振り下ろした剣は、彼女の左肩から心臓にかけてを真っ二つに斬り裂いた。
ぱっくりと割れた胸から夥しい量の血が吹き出る。
見開かれた目が此方を凝視している。
差し出された白い手は力を失い、何も掴めないまま重力に逆らわずに落ちていった。
たった一振りで滅茶苦茶に壊されてしまった身体は、生を感じさせない動きで崩れいく。
まるで悪夢のようだった。
掌に剣の柄と生々しい感触を残しながら、彼は信じられないような気持ちで目の前の光景を見つめていた。
頬に付着した生温かい滴と鉄の臭いが、視界に広がる赤色の意味を容赦なく訴えてくる。
血の海のなかで横たわっているのは間違いなく彼女の身体だ。
名前を呼んでも返事はない。
裂けた胸からは今も絶えることなくどろりとした体液が流れ続けている。
カラン、と音をたてて血塗られた刃が彼の手から零れ落ちた。
膝をついて、痺れる掌を真っ赤に染まった地面に滑らせる。
カタカタと指先が震えて止まらない。
呼吸するだけで鉄臭さが肺に入って噎せ返る。
こんな筈じゃなかった。
その胸に突き付けられているのは、自らが招いてしまった偽りのない現実。
彼女は何の罪も犯していない。
ただ彼の前に右手を差し出しただけ。
その手を取りたいと心から思った。
今度こそ信じたいと強く願った。
なのに、それなのに、自分は、どうして。
全てが変わったのは彼女の目を見た瞬間からだった。
歪んだ瞳に薄く滲む、深い深い憎しみの色。
ボロボロと大粒の涙を溢しながら、彼女は此方に手を差し伸べた。
――大丈夫。
――大丈夫だから。
弱々しく掠れたその声は、まるで泣き止まぬ子供に語り掛けるようで。
罪人の死体が転がるこの場にはあまりにも不釣り合いなくらい、努めて優しい色をしていたことを憶えている。
たった一人になったとしても、彼女は死を望まなかった。
絶望と恐怖に震えながら、それでもこの世界を終わらせまいと必死だった。
彼は彼女を知っていた。
遠い昔、共に幸福な未来を誓いあった相手だった。
誰よりも国を愛する少女だった。
だから、嫌が応にも理解してしまったのだ。
この国を血溜まりに変えた王子を、彼女は決して許さないだろうと。
例え選び取ったのが再生への道だったとしても、その手は救うために差し出されたものではない。
わかっていたからこそ、彼は耐えられなかった。
縋る相手は彼女しかいない。
いつか彼女が自分を裏切るのが怖かった。
目の前にある白い手が自分の首を絞め上げる、その瞬間が来るのが恐ろしかった。
自分の気持ちに嘘なんて吐かなくていい。
お前も本当は殺したいくらい憎いんだろう?
偽善なんかで誤魔化すなよ。
腹の底から突き上げる衝動を、抑えることなんて出来なかった。
「ぅ、あ……ぁ、あああああああ」
血に濡れた床を這い、彼女の亡骸へと手を伸ばした。
抱き寄せた体躯は酷く軽い。
彼女はこんなにも軽い身体をしていたのだろうか。
まるで全てを出し尽くして脱け殻になってしまったかのようだった。
本当にその通りだった。
流れ出る生き血はもう一滴もない。
彼女の心臓は動かない。
自分が殺した。
誰よりもそれを望まなかった筈の自分が。
何処で間違ったかなんてわからない。
何が正しいのかもわからない。
誰も教えてくれなかった。
気付けば護ってくれる者はいなくなっていて、自分で決めるしかなくなっていた。
仕方がなかったのだ。
罪人には裁きを、疑わしき者には罰を与えた。
曖昧なままで悪が野放しにされることを決して許さなかった。
だってそうしなければ、きっと誰かに殺される。
父様だって母様だってそうだった。
信じてたのに裏切られた。
そんなことはもう許さない。
誰にも嘘なんて吐かせない。
残された王子が思い描いたのは裏切りも偽りもない、まるでお伽噺のような世界だった。
そんな世界が欲しかった。
穢れを全て棄てきれば、綺麗なものだけ残ると思い込んでいた。
けれど、もう彼の手には何も残っていない。
護ってくれる者も、護るべき者もいない。
誰を何から護ろうとしていたのかさえわからない。
幼き日々を過ごした城はいつしか悲鳴の迷宮と呼ばれるようになっていた。
王宮の外は幾つもの屍で埋め尽くされていた。
この国で彼は一人きり。
誰もが彼を置いて別の世界へと行ってしまった。
どうすればいい?
どうしたら、理想の世界に辿り着ける?
その答えを見出だしたとき、血に濡れた切っ先は真っ直ぐに彼の胸へと向けられていた。
その手はもう震えてはいなかった。
口許に微かな笑みを浮かべる。
彼は穏やかに天を仰いだ。
まるで自分の命を代償として、神に救いを求めるように。
最早意味を失ってしまった生を、彼はいとも簡単に斬り棄てる。
そして、刹那。
手にした刃が彼の胸を貫いたとき、視界を赤い閃光が横切り明滅した。
凄まじい痛みが走る。
指先がどろりとした中身に浸かる。
思考が止まる。
やがて赤は黒に変わった。
ぐらりと傾いた身体は傍に横たわっていた亡骸に覆い被さり、そして二度と動かなかった。
薄く開かれたままの瞳から、透明な雫がぽたりと落ちる。
色も形も持たぬそれは、瞬く間に赤い血溜まりへと溶けていった。
自身の抱える矛盾に気付かぬ魂は、その孤独を癒す術を何一つ知らない。
例え生まれ変わっても同じこと。
疑うことしか知らぬまま、内に狂気を携えたままで、彼は繰り返す生をさ迷い続ける。
一人きりの暗闇のなか、助けを求めるその声は、きっと誰にも届かない。
>>atogaki