ガチャリと家の扉の鍵を開ける音がしたのは、時計が夜の十時を回ったときのことだった。

ソファの上で寝転がっていた俺は顔を上げる。
やっとあいつが帰ってきたらしい。

いつもは夜の七時には帰ってきて夕飯の用意をしていたのに、今の時間まで待たされていた俺は腹が減って死にそうだった。
冷凍庫にはアイスの一つすら常備されておらず、餓死寸前まで追い込まれた身としては文句の一つや二つを言う権利くらいある筈だ。

玄関の方を見ると、仕事を終えたであろう同居人の片桐大介がそこにいた。

「ただいま……」

奴の口から零れ落ちたまるで覇気のない声に、俺は思わず首を傾げる。
いつもなら部屋中に響き渡るような声量で自分の帰宅を全力で訴えてくるのに、一体どうしたというのだろう。

しかしその程度のことで大丈夫かなどと身を案じるような言葉を掛けてやる気は更々ない。
俺はソファの上でくつろいだ姿勢のまま大介を睨んだ。

「遅ェぞ。いつまで俺を待たせるつもりだ。まずは飯。腹が減ってんだよこっちは」

端的に、そして的確に俺は自らの要求を大介に伝えたつもりであったが、奴は俯いたまま死んだ魚のような目を泳がせるだけでまるで動きだそうとしない。
「あぁ…」と一声発したきり何も言わず、どさりと俺の寝ているソファの上に腰を下ろした。
いよいよこれはおかしいと俺が気付いたのはその時である。

「おい…どうしたってんだ?飯作れって言ってんだろ。こんな遅くまで仕事して、あんたもそれなりに腹減ってんだろ?動けねぇってんなら少しは手伝ってやるからよ」

目の前でひらひらと手を振って大介の顔を覗き込んでやると、奴は気怠そうに顔をあげて俺を見た。

「飯……あぁ、夜ご飯のことね。ごめん、零、僕は外で食べてきちゃったんだ」
「――はぁ!?聞いてねぇよそんなこと!!」

さらりとそんなことを言い出す大介に、俺は反射的に声を荒げて立ち上がった。
こっちは今の今まで我慢していてやったというのに、勝手に食べたとは一体どういうつもりなのだろう。
外で食べてくるというのならその旨を電話なりメールなりで伝えてくれれば俺だってそうしたというのに。

同居人であるこの俺を放置しておいて、自分だけ外で旨い物を食ってきたという罪は重い。
俺は怒りを露にして大介の前に立った。

「おい…ふざけんなよテメェ…まさか自分だけ外食してきたからって今日は飯つくらねぇなんて言うんじゃないだろうな?こっちは何の連絡もなしにこんな時間まで一人で待たされてたんだよ。何でもいいからさっさと作れ。このベクター様を餓死寸前に追いやったことに対する懺悔の気持ちを込めてなァ」

声に十分ドスを利かせてビビらせてやるつもりだったが、しかし今の大介には全く堪えていないらしい。
奴は相変わらず虚ろな目で「ごめん…」と言うだけでやはり動こうとはしなかった。
俺も大概舐められたものである。

こうなれば何としてでもこいつに飯を作らせてやろうと決意したその矢先、大介の顔がすっと俺の目の前から消えた。
奴は遂に座ってすらいられなくなり、ソファの上に倒れ込んでクッションに顔を埋めていたのだった。

「ごめんね…零…でも今日だけは本当に駄目なんだ。もう明日への希望が見いだせない。死ぬしかないんだ……」
「勢い余って何口走ってんだテメェは。わけわかんねぇことで暗くなってんじゃねぇぞ、こっちは腹が減って死にそうだって言ってんだよ。死ぬのは勝手だがせめて俺の飯を作ってから死ね」
「冷たいなぁ零はどうして何があったのかとか訊いてくれないんだい……」

訴えるような目で此方を見てきた大介の顔がほんのり赤くなっていて、あぁこれは酒が入ってるんだなと一目でわかった。
全くなんて面倒臭ぇ状態で帰ってきやがる。

しかしこのまま放っておいても永遠に飯にありつけないことは最早目に見えているので、俺は大介がいる場所の隣に腰を下ろしてやった。
話を聞いてやる代わりに終わり次第飯を作らせようという魂胆である。

「大介よォ…一体何があったってんだ。悩みがあるならなんでも聞くぜ?このベクター様に相談してみろよ」
「うん…ありがとう、零……でもその前に約束してくれるかい?絶対、誰にも言わないって」
「勿論言わねぇさ。大体言う相手なんかいねぇんだからな」
「確かにそうだったね。じゃあ笑わないとも約束してくれる?」
「それはわからねぇな。笑うかどうかは俺が聞いてから決めることだ」
「駄目だよ約束してくれないと。そんなことじゃ君に教えられないじゃないか」
「わぁったよ……笑わなきゃいいんだろ笑わなきゃ」

話を聞けと言ったり聞かせないと言ったり、本当に面倒くさい奴である。
本心ではこいつの悩みなど心底どうでもいいのだが、とりあえずは優しく聞いてやる体を装うことにした。

大介は暫く「あぁでも言おうかな…どうしようかな…」と鬱陶しい独り言を呟き続けていたが数十秒後、やたら真剣そうな顔で此方を向いた。
これから自分の人生を左右することを言うかのような、そんな表情であった。

「……振られたんだよ、付き合ってもう一年になる彼女に。もう耐えられないから別れましょうって」
「…………は?」

一体奴が何を言っているのかわからず、俺は思わず間抜けな声を出してしまった。
俺の抱く大介のイメージからは余りにかけ離れた言葉が出てきて、何処からツッコんでやればいいのかわからない。

「振られたってお前……それはいつ、何処でだよ」
「今日の夜、彼女の家の前で。仕事終わって、どうしても会えないかって言われたから……急いで会いに行ったら、急にそんなこと言われたんだ」
「そいつとはお前付き合って一年になるって言ったよな?そもそも彼女なんていたのかよ」
「いたよ。君と知り合う前からずっと。プロの大会で知り合ってから大事に大事にしてきたのに、まさかこんなことになるなんて……」
「その大事にしてきた彼女に、テメェはどうして急に振られたりしちまったんだよ?」
「君を家に居候させるようになってから、中々会う機会が無くなっちゃってね……でもそれだけじゃないんだ、酷い勘違いをされたんだよ僕は」
「……何だよ、酷い勘違いって」

俺が訊くと、大介は一層暗い顔をした。
振られたという話以上に、それは言いにくいことのようであった。

奴は俺を悲しみとも怒りともつかぬ、複雑そうな表情を俺に向ける。
どうしてそんな目で俺を見るのだろうか。

その答えはわざわざ俺から訊くまでもなく、大介が振られた原因そのものに直結しているのであった。

「見られたんだよ。……彼女に、僕が君と一緒に家に帰っていくところを。
それだけならまだしも、たまたま一緒に買い物してるところとか、君が朝僕の家から学校に向かってるところとか、色んなところを目撃されてて……あらぬ疑いをかけられたんだ。
……僕が中学生の男の子を彼女に内緒で家につれこんで、よからぬことをしてるんじゃないかって」
「ンなっ……、――はぁアア!?」

自分の決め台詞を勝手に使われたにも関わらず、それを指摘することすら出来ない程に大介の言った言葉は衝撃的であった。
まさか奴が女に振られた原因が他でもないこの俺にあったとは。
自分には関係のない話と思いきや一瞬にして当事者にされ、俺は柄にもなく焦り始める。

大介の彼女に浮気相手と勘違いされるだなんて冗談ではない。

「そこはテメェ……ちゃんと否定しろよ!そういう関係ではありません僕は真月くんの配下として一方的に衣食住を提供してるだけですってよォ!」
「否定はしたさ!でも全然信じてもらえないんだよ!親戚の子を預かってるんだって言っても、それなら今まで秘密にしてたのはおかしいだろって!あと僕は君の配下じゃない!!」
「でもそういうことなら完全にお前が悪いわ!普通なら上手いこと誤魔化して切り抜けられる場面を思いっきりミスしてんじゃねぇか!若しくはそういう発想にしか辿り着けないお前の女が悪い!」
「ユミちゃんのことを悪く言うな!元はといえば君が原因なんだろ!!」
「知らねーよユミちゃんなんて!!一年も付き合っておきながらその程度で別れるテメェらが異常なんだよ!!」

ついムキになって大介を責めてしまったが、大介の方も俺の所為だとあたってくるのでお互い様である。

暫く言い合いを続けているとなんだか馬鹿らしくなってきて、俺は「知ったことじゃねーんだよ」とソファの前のテーブルに足を投げ出した。
エネルギー補給を怠ってしまったために叫んでいると疲れるのだ。

こんな馬鹿の為に俺は此処まで腹を空かせていたのかと思うとなんだか虚しい気持ちになってくる。
付き合って一年だかなんだか知らないが、その程度で別れるような関係なら遅かれ早かれきっと駄目になっていただろう。
よくもまぁ一年も持ったなというくらいである。

俺は大介の隣で腕を組んだまま、姿勢を更に崩して天井を仰いだ。

「しっかしまぁ……まさかあんたに女がいて、この俺が原因で振られることになるなんてなァ。さすがにその発想は無かったぜ」
「それは僕も同じだよ。あれだけ真剣に付き合っておいて、浮気を疑われるなんて思いもしなかったさ」
「だよなァ……熱血馬鹿のあんたが中学生の、しかも男相手によからぬことって……ヒャハ、クヒャハハハッ」

堪らずその場で笑い声をあげると大介の方から「笑うな!」という声が飛んできたが、そんなことはお構いなしである。
笑わない約束など知ったことではない。

一通り満足するまで笑い転げると、俺はポンポンと慰めるように大介の頭を叩いてやった。

「まぁ、そんなこと気にすんなって。次の女くらいすぐに見つかるさ。お前も一応プロデュエリストなんだし、それなりにはモテんだろ?」
「そんなことないよ、みんな上辺ばっかりでさぁ……しかもまた同じ過ちを繰り返すかもしれないし」
「次は上手くやればいいだけじゃねぇか。でも家に知らねぇ女は連れてくんじゃねぇぞ、鬱陶しいからな」
「自分が出ていくって発想はないんだね君は……本当に自分のことばっかりだな」
「なんとでも言えよ。テメェが嫌がろうが何しようが、この家にはもう暫く世話になるからな」

図々しさを全面に押し出して言い放ってやると大介は益々眉間に皺を寄せ嫌そうな顔をしたが、今となっては見慣れたものである。

――じゃあ落ち着いたところで、飯でも作ってくれねぇか?
この俺を何時間も待たせた分、いつもより手早く豪華にな。

そんなふうに大介をつついてやると、奴は「うぅん」と面倒くさそうに立ち上がって伸びをした。
今日のこいつは相変わらず覇気がない。

俺は早いところ旨い飯に辿り着くために、自分の考え付く限りで一番有効な方法を使って大介を鼓舞してやることにした。

「お疲れとは思いますけど、お料理頑張ってくださいね、大介さん。僕、美味しいご飯にありつけるのを、とっても楽しみにしていますから」

にっこりと笑ってみせて、語尾にハートマークが付くほど甘ったるい声でお願いする。

途端に不機嫌だった大介の顔がふにゃりと緩みきった笑みに変わり、俺は狙い通りと内心ほくそ笑んだ。

そんなんだからお前は彼女に振られるんだよと言ってやりたい気持ちになったがそれをぐっと抑え、俺はキッチンへと向かう大介の背中を押していった。


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