退屈なことは嫌いだった。
けれどそれ以上に、煩わしいことは大嫌いだった。

闘うことは好きだが争うことは面倒だ。
遠い昔から語り継がれてきた歴史、自らが生まれ育ったバリアン世界が"アストラル"と呼ばれる世界と互いの存亡を賭けて闘い続けていることなど、アリトにとっては所詮お伽噺の出来事でしかない。
デュエリストとして成熟し、バリアンの七皇に選ばれ闘いの当事者になったとしてもそれは同じである。
仲間達がそれぞれ世界を救う鍵となるナンバーズの回収に急いでいるなか、アリトだけはどうしても自ら動く気にはなれなかった。

決してこの世界がどうでもいいわけではなく、単に実感が沸かないのだ。
今動かなければ自分が生まれ育った世界が壊れてしまうかもしれないだなんて、突然言われても誰に信じることが出来ようか。
加えて異世界間のエネルギーバランスだとか宇宙の記録だとか、スケールの大きい話になってしまうと自分の頭ではどうにもピンとこない。

旅立つ前、最後に見た海も空も、いつもと同じ赤い色。
今自分達が直面している崩壊の危機など杞憂でしかないのではと思ってしまうくらい、世界は変わらずゆったりと回っている。


太陽が丁度天辺に差し掛かりそうなところで、アリトは漸く目を覚ました。
まだ開ききっていない目を擦り、そのまま両手をあげて起き上がる。

ドルベの指示でこの世界にやって来てから今日でもう七日目。
最初は不便に思えたこちらの生活にもすっかり慣れ、活動拠点としているこの体育倉庫に至っては愛着さえ沸き始めた頃である。

大きく欠伸をして辺りを見回すが目に入るのは古びた跳び箱やマットなどの体操器具ばかりで、そこに同居人であるギラグの姿はない。
大方また人間達を洗脳してターゲットを襲撃させるという作戦に出ているのだろう。本気のデュエルが出来ないが為にそんな回りくどい作業を強いられるだなんてあいつも大変だな、とアリトはやはり他人事のように思うのであった。

とりあえず立ち上がってはみるものの、昨日の激しい鍛練の所為でまだ体のあちこちが痛む。
ギラグから教わった言葉だがこれを「きんにくつう」というらしい。簡単に説明すると人間の身体は激しい負荷を掛けると翌日は痛みで上手く動かなくなってしまうというのだ。
やはり同じヒトとは言うものの異世界では勝手が違いすぎる。
肉体の構造は大方似ているようで思わぬところで不便を強いられてしまうことが多々あるのだ。
そんななかでも最もアリトを驚かせたのは、人間達の代謝――これもギラグから教わった言葉だ――方法である。

「ん……そろそろ、だな」

腹部を中心に広がっていく違和感に、アリトは空腹という己の状態を察知する。

人間というのは変わった生き物で、定期的に口から何かしらモノを入れて栄養を摂取しなければ生きていけないらしい。
更に口に入れるのは何でも良いというわけではなく、一般に食べ物と呼ばれる生物の身体をつくるのに適した栄養分を含むモノでなければならない。
バリアン世界から来て間もなくこの世界の何もかもが全くの未知であったアリトにとってその判断を下すのは至難の業であったが、ギラグが外から運んでくる『おでん』やら『カツ丼』やらを食していくうちに、次第にその基準がわかってきた。

基本的に一目見て美味そうだと思えるものが食べ物である。そう考えて間違いない。

アリトは『食事』というこの作業を中々に気に入っていた。
食べ物を口に入れれば味として様々な感覚が舌を通して伝わってくる。
甘いとか塩辛いとか苦いとか、そんな味が良い具合に組み合わさったとき、ヒトはそれを美味いと感じるのである。
快感にも似たその感覚にアリトは人間の身体を手に入れて数時間と経たぬうちに病み付きになり、今ではデュエルやトレーニングの後の食事の時間が彼にとって一番の楽しみとなっていた。
一体何のために人間界までやって来たのかとドルベが溜め息を吐きそうだが、この世界では本来の姿を保てずアリトが直接ナンバーズを狩ることが出来ない以上それは仕方のないことなのである。

暗く埃っぽい体育倉庫を出ると丁度昼休みのようで、授業を終えた生徒達が次々と教室を飛び出していくのが伺えた。
アリトが向かう先は彼らと同じ購買である。
今日はギラグが不在であり自分一人で食料品を調達するのは初めてだったが、大体要領は掴んでいた。

目的の場所、生徒達の並ぶ長蛇の列の最後尾につき、じっと自分の順番を待つ。
目当てはこの学園の名物であるドローパンだ。
コロッケやピザなど数十種類の具材のうち一つだけが入っているというこのパンは、しばしば生徒達のドロー力を試すことにも使われる。
類い希なる運を持ち合わせた選ばれしデュエリストがドローすると言われているのは、一日に一度しか出ないという黄金の卵パンだ。

(なんだかよくわかんねーけど、ここに並んだらあのパンが貰えるんだろ?この前ギラグが当ててきたときには半分こでしか食えなかったからな……今日は俺が鍛え上げたドロー力で卵パンを引き当てて、ギラグがいない間に一人占めしてやるぜ……!)

あの味を思い出せばこの身体を手に入れて間もないアリトでさえ自然と口のなかに涎が滲み出てしまう。
今まで食したおでんや牛丼も勿論美味かったが、あれは最早別格だった。
経験はかなり浅いものの、アリトが今まで見知った食物というジャンルの頂点に君臨するのは間違いなくあの一品だ。
出来ることならあのパンを満足するまで味わいたい――エネルギーの不足しているこの身体を此処まで導いたのは、食欲という今しか満たせない人間としての新しい欲求なのであった。

待っているうちに列はどんどん前へと進み、遂にアリトの順番になる。
目の前に並んだパンの数からすると、卵パンを引き当てる確率は百分の一にも満たないかもしれない。
それでも迷わず直感で狙いを定め、パンの一つに向け勢いよく手を伸ばした。

「いくぜっ……ドロー!」

引き抜かれたパンが指圧で少し潰れた気がしたがそんなことは構わない。
逸る鼓動を抑えながらも、急いで包み紙を剥ぎ取りその中身にかぶりつく。
そして口の中に広がった憶えのある味にアリトは目を見開いた。

「――うんめぇえ!!」

間違いない、これは念願の卵パンの味である。
味も食感も舌触りも間違いなく黄金の名に恥じないそれで、普通のパンとは明らかに一線を画していた。

あまりの美味しさに体全体で喜びを表現するアリトに周りからも「すげぇ、いいなぁ」「おめでとう」といった声が聞こえてくる。
祝福してくれるのは同じく卵パンを狙ってここにやって来ていたであろう生徒達だ。
一日に一度のチャンスを奪ってしまった自分を妬むこともなく温かい言葉までかけてくれるとは、人間界はなんて素晴らしい場所なのだろう――幸せに浸りながら立ち去ろうとするアリトの耳に、しかし今度は全く別の色をした声が聞こえてきた。

「ちょっと、あんた」

振り返ると、そこにいるのはこの店を取り仕切っているであろう中年の女性であった。
どうかしたのだろうか。
手にしたパンを頬張りつつ相手に向かって首を傾げて見せたが、他の生徒達とは違いその表情は険しいままだ――なんというか、明らかに怒っていた。

なんだよ、そんなに俺が卵パン引き当てたのが気に入らないのか?アリトが眉をひそめると、彼女はいっそう怖い顔をして言った。

「お金だよ、お金。あんたまだ払ってないだろう?このままじゃ万引きになっちまうよ」
「はぁ……?」

オカネ、とは。
マンビキ、とは。

なんだかよくわからないワードを並べられて戸惑うアリトだったが、彼女の言葉で周りの空気が急に温度を失ったような気がした。
なんだよ、金持ってない癖に買ったのかよ。そんな呟きが何処からか漏れ始める。
先程までとは一変して冷たくなった周りの視線に、アリトは早くも耐えきれなくなっていた。

(ちょっ……待てよ……なんだよオカネって……
もしかしてそれを持ってなくちゃパン食べちゃいけなかったのか……?あぁもう、ギラグの奴、なんで教えてくれなかったんだよ……!)

此処にいない相手に不満を言っても仕方がない。
今まで面倒臭がってギラグに食料調達を任せきりだった自分が悪いのである。
どうすることも出来ずただ立ち竦むだけのアリトの視界に、誰かが前に出るのが映った。

やばいな、殴られる。

覚悟を決めたその瞬間、意外にも飛んできたのは拳ではなく、すっと差し出される白い掌だった。

「はい、これ」

声に混ざりチャリン、とその手のなかで音をたてたのは見覚えのある二枚のコインだった。
顔を上げると真っ先に見えたのはとても綺麗な顔立ちをした少年の姿。
一年生の制服を着たアリトとは違う色のネクタイをしていたから、もしかしたら上級生なのかもしれない。
桃色の癖毛に真っ白な肌、そしてエメラルドグリーンの瞳はまるで美しい少女のようで、アリトは思わず見入ってしまう。何と言葉をかければいいかわからない。

「あ……えっと、」
「いいよ、使って。財布忘れてきたんでしょ?これおばさんに渡せばいいから」

見惚れていたのも束の間、その口から聞こえてきた声は間違いなく変声期を過ぎた少年のそれで、宙に浮いていたアリトの思考は急に現実に引き戻される。
少年からコインを受け取り言われたようにそれを店主に渡すと、彼女は「それでいいんだよ」と言ってにっこりと笑った。

「ここは混んでるし皆待ってるから、はやく列を出なくちゃ」

そう言ってアリトの手を取った彼の右手は陶器のような白さからは想像つかないくらいに温かくて、生きている人間の温度を持っていた。
大勢いたあのなかで、たった一人アリトを庇い、助けようとしてくれた年上の少年。
何もわからないまま孤立無援となってしまった自分を救ったのはまるでこの星を包み込む無限の宇宙のような優しさだ。

自分の手を引いて歩く彼の背中を見つめながら、食べかけのパンを握りしめるアリトはぼんやりとこう思ったのである。

あぁ。この人が天使なのだ、と。







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -