アンリミテッドハイウェイ

一人旅なんてするもんじゃない、と痛感した。

何をしても上手くいかない現実から逃げ出してみたくて海を渡った。よく言えば自己啓発、自分探し。


幹線道路沿いのセルフサービスのガソリンスタンドで給油を終え、エンジンをかけたときだった。ハル以外には無人だったスタンドに人影があった。
ご丁寧に道路に戻る車の車線上に立ちはだかり、男がサムズアップを向けている。

その剥き出しの腕からふくらはぎから、見事な昇り龍が体を這っているのを認めほとんど反射でギアを切り替えた。逃走を試みたが、男がハンドガンを携える目を疑う光景には、急ブレーキをせざるを得なかった。首が前後に振られ精神も肉体も気分は地層を突き抜けて下降していく。

「ガソスタなんですけどぉ…正気を疑うぅ…」

引き金を引いたが最後、どれだけ急発進したところで木っ端微塵は免れないだろう。
およそ脅してヒッチハイクを成功させたとは思えない、散歩でもするような足取りの男は、目前でふわりと地を蹴った。重力を忘れる滞空時間ののち、ボンネットに腰掛けた瞬間、相応の衝撃が首に追い討ちをかけ現実に引き戻される。

フロントガラスをノックし、口元が「ヘイガール」とネイティブに形作る。

窓をほんの少し開け、苦し紛れにメーアイヘルプユーと言いかけ慌てて頭を振った。日本では便利で浸透している定型文だが、今回に限ってはハルに手伝えることがあっては困るのだ。

「わっつはっぷん!」

しかし渾身の強気は首を傾げられ、ハルが己の英語力に虚しさを噛みしめていると不意に聞こえた耳慣れた発音に顔を上げる。眉を上げた男がこちらを観察していた。

「ジャパニーズか…旅行、ね」

後部座席の一式をちらりと見て、断定的な口調はハルの返事を待たず続ける。

「どっちへ行くんだ」

西か東か。
ひどく拓けた痩せた土地を、幹線道路が真っ直ぐに走っている。素直に進路を指し示すと、西か、と呟いた男が頷いた。

「オーケーだ」

組んだ足を組み替えるようにボンネットの上で翻り、反対側へ着地する。そこから我がもの顔で助手席に乗り込むまで数秒とかからなかった。
男がわざとらしく笑った。

「メイドジャパンは右ハンドルだったか、これは失敗」

これは一瞬でも気を抜けば車を乗っ取られると、今までになく強くハンドルを握った。
しかし、鍵をかけることまで頭が回らなかったのは不幸中の幸いとなった。すんなりドアが開かなければ、きっと割られていたに違いない。


それにしても、自分は西に向かっていたのか。
ハルは車の気配のない車道に律義にウインカーをあげ進入しながら思う。

気の向くまま、時間の許す限り見たものを実のあるものにしようとビザをとり新しい生活サイクルにも慣れてきたところだったが、勘を頼りに旅をしていたつもりが、東の国と称される自国から無意識に遠ざかろうとしていたのだろうか。自由を求めて海を渡ったというのに、いつまでも自国に捕らわれていては当初の目標は達成されない。
新たに、果たすべき項目が追加される。

おもむろに助手席の窓が下がり、腕をかけた男が風を受ける。

「できるだけ遠くまで頼む」
「……えー、図々しい…」
「あんたはどこまで?」
「それが…目的地を探すのが目的といいますか…」

ひゅう、と口笛が吹かれた。

「クレイジーな旅だな」
「いやぁおそらく、あなたほどでは…」
「助かったぜ、しばらく足には困らなそうだ」
「ははっ。でしょうね」

乾燥した空気が流れ込み、げんなりと舌を出したハルの喉を刺激する。先程のガソリンスタンドに行き着くまでもしばらく同じような景色が続いていたはずだった。

前方、後方、一度もすれ違わなかった車の気配が相変わらずないことを確認して身をよじり後部座席の荷物へ手を伸ばす。瞬時に銃口がハルに向けて光り全身から汗が噴きだした。

銃社会において警戒されて然るべき行動だったと猛烈に後悔しながら、極めて緩やかな動作で探り当てた未開封のペットボトルを差し出した。受け取った男が目を丸くする。

「やけに素直じゃないか」
「わたしの安全のためにも、あなたには逃げ切ってもらわないと」
「オレが何から逃げてるって?」
「……逃走中、なのでは?」

着の身着のまま、ハンドガンだけを携えた昇り龍が体を這う男がただヒッチハイクを楽しんでいるわけがない。ハルのなかではすでに聞いてもいない男のバックグラウンドが構成されつつあった。

「逆だ。オレは追ってるんだぜ、兄弟をな」

それは鼻で笑われ簡単にあしらわれてしまったが、なにか彼の緊張の糸を緩めることができたのか、決して手放さなかった相棒とも言えるものを膝の上で分解し手入れをし始める。

「どっちにしても、映画みたい」
「オレがムービースターになったら世界が黙っちゃいないさ」
「言いますね」
「今のうちにコネをつくっておいたほうがいいんじゃないか、そのうち手の届かない男になる」

そうだな、と顎に手をやって逡巡した彼は綺麗に口角を上げた。

「手近なモーテルに入ってくれれば天国を見せてやるぜ」
「けけけ結構ですぅ」

ちらりとバックミラーで盗み見ると、肩をすくめた彼の髪が風に靡いている。いける。
何が、とは明言を避けるが、有り体に言えばハルの好みのタイプだ。
ツーブロックの髪型は日本社会の荒波にもまれた大衆派のハルには眩しく映るも、彼にはよく嵌まっている。ただ、彼の言う天国が比喩ではない可能性を払拭することは縮み上がって震える心臓の持ち主には到底できそうになかった。

部品を扱う手慣れた手つきは様になっていて金属の擦れる音も柔らかく、組み立てるジョイント音が小気味よく耳に馴染んだ。

太陽光を鈍く反射する銃身をしげしげと眺め、それからしばし沈黙があって、彼が口を開く。

「藍松、チャイニーズだ」
「ハル。その、日本語がお上手で」
「ああ…まあな。日本にはゆかりがないわけじゃない」

そのゆかりのおかげで、ハルは人生の転機に立たされているのだが。
路面に大きく主張するルートの数字を見送り、この道が交わるのはいつになるのか遙か彼方の消失点に思いを馳せる。

遠目に盛り上がる茂みを狙い照準を調整しているその銃は、モデルガンだともっともらしく言われれば信じてしまいそうなほど浅い知識しかなければ、実のところ実弾が装填されていることも、ついこの間までお伽話のようにさえ思っていたのに。

ハイジャックを匂わせたりに穏やかな空気になりつつある車内で、疑うことなくペットボトルに口をつける彼は法定速度を遵守するハルに焦れることもなくオーディオを弄っている。ニュースだろうか、あいにくハルには聞き取れないし、この際、一言断ってほしいなどと細かいことは言うまい。

「いいBGMですね、寝ちゃいそう」
「実際あくびが出るようなことばかりだぜ。貿易協議を取りやめるとか、どこかのセレブ歌手が自分の涙を売ったとか、そんなの」
「へえ、てっきり、もっとピリピリした情勢が気になるのかなって」
「言っただろ、逃げてるわけじゃない」
「ご兄弟のこととか」
「いや別に。ただ、映画みたいだろ?」

そのフレーズがお気に召したらしい。つまらないBGMの合間に流れるジングルに合わせてリズムをとる彼は鋭い目つきも鳴りを潜めている。
事を急いているのでないのなら、とわずかな希望がわいた。

少々の資金援助と、次の足の保証、負担は大きいが、法に触れさえしなければ事情が事情である、手を貸すことも吝かではなくなった。平に願い込むハルに向けられる呆れた笑顔がなんとなく想像できた。
それで手切れ、いい勉強、いい思い出として昇華しなければ。

突如、発砲音が耳をつんざいた。コントロールを失った車がダートに突入し、岩に弾かれ片輪を浮かせたのちバウンドして戻ってくる。
後輪のスリップを宥め、止まっていた呼吸を思い出した。

茂みが揺れ、ギャアギャアと飛び出した獣の雄叫びが後方に消えていく。

「ナイステクだ」
「はーっ?!少々お待ちください……はーーっ?!死んだかとおもった!」
「ジャパニーズは平和ボケしていると聞くからな。舐めてもらっちゃ困る」
「と、とんでもない、とんでもない」

銃を持つ手を振り見せつけられ、ハルの幻想は打ち砕かれた。まるで見透かされているようだ。
このまま成り行きに身を委ねれば西に向かう限り隣には彼の姿があるのだろうか。あるいは、本当に、いずれこの車には彼のみが乗っているかもしれない。

果たしてハルは彼の気の済むまで、このハンドルを守れるのだろうか。

「して、座席はいくつご入り用で?」
「どうした急に」

急に、をしでかしたのはどちらか、それを飲み込み、問うた。

「ご兄弟、多いのかなって」
「六人兄弟だ」

数えるまでもなく、どう見繕っても定員オーバー。

「ええい、ままよ」

もとい、それを求めて来たはずだ。
自棄になってアクセルを踏み込んだ。

「いいねえ」

隣から愉快な声があがる。ハルの旅は当面、終われそうにない。


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