「…おい……これのどこが『ちょっと』なんだよ………」


電車に揺られて一時間、そして歩き続けること二時間半。
心身共に疲労が限界にさしかかっているWの眼前に広がるのは、気が遠くなるほど果てしなく続く山道であった。


「もう少しです、兄様――もうちょっとだけ、頑張ってください」


遥か前方から聞こえるVの声は少しも疲れを感じさせない様子で、夏の夜空に響き渡っていた。

街灯もない市街地の外れで、頼りになるのは影として今にも闇と同化してしまいそうな弟の姿だけだ。
見失えば、間違いなく帰れなくなるだろう。

Wは目を凝らし夜の森に揺れる弟の影を追った。


――なんで、こんなことに――


この状況を全く予期出来ていなかったわけではない。
私鉄の乗車時間がやけに長い時点でなんだか嫌な予感はしていたのだ。
そして辿り着いたのが閑散とした無人駅だった瞬間、Wの予感は確信へと変わった。

だから、何人をも寄せ付けないような圧倒的大きさの樹海のような山を目の前に「ここからちょっと歩きます」と言われたところで何も驚きはしなかった。


もっとも、まさかこの山道を二時間以上歩かされるとは思ってもいなかったが。


山道――といっても、果たしてこれを道とみなしてよいのかはいささか疑問が残った。
視界のほとんどが樹木で覆われ、どうにかして足の踏み場を探し一歩ずつ進んでいるという状況だ。

一方Vは何故か土地勘があるといった様子で、軽い足取りでひょいひょいと木々の間を前進する。
頼りになるのは彼だけなので必死に付いていくものの、さっきから進めども進めども景色が変わっているようにはみえない。
同じところを何度も歩き回っているのではとすら思てくる。

まさか、これで迷ったとか言わないよな――とWが一抹の不安を感じ始めたその時、


「あっ……
ほら、兄様!
頂上!着きましたよ!!」

「……………!」


明るく響くVの声に顔を上げると真っ先に飛び込んできたその景色に、Wは思わず息を呑んだ。

山の頂上で振り返った弟の背後に広がるのは、満点の星空。
藍色の空に無数の宝石を散りばめたようだった。
普段街灯りに照らされて見る空と比べて、輝きの数が圧倒的に違う。
その一つ一つが頼りなくも美しい光を放ち、深い空を彩っている。


「これを、見てほしかったんです」


プラネタリウムを彷彿とさせる夜空をバックに、Vは嬉しそうにそう言った。


道なき道の果てにやっとたどり着いた山の頂上は、見晴らしのいい場所だった。
さっきまで視界を覆っていた木は一本もなく、短い多年草が風に揺れていた。
麓を見渡しても光は一つとしてなく、その代わり見上げれば無数の光が飛び込んでくる。


「今日は、七夕でしょう?一年で一番星が綺麗に見えるってきいたから……来てよかった。
先週来たときより、ずっとよく見えます。
何年も前に、四人で一緒に見たのと同じくらい綺麗ですよね……
――憶えてますか?」


懐かしそうに微笑むVに向かって、Wはあぁ、と頷いて見せた。


今となっては、遠い昔。
季節はちょうど今と同じような夏の始め、場所はここと似た広い丘の上。

父と兄弟の四人で、これに負けないくらい綺麗な星空を見た。

思い立ったように「星を見に行こう」と言い出した父に連れられ、兄と弟と一緒に丘を駆け上がった、幼き日の記憶。

無数の星を一つ一つ指差して、Xがその名前を教えてくれた。
どちらがたくさん星座を見つけられるか、Vと夢中になって競争した。
もっと星を近くで見たい――そう言って、父の肩に乗せてもらった。

あの時の全てが、心の隅に大切に遺してある記憶の欠片だ。


「…あの明るいのがアルタイル、あっちにあるのがデネブ、それから……」


あのときのXと同じように、Vは星を一つずつ指差してその名前を呼んだ。

懐かしい響きだった。
弟の言葉に、仕草に、記憶の一つ一つが蘇る。


気付けばWもVと同じ場所に立って、夜空に手をかざしていた。

過去と今を重ねて、長い間そこにあった記憶を辿るように。


「…違うな。
一番大きくて明るいのはデネブ。
あそこにあるのがベガで、もっと東にあるのがアルタイル。
で、ベガとアルタイルの間にあるのが――」


空に揺れたWの指先が、靄のような細かい星たちでつくられた白い筋を辿る。

いつの間にかVも隣で、同じ方向を指差していた。


「「―――天の川」」


人差し指のその先、線と線が繋がったとき、二人の声が重なった。

星で出来た白い筋は細く長く、途切れながらも限りなく続いているようだった。
儚く弱く、光となれなかった煌めきが数多く集まって、たった一つの道を示していた。


「知ってますか?
日本の伝説で、ベガとアルタイルは天帝に引き離されてしまった夫婦――織姫星と夏彦星って呼ばれてるんです。
誰かが言ってました…二人は年に一度、七夕の日にだけこの天の川にカササギの橋を架けて、会うことを許されるんだ、って」


遠く夜空を見上げながらVが語ったのは、この国で伝えられる伝説だった。
年に一度だけ再開を果たす、一組の男女の話。
Wにとっては耳慣れないものだった。
一体何処でそんなものを――訝しげにWが目をやると、Vは構わずこう続けた。


「それから、こんな言い伝えもあるんです。
七夕の日に願い事をすれば、きっとそれが星たちに届いて叶えられる……
兄様は何か、願い事しましたか?」


上向きだった首を少し傾げて、相手と向き合いそう問いかける。
小さな光を反射して僅かに輝くVの目は何かを期待しているようだったが、その思いとは裏腹にWの答えはつれないものだった。


「…………してないな。何も」


失笑したように息を吐くと、Wは弟から目を逸らした。

今日は七夕という日であること、そしてこの日に星に向かって願いを託すという慣習があること自体は、W自身も知っていた。

けれど、だからといってそれに参加する気は更々なかった。


あの日――激情と衝動と一雫の快楽の中、自分の道を決めたそのときから。
たくさんのものを奪って、汚して、傷付けてきた。
自らの願いを叶えるために。
目的のためならば、何を壊すことも厭わない。そういう人間として生きてきた。
そんな自分が今更そんな不確定な迷信に肖(あやか)って望みを託そうとするなんておかしな話だし、
もし仮に神様という存在があったとしても、今まで数え切れないくらいの想いを踏みにじってきた自分の願いなど、叶えてくれるはずもない。


だが、もし、仮に。

理屈も現実も全て抜きにして、一つだけ自分の思い通りになるとするならば。

今から数年前。
幸せだったあの頃に時間を戻してほしいと、
自分はきっとそう願うだろう。


無表情なWの答えにVはそうですか、と今度は少し寂しそうに言って、また夜空を見上げた。

辺りを包む暗闇を彩るのは、この場所より遥か遠くにある星たち。
この輝きに何か不思議な力があるのを感じて願いを託そうとする人達の気持ちが、Vには少しだけわかる気がした。


皆、知っているのだ。
自分達の力だけでは、自らの理想を現実には出来ないことを。

だから、自分の手には届かない非現実的なものに縋ろうとする。
例えそれがどうにもならないことであっても、祈ることで何かが変わる気がするから。


それはきっと、自分も同じだ。
必ずそれが叶えられるなんて信じている訳じゃない。
抱く思いはそれぞれであれ、きっと祈る気持ちは何一つ変わらない。
他の人と何かが違うとすれば、Vは叶うはずのない願いを唱えるより、少しでも何かが変わる切っ掛けを、望んでいたということだ。


「僕は今朝、しましたよ…願い事。
今日は家族四人で一緒に、この場所に行けますようにって。
…さすがに、当日じゃ叶えてもらえなかったみたいですけど」


叶わなかったそれは、ほんの小さな願いだった。

確かめあいたい、ただそれだけのことだった。


毎日がキラキラ輝いていて、幸せであることが当たり前だったあの頃。
今では戻れない過去に変わってしまった。

わかっていることだ。
今自分がどんなに叫んで、どんなにもがいたところで、あの笑顔を取り戻すことなんて出来ない。

だから、せめてこの場所に。

過ぎ去った時間はもう戻らないけれど、記憶を共有する家族とあのときと同じ季節に、似た場所に立って、淡い記憶に浸りたかった。

本当は、家族四人で。


「あの二人も来てくれたらよかったんですけどね……思い出してほしかったんです。あのときのこと。
何かが変わる訳じゃないけれど、もう一度、確かめあいたくて。
同じ場所で、同じ記憶を分かち合えたら、まだ繋がってるって、わかるから」


深呼吸して、目を閉じる。

夏とはいえ、夜はまだ肌寒い。
冷たい空気が、胸の中を通りすぎていった。
辺りの木の枝が、風に揺れて静かな音をたてていた。

世界の端にいる、とVは思った。


四六時中イルミネーションや人工的な輝きを放つ街のなかと違って、ここには街灯もなく、人の気配すら感じられない。

だから、絶えず動き続ける世界の中心では誰にも気付かれずかき消されてしまう星の光も、この場所では小さく、けれど確かに自分達のもとに届く。

中心から、遥か遠く。
目に見えないほど小さな光にも気付ける場所。

此処には、自分がいる。
Wがいる。

けれど、X、そして父はいない。

それだけのことが、二人きりのこの夜に、余計に寂しさを助長させた。
ずっとそこにあった現実を、現実から離れたこの場所で今更のように突きつけられた気がした。


隣に立つWは腕を組み、ただ静かに夜空を見上げているだけだった。
暗がりでは、表情がよく読み取れない。

彼は今何を感じ、何を思っているのだろう。
何もわからなかった。
それは、彼自身が本心をVに見せようとしないから。

縮めることのできない兄との距離に、Vはどうしようもない悲しさを感じた。

いつかはあんなにも、近かったのに。


「……時々、不安になるんです。
この道が本当に正しいのかどうか。
本当は別の道もあったんじゃないのか、って。
もしあの時、Dr.フェイカーが父様たちを裏切ったりしなければ。
父様が帰ってきてくれた時、僕達兄弟がその復讐心をどうにかして消すことが出来たなら。
…僕らはまだ、家族として当たり前の日々を過ごせてたのかもしれない…」


ぽつりぽつりと、秘めていた想いを吐露していく。
唇から零れる言葉は、暗闇に浮かんでは消えていく。

誰に投げ掛けるでもないそれは、言っても仕方のないことだった。
どうしてこんなことを言っているのか、自分でもわからなかった。

そんな問いを投げかけたところで、正解なんてありはしないのに。


きっと自分はまだ、戻れるはずのない過去に縋っている。
こんな夜にわざわざ遠くまで行って思い出に浸りたいなどと言い出したのもそのせいだ。

一度ばらばらになって、また取り戻したはずの家族の姿に直すことの出来ない歪さを感じている自分が、まだ心の何処かにいる。


あの時から、何もかもが変わってしまった。

異世界から帰ってきた父は復讐心に取り憑かれ、息子達を愛する父親としての姿を失った。
トロンから全てを伝えられたXもまた、復讐のために心を棄てた。
トロンのために幾度となく罪を重ねてきたWは、心の傷を狂気で隠した。

父も兄も、自分一人を残して変わっていく。

復讐という目的をただ見据え、かつての記憶も棄ててしまったのではないかと思うくらい。

互いのことを記号で呼び合う日々に、かつては言葉なしでも通じあえた彼らの胸の内さえわからなくなっていった。
この道の果てで自分達は本当に家族に戻れるのか、不安で仕方がなかった。


こんな思いを口にしたところで何も変わりはしない。
けれど、吐き出さずにはいられなかった。
悲しみと後悔が心のなかで渦巻いて、残された感情さえも飲み込んでしまいそうだったから。


目の前で黙っているだけのWも、同じことを感じているのだろうか。
その思いにすら蓋をして、ただ与えられた役割に徹しているのだろうか。


きっと、それが自分と兄との決定的な違い。
自分にはそんな強くなることなんて出来ない。
全て割り切ってただ現実だけを見ていられるほど大人じゃない。


だから、それを言葉にする。
そうでもしなければ、目の前にある現実に耐えらる気がしなかった。


「…何も、わからないんです……
僕は、どうすればいいんですか…?
復讐を果たせば、僕達は元に戻れるんですか…?
受け入れたくないんです…本当は、こんな筈じゃなかった…
…昔は信じてたんです…ずっと。
いつも僕らの隣には父様がいて、X兄様はデュエルを教えてくれて、W兄様はたまに喧嘩することもあるけどいつも僕と遊んでくれて…そんな日がずっと続くって。
…幸せ、だった…そうなる筈だったんだ…
…それなのに」


塞き止めていたものが壊れたかのように溢れていく感情のなか、自分で零した言葉が自分の胸を刺す。
抑えられず高まって、行き場を失くした気持ちはやがて制御を失う。


――こんなはずじゃ、なかった。


Vは唇を噛んだ。

振り返ったところで何もない。
だからこそ、苛立ちを募らせる。
自分には何も出来なくて、今更何をしたとしても状況は変わらない。

兄弟はこの感情を復讐という形で昇華した。
それが事態を更に歪めることになるとしても、そうする以外に道がなかった。


――壊された。

――狂わされた。

――全部。あいつのせいで。


見えない相手を思い浮かべた。
父を、兄を、裏切った男。
父を、冷酷な復讐鬼へと変貌させた人間。

そうだ。あいつさえいなければ。
最初から、仕組まれていたことだった。
信じちゃいけなかった。

全部、あいつのせいで。

父が変わってしまったのも、
幸せな日々が壊れたのも、
兄弟がこの道を強いられたのも。

あいつがいたから、こんなことになった。

汚された過去。
歪められた関係。

全部、あの男が。


全部――


「――あんなことがあったから!
あんなことがなければ、今頃僕らはまだ家族でいられた!
誰かと憎みあったり、傷つけあったりしなくて済んだ!
復讐なんて目的のために何もかも棄てずに済んだ!
兄様だって、こんなことには――」

「V!」


突如覆い被さったWの言葉に、Vは思わず口を閉じた。
暗闇の向こうで、瞳に影を落としたWの表情がわずかに強張っていることに気づいた。


「……やめろ………」


低くWの唇から洩れたその言葉は辛うじてVの耳元に届いて、闇に消えた。
暗闇のなかで立ち尽くす兄の身体は、微かに震えているようにも見えた。


「……すみません……」


瞼を伏せると、姿は再び闇に消える。


きっとそれはWにとっても、胸の内にありながらも目を逸らしてきたことなのだろう。

彼は強いから振り返らなかったのではなかった。
振り返るのをやめて、ただ前だけを見て、強くなろうと必死なのだ。
雪崩れていく怒りと狂気と悲しみのなかで、目的だけは見失うまいとたった一人で藻掻いている。


だから普段見る彼の姿はあんなにも頑なで、あんなにも狂おしい。


それはWの覚悟の表れであり、自分の役割を果たすという決意そのものなのだろう。


けれど。
Vはそんな兄の姿を見ていたくはなかった。

彼は心を棄てたわけではない。
傷を隠しているだけだ。
どんなに歪んでも、どんなに狂っても、彼が彼であることに変わりはない。

だから、そんな彼の姿を見れば見る程に胸が締め付けられる。
彼が隠す傷の痛みを直に感じる。


Vは気付けば、他の誰もが知ることのないその思いさえも口にしていた。


「でも……辛いんです……あんな兄様を見ているのは。
本当は痛くて苦しくて堪らないはずなのに、
一人では立てないくらい傷ついてるはずなのに、
兄様は誰の助けも求めないで、ずっと一人で闘ってる。
何もかも全部抱え込んで、心のなかに閉じ込めて、
僕にはそれを少しも見せてくれようとしない…
でも、僕だって…知りたいんです…兄様のこと」


近くにいなければ、気付かなかっただろう。

極東王者としてのWの姿は華々しく、強く、そしてたまに、残酷だ。
誰もが強者として彼を見つめ、何もかもを手にいれた彼を羨み、時には妬む。
Vの目に映る彼の姿も王座を愉しみながら、トロンの命令に従い、誰かを傷つけ、奪っていく狂気の影を含んでいる。


けれど、時々。
彼が人知れず見せる一瞬の表情に、胸が詰まりそうになる。

それは見間違いかとさえ思うくらい短い間のことで、W自身も自覚していないのかもしれない。


それでもVは知っている。
何も感じずにいることなんて不可能だ。
一つずつ彼の胸を抉っていく傷痕は、まだ癒えずに残り続けている。

それでも彼は闘うことをやめようとしない。
数え切れないくらい傷つけて、傷つけられて、痛みと罪悪感を狂気と嗤い声で塗り潰して、それでも隠しきれず、時折誰にも見えないところで苦しみを露にする。

そんなWの姿がVにとっては寂しく、痛々しく、そして哀しく思えた。


「きっと、大丈夫って…思ってました。そう思わなきゃいけないんだって…
でも、駄目なんです…
これ以上兄様が傷ついていくところなんて、見たくない…」


表情を影に隠し動こうとしないWに近寄るとVはゆっくりと腕を伸ばし、指先でその右頬に触れた。
確かめるように、彼の肌にくっきりと残った傷跡をなぞる。

額から右目、そして頬にかけて深く刻まれた十字架。
どうやっても逃れられない、罪の証。

もし自分がその罪を、苦しみを半分、せめて千分の一でも分けて欲しいと言ったとしても、きっと彼は拒むのだろう。
今にも壊れてしまいそうなその背中に背負う闇はきっと、Vの想像を遥かに越えて深く、重い。

ずっと支えたい、助けたいと思う相手は自分が立っている場所よりも遥か遠くにいて、どんなに手を伸ばしても届かない。

だから、自分には何も出来ない。
これからも彼が誰かを傷つけ、そして傷つけられてボロボロになっていくのを、傍にいながら指をくわえて見ているだけ。

それを認めるのが悔しくて、悲しくて、
Vは目に溜まっていく涙が溢れるのを抑えることが出来なかった。


「………無理、しないでください…
抱えていること、僕にも教えてください…
これ以上、置いていかないでください……」


言葉と感情を止めることもできず、暗がりでも互いの表情が読み取れてしまうほど近くにいるWに自分の泣き顔を決して見せまいと、Vは深く俯いた。

止まることのない涙は睫毛の先からぽたぽたと零れて、緑で覆われた地面を濡らした。

数年振りに、兄の前で泣いた。

どんなに心が叫んでも、それを誰かに聞かせてはならないと思っていた。
家族を取り戻すその日まで、弱さを見せてはならないと自分に言い聞かせてきた。

なのに、何故か止まらない。
堪えようとしているのに、涙は次々と浮かんで、そして落ちてゆく。


こんな姿、見せてはいけない――そう思い涙を拭こうと触れていた手を兄の頬から離そうとすると、
不意に、Wの掌が背中に触れた。

訪れたその優しい感触に、Vは思わず息を呑む。

そして暗闇のなか感じられる兄の気配が一層近くに迫ると、
自分の頭が彼の胸に引き寄せられていた。


「――!」


予想もしていなかった兄の行動に、Vはほんの少し身を固くした。
彼がこうして自分に愛情を表現したことは、今まで一度もなかったから。
蘇った記憶と感情が、彼の何かを変えたのだろうか。
突然の出来事への驚きと緊張で、身体が僅かに熱を帯びる。
密着する兄と目を合わせるため顔を上げようとするが、頭が胸に押さえつけられ動かない。


思わぬ兄の行動にVが戸惑うその一方で、Wはそんな弟の様子を気にもせず背中に触れた手を滑らせて、今度は両腕で相手を包み込んだ。


さっきまで不安と悲しみで小刻みに震えていたその身体を、放すまいと強く抱きしめる。
触れている背中から、柔らかい髪から相手の体温が伝わってきて、冷たくなっていた指先を少しずつ温めてくれる。

それは長い間、ずっと忘れていた感触だった。


愛しいと思った。
たった一人の弟を。

彼もまた自分とはまた別の痛みを抱え込み、悲鳴すらあげられないまま立ち尽くしていた。

自信など、錯覚でしかなかったのだ。

どんなに歪んで、捻じ曲がったとしても、自分が家族を傷付けることだけはない。
汚れるのは自分だけでいい、そうすれば他の誰も苦しむことなんてない。

そんなこと、何時、誰が保証してくれたというのだろう。

自分の心と折り合いをつければ、上手く生きていけると思い込んでいた。
家族を守るという思いだけで、前に進めると信じきっていた。

だから、隣でVが辛い思いをしていることにも気付けなかった。
目的以外を視界から排除し、一番大切なものまで見失っていた。

守られていたのは他でもない自分自身で、
こんな自分にも帰る場所を与えてくれていたのは、間違いなく彼だったのに。


「……兄様………」


小さく掠れた声が鼓膜を震わせると、今度はVの手が自分の首の後ろに回されるのがわかった。
細い腕の頼りなさとは裏腹にしっかりした強さで、Vは自分の身体を相手のもとに擦り寄せる。
まるで冷たくなったWの身体に、自分の体温を分け与えるかのように。

この小さな弟の言葉が、眼差しが、そして想いが、凍りついた自分の心を融かそうとしているのを、Wは確かに感じていた。


「…一度しか言わないから、よく聞け」


胸に顔を埋(うず)める弟に、Wは今までになく優しく囁いた。

張りつめていた心が、少しずつほどけていく。

嘘をついてきたわけではない。
苦しみの奥の快楽に溺れていたのも、何処かで密かに痛みを感じていたのも、紛れもなく自分の本当の姿だ。
取り繕ってきたつもりも、隠してきたつもりもない。

けれど今、この弟と自分二人だけの世界では、ほんの少しだけ、優しくなれる気がした。
それはこの小さなひとときに、使命からもしがらみからも解き放たれている自分が、確かに此処にいるからなのだろう。

きっとこんなことは、もうない。
自分で選んだこの道の途中で、誰かに胸の内を明かすのは、これが最初で最後。

Wは指先でVの柔らかい髪を梳かすと、胸に秘めていた言葉を小さく唇で紡いだ。


「……気付いてやれなくて、ごめん」


一つ浮かぶと、言葉はとめどなく胸のなかに溢れていく。
それら全てを両手で掬って、一つ残らず声に変える。

「――心配かけて、ごめん。
強くなれなくてごめん。
笑ってやれなくてごめん。
兄貴らしくできなくてごめん。
昔のままでいられなくてごめん。
……守ってやれなくて、ごめん」


その全部が、ずっと心の奥にあったもの。
伝えられなくて、記憶の何処かで言葉にされるのを待ち続けていた想い。

その一つ一つを今確かに、腕の中の少年に伝えている。

Vは言葉をきく度に僅かに反応し、時々首を横に震わせた。


Wは続ける。
一度きりのこの瞬間に、伝えられなかったことを何一つ残さないために。

続く言葉は、たった一人の弟に告げる、たった一つの願い。


「――けど、頼む。
待っていてほしい。
いつか俺が必ず、父さんを取り戻す。
その時は四人で、この場所に来よう。
だから、その日まで。
…その日までずっと同じところで、俺のことを信じて、お前だけは変わらないで。
俺のことを、待っていてほしい」


星空に託す願いなんてない。
いる筈のない神様に縋る意味なんてない。

ただ、約束が欲しかった。
どんなことがあっても、決して変わらない約束が。


これからもきっと、自分は父に従い、罪を重ね、手を汚す。
全てが終わるまで、振り返ることはもうない。
誰かを憎み、憎まれ、傷つけあって生きていく。

それでも、彼にだけは。
弟にだけは、そうなってほしくなかった。

歪んだ世界の外側で、ずっと変わらずに、自分の帰りを待っていて欲しかった。
清も濁も受け入れて、見るもの全てを包み込むようなその笑顔を、失ってほしくなかった。


きっとそれは誰から見ても酷く身勝手で、独りよがりな想い。
弟に傷ついてほしくないという気持ちも、自分のエゴでしかないのかもしれない。

けれど、願うことだけは許されたかった。
自分に残された心として、いつまでもこの場所に留めていたかった。

そしてそれは約束という形で、確かに二人を繋げていた。


Vは耳元で呟かれたWの言葉を最後まで聞き終えると、


「……はい」


とだけ返事をして、兄を抱く自分の腕により一層力を込めた。

Wもそれに応えるように、体温を残したVの背中をさする。


此処が、自分の帰る場所。

その笑顔が、自分の道標。


この先どんなことがあっても、変わっても、傷ついても、
あの時と同じように柔らかく微笑む彼を見つけて、必ず此処へ帰ってくる。

絶対に、忘れたりはしない。


そして全てが終わりまた幸せな日々を取り戻す時が来たら、今度は四人で、星を見に行こう。


果てなく続く天の川と無数の煌めきを放つ星空の下で、
Wは静かに、そう誓った。


>>atogaki



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