4 中二 おそ松

商店街の近傍から外れると、とたんに閑散とした街並みに変わる。
建物の合間に時折取り残された芝生が、冷たいコンクリートに囲まれた緑にある種の神秘を匂わせ、手付かずのまま熱心に下生えを茂らせている。
ぞろぞろと六つの金魚のフンを引き連れハルが駅への道程を逸れて赴いたのも、そういった表通りからの目に触れない通りのひとつだった。

ふいに一行の足が止まったのは、住宅に取り巻かれた俗世から隔絶されるように佇む町工場の手前。廃業から久しく、辛うじて外観を残しているだけの建屋がハルの見上げた先の割れた窓から煙を燻らせていた。

「小火…?」
「タバコだろ、ありゃあ」
「…だろうね」

その紫煙を辿った先に居る者の姿は確認できずとも、敷地をおおいに越えて止められているバイクの群れを見れば人物像は誰何するまでもない。六つ子たちは何故か迫り上がる憎悪にほぞをかんだ。

ようやく手に入れたハルの関心を煙草をふかす程度のことで掠め取られるのではと心中がざわめき、腹の底が煮えるそれは同族嫌悪と称して違わないものだった。
少しばかり揺蕩い、わずかな風に霧散する煙が気に障る。

自己を脅かすまだ見ぬ同種を攻め入ってしまいたかったし、感情が先走った彼らには、割れた窓を見上げたままのハルが、しだいにそれを望んでいるのではないかとすら思えてくる。きっと実践を交えながら指南してくれるのに違いないと。

軒並み鼻に皺を寄せる彼らを一瞥し、ハルは通りの中ほどまで憚るバイクの背にそっと手をかけ、邪魔ね、と呟いた。

「ハルさん?」
「ハルさん…あ、危ないよっ」

唸りを上げてへし合う機体の重厚な音に霞み、ほとんど悲鳴のような六つ子の叫び声は容易く掻き消される。
指先ひとつで火花を散らしながら雪崩れていく中で、ただハルの佇む姿がいっそう華奢さを際立てた。

いつか見た絵画と重なる情景だった。気まぐれに開いた教科書にあったそれは使い回した彼らによって六度にわたり落書きが上塗りされた陳腐の成れの果てであったが、それに等しく、描かれていた奇跡は暇を埋める塗り絵のよくあるひとつにすぎなかった。たとえそこに天と地ほどの齟齬があったとしても、六つ子にはハルの為すものこそ不可侵であるべきなのだ。

数歩、迂回すれば通れたはずのそこは無残な機体の海となり、唯一、ハルの目下にひとり分の道が拓ける。進路を変えることなくするりと足を滑らせたハルを追って、六つ子は慌てて機体を乗り越えた。胃の奥を揺るがす怒りなどどうでもよくなっていた。


いくつもの曲がり角を経てハルがようやく振り返ったのは、人の手を離れて久しい寂れた広場に差しかかった時だった。芝生に痩せた土が剥き出し、かつては公園として機能していたことを思わせる錆びた遊具が点々と残されている。その時代の流れにかろうじて抗う遺物の主張も、肩口で揺れる髪をひたすらに追いかけていた彼らにはまるで眼中に入れることではなかったようだが。

艶めいた唇がゆるりと開かれ、無意識に背筋が伸びた。

「構えてみてくれる」
「は、はいっ。え…ここで?」
「そうよ、ここで。不満があるなら聞くわ」

出し抜けなハルの文言にはまだ暫くと慣れる気がしない。六つ子は激しく首を振る。

「ない、ないです」
「ハルさんに見てもらえるなら、なんでも」

実際のところ、いかなる人物が相手の時も最も意識の外にある要素だった。初動に繋がる構えの何たるかを理解している者などただの一人といなかったが、互いの様子を窺いながら辛うじて即した形をとる。その中で何故か打者に成りきり大きく口を開け天を仰ぐ一人がいたのだが、諫める声と共に五方から小突かれ汗を散らして見様見真似で拳を突き出した。
そろりとハルを見やると、まあこんなものねと、すんと鼻先を上げる。

「脇はもっと締めなさい。…違う、肘は体につかなくていい。力を抜いて肩甲骨を寄せるように。決して力まないことよ」

恐ろしく静かに始まった教示は終始その体裁を保ち、陰りを匂わせ始めた西日を艶やかに弾く唇が基礎をつまびらかに述べていく。それだけだった。身体に添わせて垂らしたハルの両腕は、手合わせを挑発してくることはない。

それこそ完膚なきまでぶちのめされるつもりだった。薬箱の世話になるだろうと身構えてきた彼らには、穏やかすぎる内容だ。

「あたしも一介の女子高生だから、世間体への配慮は惜しまないつもりよ」

もちろん六つ子はこれに頷く。やはりあのバイクの持ち主どもをねじ伏せに行っておけば、という気持ちが鎌首をもたげる度に、ハルの路地裏での出来事を髣髴とさせる笑みに静かに均される。

「だって、人に見られて面倒事が増えるのはごめんだもの」

その時、六つ子を見据えていたハルの耳が何かを捉え、ついと視線が流れた。

「…だ、そうなんで。お引き取り願えますかねぇ」

引き継いだ覇気のない気怠げな声色に剣呑さが混じる。
こちらを威嚇する不躾な足音が近付く気配にハルは振り返る素振りもなく、むしろ気の逸れた六つ子に厳しく言葉を飛ばした。
緩んだ背筋が再び伸びる視界の端の端、限界までを感覚して捉えた人数は片手に余るほどか。先陣を切って肩を怒らせる、いかにも不良を醸す男の咥え煙草が鼻についた。その男が頭で間違いないだろう。随分と苦々しい顔で、次第に錆びた遊具への蹴りを荒げていく。兄弟のひとりが、ひくりと鼻をきかせた。

「あのタバコ、さっきと同じにおいがする」

あれほど機体が破損したのだから固執するのも頷けるが、入り組んだ小道の多い一帯の片隅で息を潜めるこの広場までを嗅ぎ付けるとは、よもやとも思わなかった。このあたりの地理に明るいのだろうか、それでも男たちの思惑以上には手こずったようで、いかに怒りをあらわにした足音が鼓膜を刺激しようと素知らぬ体を貫くハルの横面へ紫煙が襲った。彼女の涼しげな柳眉が歪み、耳障りな下卑た嘲笑がどうしようもなく六つ子の神経を逆撫でる。

「あら、いいのよ」

たまらず殺気の溢れた彼らを止めたのは鈴のように可憐な、凜としたハルの声だった。

「まず考えが及ぶのは自分のことだもの、それに準じて思うように動くのは悪い事じゃないわ。あたしもそう。あたしがしたいようにするの……でも君たちはそれじゃあだめ」

逆らいようもなく降ろされた拳は、諫められなければ確たる決意をもって男の顔面を襲撃していたはずだ。その言葉の意味を厳密に理解するにはやはり致命的に学が足りなかったが、それを抜きにしてもどうしてか、ハルに反駁する気にはならなかった。
ハルの笑みは崩されない。

「君たちの動機はすべて、あたしでなければだめよ」

次の瞬間、ハルの胸ぐらへ突き出された男の腕を寸でのところで鷲掴んでいた。今しがた止められたばかりだということなどすっかり抜け落ち、捕らえた腕の手のひらを上に返して伸ばされた肘の関節を渾身の力で押し上げた。骨が軋み、一瞬の間をおいて耐えきれず破裂するように局部への抵抗感がなくなると、だらりと肘から先をぶら下げた男が口から泡を撒き散らしている。次いで男の襟ぐりをなぞりながら狙いを定めた頭突きが鼻の骨を砕き、反動をつけて引き寄せた襟元を離すと呆気なく支えを失った体が地面に沈んだ。
じり、と草花を焦がす吸いさしの煙草を靴底で揉み消す。

「俺がやる。お前らはハルさんに煙ひと吹きかけさせんな」

騒然とする手下の男たちに対峙したまま、朽ちかけの鉄柵に足をかけた。遊具を囲うためのそれは錆に侵食されきり、体重をかけ梃子の要領でへし折った簡易の得物の強度を確かめるように数度、地面を穿つ。劣化が激しく衝撃が加わる度に縁が綻んでいくが素手より幾分もマシであるし何より鉄パイプの分リーチが補われる。
スナップをきかせ手に馴染ませると、抉られた砂を蹴り上げた。砂の礫は怒号を上げ一斉に仕掛けてきた取り巻きの男たちの視界を奪い、まず先頭の無防備な喉を突く。横方に大きく振り抜き、周りを固める男たちの頭を殴り倒した時、声にならない悲鳴を上げ後方で礫を免れたふたりが背を見せて走っている。

「あ、おい!」

待てと脅せば殊更に止まるはずもなく、地面を滑らせた鉄パイプが砂利と火花を散らしながら足を絡め取った隙に股間を膝で強襲する。「…むごい」と、これにはさすがに兄弟から非難の声があがったが、残りのひとりを確実に手の届かないところまで逃がしてしまっている。それどころではなかった。

「クソがっ…」

力尽くで鉄パイプを『く』の字に曲げ、狙いもそこそこに振りかぶる。「へたくそ」と評されたその投擲は大きく逸れて弧を描き、あわや住宅の窓を突き破る寸前、窓枠に弾かれ勢いを増し、鋭利に割れた先端が男の大腿部へ深く突き刺さった。
受け身を取る間もなくアスファルトに皮膚をこそげ取られ、熱さしかなかった感覚が次第に痛みに置き換わり獣のように唸り痙攣を繰り返している。


「たいしたものね」

基礎の基の字も踏襲されない立ち回りだった。さんざ彼らの勝手を制してきたハルはついにこれを静観し、兄弟が男たちから隔てるように取り巻くのを許している。

予想に反して叱責を受けることもなく、おおむねハルの総評は良い方に傾いていた。
肺に深く息を吸い乱れた呼吸を整える。

「君は何でもそつなくこなすね」
「なんたって…カリスマなレジェンドになる男ですから」
「目についたものはとにかく試してみるといい。その場にあるもので臨機応変に対応出来るのは君みたいなタイプだから、幅を広げておくのはいいことよ」
「はい」
「でもそうね、なにかひとつ、特筆することを身につけなさい。全部をある程度できるのは、何もできないのと変わらないから」

再度の返事は明確な音になる前に口の中で転がされた。

「…すんませんした。俺たちが余計な色気出したから、」

代わりに押し出されたのは、めったに口にしたことのない詫び言。深く腰を折った丸い頭の中のなけなしで培った誠意の示し方はもれなく激痛を伴ったが、耳朶に触れたハルの散会の指示はあくまで穏やかに、酷薄さをもって誠意を押し退けた。
けんもほろろに彼の顔をくしゃりと顔を歪め、しかし見上げたハルは累々と転がる男たちを眇めると、満足げな笑みに赤い舌を覗かせる。

「予定通り、誰にも見られずに片付いたわ」

相変わらず彼らに深く理解する頭などはなかった。広場を後にするハルがこの結末を望み、それが満たされたことに、こめかみの辺りが甘い痺れに覆われ込み上げた何かが溜め息として口から溢れていく。彼女の言わんとすることを、理屈ではなく胸に刻んだ。

そして生まれた感情は彼の中で粗雑に、萎むことなく肥大し、やがて形として現れるのは必然のことだった。
内に秘めておくには些か成長しすぎていた。

ハルは気付いているだろうか、初めて叱咤したのが、教えを説いたのが、誰であったのか。


ある日、ハルの前に整列した彼らには紛れもない変化が訪れていた。
赤色のパーカーを身に着けた彼を筆頭に、兄弟みな服に色がついている。その赤が歯を見せて笑った。

「俺、松野家長男、松野おそ松。よろしくお願いしまあす、師匠」

彼らに無個性という個性を捨てさせたのはハルだった。


[ 44/78 ]