鈍く骨のぶつかり合う音が夜闇に木霊しては消える。陰鬱とした路地裏から断続して響くその鈍音の合間に、微かに人の呻きが混じり、それもまた次の鈍音に掻き消える。

生温い風がぬけていく。流された雲間からさし込む月の光が、街灯の乏しい通りから外れていっそう暗く影を落とすその場所で揉み合う何かのひとかたまりを、同じ顔を持つ六人の兄弟と、対峙する数人の男であると明確にうつし出した。
ひときわ重く筋肉にめり込む音が鳴り、隆々とした男が地に伏せた。

松野家に生まれた六つ子の兄弟の隣には、いつも血生臭い暴力が寄り添っている。
唯一、末弟のトド松は自ら拳を振るうことはせずに気絶した男たちの身ぐるみを剥いで携帯端末の画像に収め、油性ペンで力強く「戦利品」と書かれた巾着袋に抜きとった財布を詰めこんでいく。楽しげな色をのぞかせて作業をこなし終えると、今度は邪魔だとばかりに狭い路地の隅に男を放り投げる。
すでに気を失った男たちが小山のように折り重なり、新たな重みがのしかかる度に苦しげな声が漏れる。

下敷きに倒れた者が窒息するかもしれないという認識を兄弟全員が持ち合わせてはいたが、それは彼らにとって重きを置く事柄ではなかった。
兄弟の中で比較的、一般の常識に目を向けられる三男、チョロ松がそろそろ「死ぬよ」と忠告するかもしれない。その程度のことだった。

喉の奥で引き攣るような薄ら寒い笑い声で、四男、一松が蹴り飛ばしたひとりが何人かを巻き込んで雪崩れ落ちる。
袋小路に六つ子の兄弟を追い込むことで保たれていた男たちの優勢と数の利はとうに逆転を強いられている。誰かが上げた悲鳴を皮切りに急速に伝播した恐怖にかられた者たちが我先に逃げ出す中、尻餅をついたままただひとり残された男が兄弟を睨みつける。

戦意は底をついている。しかし尻尾を巻く恥辱にも耐えられないと繰り出した大振りの攻撃を、長男、おそ松が半身で躱し、胸倉を掴んで組み伏せる。恐怖と憎悪に歪んだ顔面に右拳の一発を落とし沈めると、戻ってきた静寂が久方振りのように感じられた。


その静寂が破られたのは、決して無傷ではない兄弟たちが一息ついてすぐのことだった。

いつも楽観的に笑い飛ばし、意図せずムードメーカーを担う五男、十四松が誰よりも通る声で重い空気を払拭するより先に、ねぇ、とあどけなさの残る鈴を転がすような声が三方を壁に囲まれた狭い空間に反響した。十二個の眼がぎょろりと声の主に向けられる。
そこには兄弟たちよりいくらか年上という程度の少女が唇にゆったりと弧を描き、余裕を思わせる笑みをたたえている。

「あたしのシマで勝手されちゃ、困るんだけど」

都内私立校の小綺麗な制服、まめに磨かれた艶のあるローファーで頓着なく薄汚い路地裏に踏み込んだ少女が、今しがた倒れた男の腹に足をかけ、意にも介さず踏み越える。肺が圧迫されて空気が押し出され、気を失った男の喉から潰れた音が漏れた。
あまりに不釣り合いな光景に飲まれそうになる。

「な、んだよ、お前」

変声を終えたばかりの、ドスをきかせたおそ松の脅しが射抜き少女の足を止める。少なからず威圧しただろう、中学生とはいえ六人に囲まれればただでは済まない。優位の片鱗を嗅ぎ取ったおそ松が、次の瞬間目を見はった。

「あたし?ハルだけど」

おそ松を歯牙にもかけず的の外れたこたえを返した少女は、変わらぬ歩みで再び六つ子との距離を詰めはじめた。得体の知れないものへの敵意が膨れあがった。

一歩ずつ確実に近づいてくる少女に、弟たちはおそ松の合図を待っている。行動するかしないか、それはおそ松に委ねられている。


「…こんな狭い場所でこの人数。バカ極まってる」
「僕たちが誘い込んだんだよ。脳筋どもと一緒にすんな」

反応を求めるものではない、口の中で転がして少女が飲み込んでしまえば収束するはずの言葉に応えたのはチョロ松だった。少しだけ目蓋を押し上げて、少女の歩みは踏み出した片足を戻して制止された。間合いの、ギリギリ一歩外。
そういったノウハウの厳密なところは、彼らの念頭には置かれていない。いちいち呼称にとらわれず、ただ感覚として自分たちが十分に動ける範囲を理解していた。

どうすんだよ、とおそ松を煽り、チョロ松が苛立たしげに組んだ腕を人差し指で叩いている。
佇む少女は自身の足元を暫く見つめたあと、その眼が地を追って移動し、見上げた先の六人を眇めた。間を嫌ったのは、トド松だ。

「仕掛けてきたのはそいつらだし、ボクら言わば被害者だよ。正当ぼーえー」
「つーかこっち六人、あんた一人。どう考えても分が悪いと思うんですけど、なに企んでんの」

トド松のあとに一松が続け、強く警戒の色を宿した目で睨みつける。

あと一歩、彼らの間合いに入ってしまえば戦闘は免れないだろう。おそ松の半歩後方に控えた次男、カラ松が緊張の糸を張りつめる。真一文字に引き結んだ口元は少女に留まっていて欲しいと切に願っている。女に手を上げることを呵責する良心を持ち合わせているのか、手の内の見えない相手に、疲弊した兄弟を案じているのか、少女には分かり兼ねたけれど、それ以上の侵入を拒むピリとした空気が静かに肌を打った。
磨かれたローファーの爪先が兄弟へ向く。

「君たち、意外と優しいのね」

そして少女は、無情にも彼らのテリトリーに足を踏み入れた。


「おい」

おそ松のそのひと声にカラ松が動く。
強く地を蹴り少女の懐に入ると、肩を掴んでバランスを崩すように引き倒し、背後に回り込みながら、前のめりに空をかいた少女の腕を捕らえて背に押し付け骨が軋むほど締め上げた。少女の細身から苦しげな息が漏れる。追い打ちのようにカラ松が少女の背に肩を入れ、仰け反る少女がもがくほどに足が浮いた。

「…すまない」

耳もとで艶のある低音が気遣わしげに囁いたが、緩めるつもりは毛頭ないらしい。少女は何度か腕を引き抜こうと試み、現状が変わらないことをみとめると潔く抵抗を諦めた。

「いい子だ」

艶のある声がまた耳もとで囁いた。
辛うじて届いた爪先立ちで、浅い呼吸を繰り返す少女に、おそ松が近づく。片側の口角を引きあげ、歪んだ笑みで頬を挟むように掴み向き合わせた。鼻先が触れるほど近い。

「お姉さんさ、俺たち何回も逃げるチャンスあげたよね。正気?気に入らない相手なら、俺らジジババでも女子供だって容赦しないよ」
「じゃああたしも、そうするわ」
「は、」

一瞬の間を突いて、少女が右足を振り上げた。咄嗟に身を引いたおそ松の顎を掠め、間髪を入れずに左足のかかとが鳩尾にめり込む。
内臓が抉られる鈍痛に血液が沸騰し、瞬く間に冷や汗によって熱が奪われる。横隔膜が引き攣り呼吸が阻害され、嚥下の余裕もなく口の端からボタボタと涎を垂らしながら、おそ松はたまらず膝をついた。
地面を踏み込んで蹴り上げられる体勢ではなかったのに、なぜ。

少女は両足を浮かせたまま、更にカラ松の頭上から後方へと身を反転させる。逆さになった少女の目とかち合い、か細い肩からゴギリと、関節の外れる音がカラ松の耳を打った。
軟体動物のようになめらかな動作で背後に着地した軽やかな靴音と、思わず弛緩した手元から抜け出た少女の腕とに思考が奪われた刹那、上段の蹴りがカラ松の側頭を打ち抜いた。
全身が鐘になったような衝撃に天地の判別がつかず、どうと倒れる。

歪んだ視界と耳鳴りで脳が揺さぶられる感覚の中、激しい嘔吐感に胃の内容物を全てぶちまけながら、事も無げに腕を振り肩関節を入れている少女が微かに見えた。

「ケッ、逃げられてんじゃねぇよ」

砂利を蹴散らして近寄る一松の声に、意識が繋ぎ止められる。

己の非で手放したのは事実だが、カラ松はまだ理解が追いつかずにいた。
少女ごときに解かれるほどやわな拘束ではなかったはずだ。その強堅さを逆手に、捕らえられた腕を軸にしたのだとしたら、あの身のこなしは己の腹筋のみでコントロールしたということだろうか。じっとりとかいた汗で、掌に砂利がはりつく。

カラ松が明瞭な視界を取り戻すと、十四松とトド松がもんどり打って背中をしたたかに打ち付けもがいている。元来、気性の優しい二人には、少々荷が重い役目だったかもしれない。
およそ本気を出せずにいる者に感化されるような相手ではないだろう、とまだ感覚の覚束ない手足で砂利をかきながら、一瞬重なり合った少女の目が網膜の奥に過ぎると末端に残るものとは似つかぬ熱い痺れが脳に靄をかけた。


少女に対峙するチョロ松に、一松が並ぶ。ふっ、と少女が呼吸を整える。

再び捕らえようとチョロ松の腕が突き出される。その腕を手首を返していなし、向かってくる勢いを殺さず後方へ引き込んで裏拳を落とすが、手応えは浅い。二、三転してから、すぐに間合いをとり体勢を立て直したチョロ松の二撃目を迎えうとうとして、死角から髪を掴まれ首が仰け反った。
やれチョロ松、と狂気に満ちた一松の声と同時に指に絡んだ毛束がちぎれる。生理的な涙が滲み膜を張り、顔をしかめた少女は拭う隙すら惜しんで倒される力に合わせ足を引いた。腰を落としながら一松の右足にしがみつき重心をずらす。顔面めがけて降ってきた拳を内から外へ強くはじき、開いた体の懐から狙いを定めた顎へ掌底を叩きこんだ。

一松の目が散瞳し、膝からくずおれる。降りかかる一松の腕と胸倉を引き寄せ足を払い上げると、ぐんと持ち上がったその体を、少女が上体を振り下ろした遠心力にまかせ、目前でたたらを踏んだチョロ松に上から叩きつけた。
受け身もなく胸部が圧迫され、かは、と酸素を求めて喘ぐ。

緩慢な動作で退いた一松の下からようやと這い出たチョロ松が見たのは、自分たちよりもずっと華奢な少女の後ろ姿だった。

「ああ、君たちみたいなのは、こう言わないと伝わらなかったかな」

短い黒髪を揺らして振り向いた少女は、変わらぬ笑みをたたえている。

「あたしのシマで勝手してもらっちゃ、目障りなんだけど」


その気になれば、まだ立ち上がる余力が残っていたかもしれない。しかし兄弟たちは、悠然と路地から歩き去る少女の背をただじっと見つめることしかできなかった。
言い知れぬ恐怖と胸の内に燻るなにか。

「…すげぇ」
「かっこいい…」

雲が流れ、月が翳る。再び支配した暗闇の中で、誰となしに呟いた。




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