避けられない死が目前に迫るとき、人は厭に感傷的になるらしい。
自らの最期を確信したその時から時間は意味を失い、小さな記憶の断片が一つ一つふわりと浮かんでは消えて行く。
確かめているのだ。
生の形を、存在の意味を。
自分がこの長くて短い時間で、何を創り、何を壊したか。
必死に伸ばしたこの手は果たして何かを掴んでいたのか。
どんな無関心を装っても、目を背けたがっても、人は結局知ることを求めずにはいられない。
それは誰にとっても極々自然で、当たり前のことだ。
生こそが、人の全てなのである。
だから現に今こうして自分が夜空の下、見覚えのある小道の上に立っていることにも、トロンは何一つ疑問を感じなかった。
振り返らない。いつかそう決めたけれど、最期には自分も手繰り寄せた記憶をもう一度、手にしたかったのだろう。
これは決して現実ではない。
肉体と共に今にも消えかかっている自分の記憶と心が互いに引き寄せられ、集まり、作り出した幻想だ。
辺りを見回せば、小さくて白い粒がふわり、ふわりと静かに降り積もっていくのがわかる。
触れてしまえばすぐに跡形もなく消える、ひどく不安定な、氷の結晶。
星の隠れた暗闇のなかで、ぼんやりとその曖昧な輪郭を捉えた。
懐かしいな。
誰に聞かせる気もなくそう呟いた。
数年前に家族四人で暮らしていた場所は、雪の降る街だった。
冬が長くて日が落ちるのが随分早かったから、晴れた日には星を、そうでない日はこんなふうに雪を見ながら歩くことが多かった。
部屋の暖炉で暖まっているときも、必ず子供達のうち一人が父様あれを見て、と窓の外を指さすのだ。
家族四人でこの場所にいたときは年中、空ばかり見ていた気がした。
目の前に続く道の奥には、大きな家が一つだけぽつりと建っている。
いつか、毎日目にしていた光景と同じだ。
暗くて寒い夜のなかで、窓から柔らかい光を漏らすあの場所だけが暖かみを感じさせた。
記憶を確かめるように、トロンはその道をそっと踏み出す。
一歩一歩進むごとに、白い絨毯に自分の足跡がくっきりと残った。
振り返ればそれは、自分でも呆れるほど小さくて、歩幅も狭い。
かつてはそんなに遠い気がしなかったのに、この小さな身体の小さな一歩では家までの距離が酷く長く感じられた。
早く、帰らなければ。
子供たちを待たせているから。
あの頃はそんな気持ちで、この道を歩いた。
どんな時も、目を合わせた瞬間ぱっと明るくなるあの顔が見たくて帰りを急いだ。
いつでも三人揃って、彼らは自分を待っていた。
帰りが深夜にまでなったとしても、本当は眠くて仕方ない筈なのに、同じ笑顔でおかえりと言ってくれる。
そんな息子達を見れば、疲れなんて一気に吹き飛んだ。
自分を父親として慕ってくれるその一人一人が、愛しくて仕方なかった。
彼らの為に生きたいと、そう思った。
それなのに、自分は。
(……棄てたんだ。復讐の為に。何もかも、全部)
友に裏切られた憎しみに、全てが塗り潰された。
気が遠くなるほどの時間を異世界で過ごして、心も身体も、歪んで、壊れて、おかしくなった。
胸のなかで燃え上がるように広がった怒りだけが、決して消えぬままその身に残されていた。
復讐だけが、異形となった自分の存在理由だった。
気付けば既に、自分はバイロン・アークライトではなくなっていたのだ。
漸く辿り着いた玄関の前で、ふと自分の掌を見下ろした。
何も掴んでいない、小さな手。
かつては擦り寄ってくる子供達の頭を包み込むように撫でてやったこともあったのに、今はその面影すらない。
こんな身体じゃ、愛することも、愛されることも出来やしなかった。
こうなったことをただ怨み、憎み、守りたかったはずの子供達さえ巻き込んで刃を振り回すことしか、自分には許されなかった。
(寒い、な)
息を吐けば、それが白く立ち昇っていくのがわかる。
肩に降り積もった雪を払うと、綿のように集まった白が舞うように落ちていった。
この光景も全部、単なる自分の古い記憶の再生でしかない。
ならば何もかも棄てた自分がこの扉の向こうにある幸せをに少し触れたとしても、何も咎められることはないだろう―――そう思いドアノブに手を伸ばしたその瞬間、
バタンと音を立てて扉が開き、二人の幼い少年の姿が飛び込んできた。
「―――父さん!!」
嬉しそうに目を輝かせたVとWは、飛び出した勢いそのままにトロンに全体重をのせて抱きつく。
当時のままならまだ耐えられただろうが、如何せん今は彼らと変わらない子供の身体だ。
当然少年二人を支えることなど出来る筈もなく、トロンは「ぐぇ、」と間抜けな声を漏らし尻餅をついてしまった。
二人の息子はそんな父親の反応に一瞬きょとんとした顔を見せたが、それでも構わずまた自分達と同じくらい幼い身体をぎゅう、と抱き締めた。
「―――ほらほら、やめなさい二人とも。
そんなことをしていたら、父様が何時まで経っても家に入れないでしょう」
少し遅れて玄関に入ってきたXが、困ったように笑いながら弟たちに声を掛ける。
振り向いた二人は一瞬不満そうな顔をして見せたが、すぐに「はぁい」とトロンから離れた。
「―――父様、来て!夜ごはん食べよう!」
Vは向日葵みたいな笑顔でそう言うと、兄のWと共に食卓へと駆けていった。
昔は今以上に、騒がしい息子達だったのだ。
「…大丈夫ですか?」
「あぁ。…なんとかね」
差し出されたXの手を握ると、優しく引き寄せられた。
導かれるままに、屋敷の中へと入っていく。
「すみません…皆、父さんが帰ってきてくれるのをずっと楽しみにしていたので」
廊下を歩きながらこちらを向いて笑うXの顔は、何故か今にも喜びで泣き出してしまいそうにも見えた。
彼らは毎日、そんな気持ちで自分のことを待っていてくれたのか。
少し大袈裟な気もしたが、幼いながら毎日自分のことを気にかけてくれる彼らの思いを今では純粋に、嬉しいと感じた。
長い廊下も、壁に立て掛けられた絵も、広いリビングも、暖かい暖炉も、その傍で眠りこける白い犬も、やはり全部、昔のままだ。
あの時と違うのは、異世界の狭間を彷徨ってぼろぼろに壊れた自身の肉体だけ。
あの時と同じように出迎えてくれた子供達にはそうは見えていないのだろう。
きっと彼らは、此処にいるのはトロンではなくバイロン・アークライトだと思い込んでいる。
だからこんな笑顔を向けられるのだ。
自分にはそれを受け取る資格なんてないと思った。
かつて純粋に、息子達を愛した男と自分は別の存在だから。
単なる記憶の再生にしては随分質(たち)が悪かった。
肉体だけでもあの時と同じにしてくれれば、もう少し感傷に浸れたのに。
所詮自己満足ですら戻ることも出来ないのかと、トロンはうっすらと自嘲した。
「父さん、見て!」
弟と共に待ち構えていたWの声に振り向くと、テーブルの上には食べきれないほどの料理が所狭しと並べられていた。
まるで誰かの誕生日みたいなご馳走だった。
ここまで手の込んだ食事など目にすることすら珍しい。
「サラダはオレが作ったんだよ!」
「盛り付けしたのは僕です!」
「でもお前作ってねーじゃん!」
「お皿にごはん入れるのも大事な仕事なの!」
「オレのサラダには遠く及ばないねー!」
そんなことないもん、兄様よりすごいもん、とまたVがWに言い返す。
幼い二人は身振り手振りで事ある毎にどちらが上かを競い合っていた。
そんな微笑ましいやり取りも、昔は毎日のように見ていたものだ。
―――と、ここでふと違和感を覚える。
これは消える直前に見る、自分自身の記憶であるはずだ。
けれど、これは一体何時の記憶なのだろう。
建物も景色も、息子達も昔のままの筈なのに、この出来事だけが思い出せない。
こんな豪勢な食事を日常的にしていたわけではないのだから、憶えていたって不思議ではないのに。
たった一つ、この夜の正体だけが、どうしても掴めずにいた。
「…X、これはどういう―――」
実の父親から記号のような名前で呼ばれた長男は少し怪訝そうな顔をしたが、トロンがこちらを真っ直ぐに見つめているのを見ると自分のことであるのを理解したらしく、またいつも通りの調子で答える。
自分の口で告げるそれが、まるでごく自然で、当たり前のことのように。
「夕方くらいに、一馬さんから連絡を受けたんですよ。今、父さんと一緒に異世界から帰ってきたって。
それを二人に教えたらパーティーを開きたいなんて言うから…急いで準備したんです」
「――――!?」
一瞬、息が止まりそうになった。
さっきまで僅かに感じていた違和感の正体を、初めて知った。
此処は単なる記憶の世界。
覚えのない現象が起きるのも、表層と深層の意識のズレが起こした歪(ひず)みのようなものだと思っていた。
けれど、
(―――違う)
これは記憶なんかじゃない。
過去でも、現在でも、ましてや未来でもなく。
こんな世界は何処にも存在しなかった。
では、これは一体何なのか。
消えかかった心が創り出した、記憶にも似た幻影。
自分の目の前にある笑顔、それは―――
「こいつさー、父さんが帰ってこなかったとき毎晩泣いてたんだぜ!父様がいないとやだー、早く帰ってきてーって!」
「なっ…泣いてなんかないよ!違いますからね父様!!
兄様だって寂しそうにしてたの僕知ってたんだから!」
「オレは泣いてねーもんお前と違って!」
「嘘だよ!クリス兄様のところに行って泣きながら一緒に寝てもらってたでしょ!」
「お前っなんで知ってんだよ!?バラしたなクリス!!」
幼い少年二人が会話に入ってくる。
あの時と同じか、それ以上の輝きをその目に宿して。
まるで失くしてしまった宝物をもう一度取り戻したような、そんな表情で。
「でもさー、ホント無事でよかったよな!
言ってたんだ!父さんは大丈夫だって!身体がちょっとちっちゃくなっちゃったけど、それ以外は全部変わらないって!いなくなっちゃう前の父さんのままだって!」
無邪気さとあどけなさを残したまま、傷のない顔でWが言う。
嬉しそうに語る彼はかつての父の面影を追い求めてなどいなかった。
「……あ、…ぁ……」
思わず声が漏れた。
目の前にあるそれはずっと、自分が望んでいたものだったから。
求めれば手に入るのに、手を伸ばそうともせず、最初から諦めてしまっていたもの。
無理に触れて壊してしまえば不安定な自身の存在まで崩れる気がして、ずっとそれを遠ざけてきた。
けれど、直に見せられて初めて気付く。
それは本当に、突き放す意味なんてあったのだろうか。
変わってしまったのは、本当に自分だけで。
復讐に染まった自分のことを父と呼んでくれた彼らなら、かつてのようにはいられなくても、今みたいに笑ってこんな姿も受け入れてくれたのではないのだろうか。
隣に立っていたXが、膝をたたせてトロンに視線を合わせる。
VとWも顔を寄せあって父親である自分の顔を大きな瞳で見つめる。
そして一人ずつ順番に、同じことを伝えるために、その口を開いた。
彼らから贈られたその言葉はトロンが一番、欲しくて堪らなかったものだった。
「…お帰りなさい、父さん」
「おかえり!」
「おかえりなさい!」
幼い子供達のその声が、大きく成長した彼らの声と重なった、気がした。
目頭が熱くなって、同時に彼らの笑顔が滲んでいく。
涙が止まらなかった。
涙腺が制御を失ってしまったように、人としての心を宿したその右眼から、次から次へと流れていく。
けれどトロンはそれを押さえようともせず、自分の手を精一杯広げて、息子達三人の身体を同時に抱き寄せた。
(……馬鹿だ、僕は…
…………本当に、馬鹿だ)
ずっと、戻りたいと願っていたのに。
今の自分を否定されるのを恐れて、逃げ出して。
棄てたなんて嘘を吐いて、彼らと向き合うことを拒んでいた。
自分のなかで芽生えた復讐心を置き去りにしてしまえば、かつての姿を失った自分の存在意義が失われるようで。
ただ怖かったから、他のものから目を背けて、単純で純粋な憎しみの感情だけを残した。
愛せない愛されないなんて最初から決めつけて、駒として扱うことで、彼らを自分の元に縛り付けていた。
彼らから大切なものを奪っていったのは裏切った友などではない。
間違いなく、自分自身だった。
「…ごめん、…ごめん。
……ごめんね………!」
溢れ出るものが止まらない。
締め付けられるように、胸が痛い。
今まで感じなかったものが全て、蘇るように自分のなかで脈打っている。
子供達の手が、自分を包んでくれるのがわかった。
大丈夫だよ、父さん。
もう離れたりなんて、しないから。
優しさに溢れた、汚れを知らない囁きが、ずっと使わなくなっていたトロンの感情に触れる。
返してあげたかった。
彼らから奪ってしまった、数年間を。
時間を戻すことは出来なくても、一つ一つ、いつかの記憶を、願いを、辿っていくように。
「―――今まで出来なかったこと、全部しよう……
皆でいろんなところ、出かけよう。
綺麗なもの、たくさんみよう。
誕生日も、お祝いしよう。
クリスマスもしよう。
行きたいところも全部、連れていってあげるし、
僕が持ってるもの全部、君たちにあげる。
これからは、ずっと。
ずっと皆で、一緒に、………」
なんでだろう、とトロンは思った。
なんでこんなことが、出来なかったんだろう。
帰ったらまず彼らを抱き締めて、自分はこんな姿になっても愛してるって、伝えなくちゃいけなかったのに。
そうすることを、望んでいたはずなのに。
哀しいほどに、自分は弱かった。
誰かを赦すことも、誰かを守ることも、出来なかった。
今さらこんなことを思うなんて、都合が良すぎることもわかっていた。
けれど全てが終わった今、自分でもわからなくなってしまうくらい、
この子達が愛しくて仕方がなかった。
どうしようもないくらい、この子達が好きだった。
こんなに暖かくてこんなに柔らかい温もりが今この腕のなかにあることが、嬉しくて堪らなかった。
そしてトロンはもう一度、唇を開く。
喜びと悲しさに震える涙声にのせられて一つずつ紡がれていくのは、
「…愛してるよ、―――」
奪うことも忘れることも、
それだけは決して出来なかった、
大切な子供達の、本当の名前。
>>atogaki
.