めているだけ。


けれど結局それすら許されるものではないらしい。

「こんにちは」
「はい、いらっしゃい、」

その日は、彼女の座る席についていた土方の若者がようやっと退店したと同時に暖簾を潜ってきた。
スマホ片手に大盛りの塩とんこつとチャーハンを気まぐれに口へ運ぶその男と彼女の来店が重なってしまったらと焦れていたところで安堵したのも束の間、言葉の先を奪われた。身なりよくスーツを纏った青年が彼女に連れ立っている。

いや、偶然同じタイミングになっただけかもしれない。
空いているのは一席ずつがいくつかと、彼女のお気に入りの所は隣接して二席。器を片付けはじめると真っ先に足を向け椅子に荷物を置くと座れるかを打診する。どうぞと示せば、彼女が青年に目配せをした瞬間おれの仮定は塗り潰された。

「ここすごく美味しくてね、ほんとにお薦めなの。でもあんまり混んで私が食べられないのは嫌だから広められないんだけど…あ、つけ麺のとんこつ醤油で。え、私が決めていいんですか?じゃああと、野菜とんこつ味噌ラーメン、お願いします」

こんなに話す彼女をおれは知らない。随所に相槌を打つ隣の青年にこの店のシステムはと話しはじめる彼女の声を否応なく耳に受けながらカウンターを拭いていく。身を乗り出したせいでそれはそれは良く聞こえ、吐き気がした。
空のコップを携えて非の打ち所がない彼女の説明に事務的に重ねた。

「セルフでお願いします」

水を注ぐところから会計までを一手に引き受けたその青年は、言うなれば完璧だった。時折、鳥の囀るような笑い声がその空間から上がり、決して騒がず、速やかに席を立つ。
極力見ないようにしていたけれど、きっと写真は今回も撮っていただろう。もしかしたら青年と仲良く撮りあったりしていたかもしれない。一介のラーメン屋が彼女について言えるのはその程度であることをようやく思い出した。

は、と短く吐いた息と共に脱力感に襲われ、他の客に何度も呼ばれていたことに遅れて気が付く。

「はいすいません。はい、ねぎ塩一丁」

ただ、目の前にやることができれば、それに傾倒できる性質であるのが幸いだった。
それになにかを勘繰る仲では、おそらくないだろうことも頭では理解していた。ある時は年上の余裕で、ある時は同期の気安さで、ある時は年下のかわいさで、職場の人間との食事で奢り奢られを嗜むのが社会の常だ。
それを目の当たりにして、やはり彼女の隣には清潔感のある爽やかな男が似合うと思い知らされた。そんな単純なことだった。

やっとのことで暖簾を下げ、厨房に戻った途端すべてのやる気がそがれ壁伝いに背を預けずるりとしゃがみ込む。冷蔵庫に貼ってあった磁石が拍子に剥がれ、床にメモや書類が散らばった。
汁や脂にまみれて無様に汗水垂らしたおれじゃあな、と素直に納得できてしまう。自嘲が鼻をついて出て額に巻いた布を鷲掴み顔を覆った。

「くっせ…」

作業靴の下で散乱した紙が数枚ひしゃげ、余計に広がって床を埋めていく。発注書、契約農家からの業務連絡、その他必要書類、帰りついでに買っていくものの個人的なメモまで、自分が分かればいいからとひっくるめて管理していたのが仇となった。
その中の一枚に目をとめ、天井をゆっくりと仰いだ。

「そろそろ潮時かもな」

帰る気力も枯れ果てて、奥の棚から毛布を引っぱり出し、厨房の隅に丸まった。
壁掛けの時計の耳障りな秒針の音を聞きながらこうして夜を明かすことに慣れていて良かったなどと頓珍漢なことを思う。そうでもしないと、気が滅入って仕方がなかった。




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