チリン、とドアチャイムの軽い音を鳴らして踏み入れたのは、ハートランドの街角にある小さなカフェだ。

仕事が思った以上に長引いた所為で待ち合わせの時間に少し遅れてしまった。
相手を待たせているだろうか。
出迎えた店員を待ち合わせですと受け流して、Wは足早に指定された奥の席へと向かう。

約束通り、神代凌牙はコーヒーを片手にそこで座って待っていた。

「……よう」

声を掛けると凌牙は下向きだった目線を此方に向け、黙ったままその向かい側の席に座るよう促した。

「悪かったな。仕事が予想以上に長引いて……待ったか?」
「いや。そこまででもねぇよ」

席につくと近くの店員に凌牙のものと同じコーヒーを注文する。
この日のお勧めブレンドだと店頭でアピールされていたものであった。

だが、元々Wはコーヒーを飲みに此処に来たのではない。
この後にもまた別の仕事が入っているので、早めに本題に入ってもらうことにした。

「……で?何だよ、話って」

二分程待ち早速運ばれてきたコーヒーに口を付けて、Wは向かいに座る相手の顔を見る。

遡ること数時間前、『大事な話がある』と言ってWのことを呼び出したのは他でもないこの凌牙だった。

かつて彼との間にはあることが原因でその妹をも巻き込む確執があったが、紆余曲折あって和解したのは今から半年前のことである。
加害者としての負い目もありWが凌牙に連絡を寄越すことは多々あったものの、彼の方からWを呼び出すということは非常に珍しい。
生憎この日仕事がいくつか入っていたが、その合間にならとWは二つ返事でそれを受け入れたのであった。

凌牙はWに目を合わせると益々深刻そうな顔をして唇を噛み締めるばかりだったが、やがて心を決めた様子で「なぁ、W」とその口を開いた。

「……お前、明日が何の日か知ってるか?」

凌牙から投げ掛けられたそんな問いに、Wは思わず首を傾げる。

今朝見たカレンダーによると明日の日付は二月の十四日だが、何か特別なことでもあっただろうか。
注意深く記憶を探ったが、それに該当するような情報はWの頭には浮かび上がらない。
そもそも去年の今頃は凌牙と話すことすらなかったのだから、記憶を探ろうと言う行為自体が無意味なのである。

――だとすれば、ここは一般に通用する記念日を答えることでいいのか?

迷いに迷った末、Wは凌牙の問い掛けに答えた。

「……バレンタインデーだろ?菓子メーカーが盛り上がってるよな、女が好きな男にチョコを渡す日だとか言って。俺は多分ファンの女から大量のチョコが送られてくるんだろうがお前も璃緒から貰えんだろ?よかったじゃねぇか」

Wがそう言った途端にダン、という音が凌牙の手元で鳴り響いた。
彼が拳をテーブルに打ち付けたのだ。

店中の視線が一斉にこちらに集まるが、しかし凌牙がそれを気にすることはない。
そんなことに構っている場合か、といった様子であった。

「良くねぇよ…!!」

さっきまで平静を装っていた彼の表情は既に原型を留めない程に豹変していた。

額にうっすらと汗を滲ませ頬の筋肉がピクピクと痙攣している。
青い瞳を携えたその目は彼がかつてWに抱いていた憎しみを最大限に露にしたときのように大きく見開かれていた。

「あいつの手作りを毎年だぞ……!?お前俺がどんな気持ちで一年に一度のこの日を迎えてんのかわかってんのかよ!?」
「どんな気持ちって……知るかよ、妹から手作りのチョコ貰ったら普通嬉しいもんじゃねぇのか?」
「あぁそうだな、食えるものが出されるならなァ……!」

凌牙の声に滲んでいる感情の名が恐怖であるということに、Wが気付いたのはそのときだった。

表情の歪み方が真新しい傷痕を抉られたときのように痛々しい。
毎年のこの出来事が、凌牙にとっては堪え難いトラウマとなっているようだった。

「てめぇは知らないかもしれねぇがあいつの作るチョコは普通じゃないんだ……ガキの頃から毎年作ってるにも関わらず一向に上達する気配を見せやしねぇ……!しかもろくにチョコを固めることすら出来ない癖に最近は創作にまで手を付け始めてる……!!入院挟んで二年振りだからって余計に張り切ってやがるんだ……俺にはわかる。今年は絶対に、やばい」

冷静になろうと努力しながら語っている凌牙の右手がカタカタと震えているのがわかった。
震えが止まらないのかコーヒーカップの取っ手を掴むことすら満足に出来ていない。

やばいと一言で言うものの、一体何がやばいのだろうか。
参考までにWが二年前はどんなものだったのかと訊ねてみたところ、「分離して元に戻らなくなったチョコをそのままマグカップに入れて水で薄めたチョコレートドリンクのような何かだった」というような答えが返ってきた。
成る程、とWは思う。
それは確かにやばそうだ。
凌牙にはつくづく同情するばかりである。

「でもよ……璃緒のチョコがやばいってのはまぁわかったとして、何が俺に関係あるんだ?お前が大変なだけじゃねぇか」

首を傾げたまま、さっきから凌牙の話を聞いていてもWがそれを他人事としか受け止められなかった理由はそれである。

確かに凌牙がバレンタインデーで苦労しているのは理解できたが、それは所詮兄妹――凌牙と璃緒――間の出来事であってWには関係ない。
明日が凌牙の試練の日であるとしてもわざわざ今日、彼が自分を呼び出す必要はあるのだろうか。

Wがいまいち納得出来ていない様子で少し冷めたコーヒーを啜っていると凌牙は呆れたようにハァ、と溜め息を吐く。
お前は何もわかっていない、そう言うかのように。

「お前なぁ……自分の立場わかってんのか?世の中には義理チョコって文化も存在するんだよ。多かれ少なかれ関わった奴に女はチョコを渡すんだ、頼んでもいねぇのにな」
「――!?」

凌牙の口から出てきた言葉の意味をWは一瞬理解しかねる。
が、それを反芻しているうちに何となく彼の言いたいことがわかってきた。
ニコニコしながら件のホットチョコレートもどきを差し出してくる璃緒の姿が浮かび上がる。
悪い予感がしてきた。

「……まさか」
「あぁ、そのまさかだ。璃緒がチョコを渡す相手は俺だけじゃねぇ。俺の予想が正しければ十中八九その中にお前も入っていると言って間違いない」

予想、というよりも断言するような凌牙の声に、Wは血の気が引いた気がした。

――嘘だろ?

疑いたくなる気持ちもあったが確かにその可能性も否定しきれない。

WDCのあの一件以来、Wは謝罪の意味も込めて璃緒の元を何度も訪れていたし、必要とあらば彼女の手伝い――凌牙曰くパシリらしい――も幾度となく引き受けてきた。
対する彼女の方もWに対して少しずつ心を開いてきてくれており、最近は親しげに笑い掛けてくれることも増えてきた。
有り難いことに過去に一度歪んでしまった関係は、今やそれなりに修復されていると見ていいのだろう。

だが、ここに来てそれが悪い方に転がるとはWは思ってもいなかったのだ。
言われてみれば彼女が料理を振る舞ってきたことなど今まで一度もなかったような気もするし、そんな事情が隠されていたのならばもっと早く気付いてもよかったのかもしれない。
当事者になって初めて、事の重大さは実感出来るものである。

対する凌牙は話しているうちにいつもの冷静さを取り戻したらしく、今度ははっきりとした口調でWに伝えるべきことを伝える。
その瞳にはいつもの深い青が凪いでいて、もう覚悟はできていると、そう語っているようだった。

「――わかったか?俺がお前を呼び出した理由はそれだ。いいな、もしお前が璃緒からチョコを受け取ることになるとして、その時は必ず璃緒の目の前で食わされることになる。その時は絶対に完食しろ。残すことは許されない。あいつは食い終わるまで見張ってやがるからな。
あと不味そうな顔はするな。極力美味そうに食え。もし吐き出しでもしたら……どうなるかわかるだろ?」

最後の声のトーンの低さが、その恐ろしい様を物語る。
妙に説得力があるのは実体験に基づく根拠があるからであろう、伊達に凌牙も十数年璃緒と生活してきたわけではない。

Wは遂に観念した。

彼女からチョコを差し出されたら最後、きっと自分は完食するまで生きて帰しては貰えないのだろう。
その味は今のところあくまで未知だが凌牙の様子を見た限りでは正常とは考えにくい。
極力旨そうに食べるようにという指示が何よりも困難であろうと感じられた。

恐らくこれは試練なのだ。Wがこれからも神代璃緒と良好な関係を築くことが出来るか、彼女を傷つけないが為に苦難を受け入れることが出来るか。
きっとそれを試されている。

ならばそれを乗り切るしかない。
そうでなければ、自分には璃緒の傍にいる資格すら与えられないのだ。

Wはそう考えることにした。
というより、そう考えなければやっていける気がしなかった。

全てが決まるのは、明日。

ローマで殉教した聖人バレンタインの記念日に、Wは義理であろうが彼女からの贈り物をその身をもって受け入れなければならない。

目の前に座る凌牙に手を差し伸べる。

共に闘うということを、誓う。

「わかった。もし俺に璃緒からのチョコを渡されたら――そのときは、全力でそれを完食する。お前に誓うぜ、絶対に璃緒を悲しませるようなことはしない」
「ああ、必ずだ。絶対に生きて、明日という日を乗り越えようぜ」

凌牙も目の前に出されたWの右手をがしりと掴んだ。

仲間がいるということがこんなにも心強いとは。互いの手をしっかりと握り合って、その存在を確かめる。

かくして一年に一度のセント・バレンタインデーの前日、得体の知れぬチョコを食わされる仲間としての奇妙な絆が二人の間に生まれたのであった。


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