蓮華の花 前


女のひとり客は珍しい、というのが初めの印象だった。
両隣の厚いビル壁に圧迫され、いかにも肩身の狭そうな縦に細長い雑居ビル。かろうじて住所が都内であることだけが取り柄のような古臭いビルの一階に陣を構えたラーメン屋は開店当初、巷では少々話題に上がったらしいが、来るのは専らくたびれたおっさんで女が来ることじたい、稀なことだ。
見れば、通ぶったいけ好かない男を従えている様子もない。

「…いらっしゃい」

言ってから、しまったと奥歯を噛んだ。ねっとりと見定める視線を投げてしまったのもそうだが、自分ひとりで切り盛りしている十席程度の狭い店内でどこに座らせるべきか。L字に厨房を囲んだカウンターの上で空のコップを彷徨わせる。

うちは箸やレンゲなどと一緒に無造作に置かれたハンドポットから水をセルフで注いでもらうことにしている。常連のおっさんどもであれば問答無用で端から詰めてハンドポットも数人で共有させるのだが、女、しかも若いとなれば抵抗があるかもしれない。
人のいない奥側に腕を動かしかけて、いや待てよと脳内で反駁があがった。近頃は女のひとり客を狙った物騒な話も耳にするし大衆の目による監視があったほうが双方安寧を保てるのではないか。こちらも無闇に勘繰られるのは本意ではないので、一部が曇り加工になっているガラス張りの通りに面した席がと思い直し、またいやしかしと別の声があがる。女がひとりでラーメンを啜っている姿を見られるのはどうなのだと。
日も暮れ目立ちはしないが店内から漏れる光と街灯があれば十分に判別がついてしまうだろうと辟易していると、てんで席へ通されないことに焦れたのか、伸ばした腕の先がここへ座れという指示だと受け取ったのか、やにわに女が奥に腰をおろした。いい加減、全てを投げ出して勝手に座らせようとした矢先のことだ。
女心の正解など分かるはずもなし。

「…セルフでお願いします」

ハンドポットを気持ちだけ寄せて、背後から飛んできた注文に耳を向ける。営業時間の終わり際にどっと疲れる接客となった。

メニューを覗き込んでいる女は、とにかく端から端まで目を走らせ、今晩の自分の腹を満たす一杯を決めかねている。よほど吟味する質なのか、おれ程度の店のラーメンでは納得がいかないのかは知らないが、ある程度折り合いをつけて決めてもらわなければ、ただ座っていられるのはこちらとしても対応しきれないのだけれど。
いかほどが経ったのかといえば、女のあとに入店した土方の若者が先に注文し、いま配膳が終わろうとしている。その器に盛られた量に、女が目を見張り、より迷いを持って顔を埋めたメニューからのぞいた不安げに下がる眉尻。
おれは舌打ちを堪えた。

「大盛りなんで。1.5玉。……ハーフもありますけど」

ぐい、と急激に常連客層から視線が集まった。どいつも言外にハーフサイズなどあったか、と含ませている。
確かにメニューには載っていないがここはおれの店であるのだから、大盛りもハーフも、おれがあると言えばあるのだ。今できた。

「あ、じゃあ野菜とんこつ味噌ラーメン…ふ、普通盛りで」
「はいよ、とんこつ味噌野菜一丁」

急いて口走った女が、今度は耳を火照らせメニューの文字を指で追いなおしている。その姿を、早々に視界の外に追いやった。決して読み違えがあったわけではないのだが、あえて訂正してやれるような気の使い方をおれは知らなかった。
客の読みやすい表記とおれの覚えやすい言葉の並びは違うのだ。極論、伝わればいいのだから恥はかき捨てて、わだかまりの残る態度は勘弁してほしい。仕事であれば尚更、心労を増やさないでほしいというのが正直なところだ。

麺を湯にかけると、壁掛けの時計の針が閉店の30分前を示している。

「ラストオーダーなんでどうぞ、今のうちに」

忙しなく手を動かしながら習慣に倣った、幾分か声を張ったそれは特定の人物には向けられずに店内に行き渡る。対角線の端から端でも会話が成立するほど狭い店の中で、一人に確認すればほとんどの客の耳に届いていることをいちいち聞いてまわるのが煩わしく、いつしかこの形に収まっていた。

すぐに方々から、と言ってもごく数人の追加の声が上がり復唱もせず一緒くたに返事をしてから内心ではさっさと帰ってくれと悪態をつく。
日々その感情に支配される度に、営業を締めくくる慣例に則ってなされる客への配慮というのは所詮建前でオブラートに包みすぎた罵詈であるのだなと捻くれた性格を自覚した。

おもむろに閉店の下げ札が店先に向けて返され、カタリとドアのガラス面を打った。
今どき100円ショップに行けば様々な謳い文句が様々な縁取りで取り揃えられ、店を開いたばかりで浮き足立っていたおれが少々の夢を見て買った下げ札だ。結局、厨房から抜ける機会などほとんどなく長らくは店内を向いたまま腐っていたのだが、常連客の何気ないお節介が始まりだったか。ラストオーダーの注文を受けるころに時々使われるようになり、少し腕を伸ばせば届く程度で席を立つ必要もないのならとおれもそれに甘んじている。
常連というのはなにかと便利でもある。

鍋から上げた麺を、決められた高さ、決められた角度で一気に振り下ろす。
味噌ダレを溶いた豚骨ベースのスープに麺を滑らせ、もやしを土台に野菜で小山をつくる。若干、色味が偏ったか。
仕上げに丼の側面を布巾で拭いて女の前に差し出した。

「お待たせしました」
「あ、はい」
「………」

ごゆっくりとでも笑えばいいのか。ラストオーダーを過ぎて?

つい先程、自分の性格の難解さを再確認したばかりのおれにはとてもじゃないが言えるものではない。
ぶぶ漬けどうどすか並の嫌味になり得る可能性まで目敏くすくい上げてしまえば思考の坩堝にはまるのはあっけなく、ぺこりと頭を下げて受け取った女のつむじを見下ろしながら、もとより優柔不断な気のあるおれは迷った末に結局なにも言えずにレンゲと箸を寄せた。
またつむじが見えて、決まりが悪く耳の裏がむずりと痒くなる。

「あの、撮ってもいいですか?」
「は?」
「写真…」
「はぁ……別に」

接客業にあるまじき態度だったことは承知している。それを気にも留めず縦に一枚横に一枚と端末のシャッターを切ったその女とは、あまりに住む世界がかけ離れているのだとまざまざと見せつけられているようだった。やり場のない衝動が込み上げる。

これでお上品に食べられでもしたら裏に引っ込んで頭を掻き毟っている所だが、湯気に頬を上気させた女が一心に麺をすすりはじめ奇しくもそれは改められた。止めどなく麺とスープが吸い込まれていくのを見るのは悪くない。

膨れた腹をさすりカウンターに代金を置いていく客に倣い、箸を置いた女が財布を開いた。洗い物を中断し、エプロンで手を拭く。

「850円です」

置かれた千円札を湿った手にはり付け、精算は奥まった壁際、よほど暇でなければおおかた開いたままにしているレジで。数字キーなど久しく押したことはなく、当然レシートもなかったが気にする人はほとんどいない。

「150円のお返しです」

手のひらを差し出され、カウンターに置きそうになった釣り銭をわざわざ持ち上げた。いつなんどきセクハラと訴えられるか知れないご時世、触れないようにするのに無駄に精神をすり減らしたので次は無視してでも卓上に差し出すことにする。

まず次があるかなど鼻で笑い飛ばしたくなる夢想もいいところだけど、この程度、とあしらわれるような接触でさえ辟易としているのだから、この歳まで童貞を拗らせた野郎には畏れすら抱いても仕方ないもの。

「あざーしたぁ。またお願いします」

ごちそうさまでした、と去り際にかけられた言葉にまた過剰に神経を尖らせて、がらんと誰もいなくなった店内で深く息をついた。
なんてことはない、おおむね丁寧な振る舞いをする客であれば礼儀として添えることは多いし、別段と味に感想を抱かなくても口にするのは容易い定型文のひとつだ。

結局、閉店を5分過ぎて暖簾を下げたが、表の戸締まりを済ませたからとておれの業務が終わったわけではない。
さっさと片付けて最終に間に合わせた電車の座席で脱力してから風呂に入ってしまいたい。

「……あ」

おもむろにテーブルを拭いていた手が止まったのは無害そうな外面で好き放題におれの平素を掻き回してくれたあの女のいた席でのこと。

まとめて重ねた器の中でからん、と。軽い音をさせて、スープまで綺麗に飲み干されたそこにレンゲが横たわっていた。それだけ、と言えばそれまでだけれど。
印象は変わらざるを得なかった。


次にその女が暖簾を潜ったのは、月をまたいでしばらくした頃。確かに「またお願いします」と言いはしたが、その「また」が訪れる機会は後生こないという目算は外れたことになる。

「…お好きなところにどうぞ」

今回は端から諦めて自由に席を促した。

客が増えるのは喜ばしいことに違いない。けれど売り上げから利益として入る粗利率の悪くない商売とはいえ、小さな店舗でものをいうのはなんといっても客足の回転なのだ。
常連になるほど腹を満たす目的のために来てそれが果たされれば早々はけていく。世間話など出来るはずもないおれにすれば願ったりだが、そういうわけで長く席を占有するタイプの客は少々身構えてしまうし倦厭したくもなる。

すい、と視線を一巡させて選ばれたのは前と同じ席。
職業病だ、客のこういった所を覚えてしまうのは。さぞ気持ちの悪いことだろうけれど、だから初回の来店然りとした振る舞いに余念はなかった。

「すみません」

メニューを開くのを見届けて向けた背中に、間髪入れずかけられた声に狼狽えた返事が漏れる。呼び止めたのはあの女だ。メニュー越しにこちらを伺い振り向いたおれにアイコンタクトをとろうとしている。
前はあれだけ時間を要したのに。

「あの、注文」
「あ、はあ…」

とんこつ塩ラーメン、注文したのはメニューの左上、一番はじめに載っている一品だった。

さて決まるまで何組の客が入れ替わるか、ひそかにカウントしようとしていた自分を業務中になにをやっているんだと叱咤して、あとはおれのやることは変わらない。

鋭く水の切れる音が集める視線には毎度のことながら慣れないが努めて足もとを見てやり過ごし、決まったやり方をなぞることに厳密に尽くす。
美味くても流行るとは限らないが、不味ければあっという間に閑古鳥に居着かれる。ひとりあたりの単価が低いぶん尚更だ。

幸いなことに、高騰するばかりの野菜類は死にそうな思いで交渉にこぎ着けた農家から傷物やクズなんかを格安で卸してもらっていた。契約を取り付けた直後にストレスで胃に穴を開けしばらく店を閉めざるを得なかったのは相当な痛手だったが、今もこうして苦手な客商売で生計を立てられているのは無愛想な店主イコール拘りの職人肌と囃される謎の風潮のおかげもある。

「…お待たせしました」

受け取りながら一瞬つむじを向けてきた女は、今度は勝手知ったるように断りを入れることもなく縦と横に撮り直しを含めて何枚かを収めたあと、スープを最後の一口まで飲んで席を立った。

ごちそうさまでした、と手のひらを出して待たれれば、結局カウンターに釣り銭を滑らせるわけにもいかず硬貨の端を慎重につまむ。無視をしてでも、などとよく粋がれたものだ、胆の小ささを突きつけられただけ。

300円の小銭を財布に入れるのもそこそこに去って行った後ろ姿にたまたま急ぎだったのだろうと本日の一連に納得をつけ、空になった器を、なんとなくほかのとは別にして片付けた。


改めてその女の風貌を意識できたのは3度目に来店したときのこと。それはさほど時をあけずに訪れた。
小綺麗にまとめた髪にOL風の出で立ち。どうしたってそぐわなさが際立っていた。思わず目が止まったタイトなスカートは今まで見逃していたのか全く子細を覚えていないけれど、膝丈で清潔感を演出していたとしてもそれだけで目に毒で目頭を押さえた。

また同じ席に座り、水に口をつけながら一通りメニューをなぞるとたいして悩む素振りもなくさらりと注文する。とんこつネギ塩ラーメンは、上からふたつ目に載っている。そんな些末なことが引っかかるのは稀にみる女の客である以上に、ほかとの毛色の違いを感じたからだ。
特定の場所を選びたがる客はそう珍しくもない。ただ、そういった人物はほとんどが毎回同じものを頼む傾向にあったから特に。
チャーシューや海苔のトッピングのあいだに白髪ネギを小山に盛りつけ差し出すと、女はささやかな撮影会ののちに手をつける。

「いただきます」

手を合わせて呟くまでの流れを目で追ってしまうのも、慣れて感慨のかけらもなくなるまでの辛抱だから。

なぜ、そんなふうに思ったのか。ふと疑問を抱いたが割り込んでくるダミ声にぶっきらぼうな返事を投げ、手順が増えるごとにその違和感を追う思考は片隅に追いやられていく。
餃子を蒸している間にサイドメニューの小丼にチャーシューの切れ端とネギを乗せ、できた端から配膳を終わらせる。その過程で多少順番が前後することには目を瞑ってもらうことにする。カウンターから出した腕を引っ込めるついでに回収した器をシンクにまとめた。あとは手すきの時に洗いにまわるまで暫く放置だ。

このまま思い出さなければ重きを置くことでもなかったのだなと平和に収束しただろうに、ちらちらと視界の端に女が映り込む度、綿密に組み立てた優先順位を歪めて遠くに霞んでいた違和感を刺激する。喉の奥に小骨がつっかえたような気持ち悪さが続く。

「あの、」
「は…あ、はい」
「お会計お願いします」
「…あざーしたぁ」

財布を持ち待っていたことに気が付かなかったのは素直に反省の念を抱いた。なるたけ遠ざけていたかったのは事実なのだから当たり前の結果ではあるが、結局こうやって面と向かうことになるなら意固地になるだけ無駄だった。
せめて金銭のやりとりは最低限に、という願いも儚くカウンターに置かれた千円札を受け取り、指先にぶら下げた小銭が女の手のひらに散らばった。

シンクに寄せて重ねられるだけ重ねたものとは隔離された空の器。生ゴミに分別する必要もないほど飲み干され、掬いきれなかった残渣が表面張力でレンゲの底に張りついている。
暖簾を下げてしんと静まる閉店後の店内で手を泡塗れにしながら、ふと思い至った。塩気おおいよなと。
提供する側が、なんと元も子もないことを。頓着するところを履き違えてはならないと承知しつつも、いい機会でもあるし以前から試してみたかったと誰に向けたのか分からない口実めいたことを盾にして新メニューの構想が頭に浮かぶ。
麺に絡めることを踏まえてのスープではやはり塩辛くはなるだろうがなにかあっさりと、口あたりのいいものなら。

「…いいものなら、なんだっての」

頭の片隅から引きずり出された疑問の答えは静かになれば案外と造作もなく掴めてしまった。
これではまるで、今後もその女が通うことを意識しているみたいだ。そも、それこそ一番の謎なのに。
なんだってこんな浮くばかりのラーメン屋を選んだのか、おれには見当もつかなかった。いつ足が遠のいてもおかしくはない。
それを念頭に置いて、おれはただ来た客にラーメンをだすだけだ。なにか気に入られるような要素も、おれにはからっきしなのだし。

ざっと泡を流した器の水気を拭い棚に積み重ねようとして、逡巡するように彷徨った手がその脇にスペースをあけた。

前回ひとつだけ別にしておいたこの器はまた、次に使うときまでしまわれることになる。


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