ようやく彼を見つけたのは、雨のふる夜のことだった。
 この世界には朝も昼も夜もない。ただそのときは辺りが真っ暗で、建物の窓から漏れる街灯がなければその輪郭さえわからないようであったから、夜という名前を当てはめただけだ。すこし待てばそれも忘れてしまったかのように、見上げればすき透るような青空が広がっているのはいつものことだった。
 硬い床にたおれたままの彼の体はびっしょりと濡れていて、ただでさえ白い頬はすっかり血の気を失っていた。眠りについたままの両目はかたく閉じられ、そっと触れても瞼はぴくりともうごかない。
 どのくらいのあいだ、ここに放置さていたのだろう。気が遠くなるほど長い時間か、それともほんの数分か。そもそも時間という概念をもたないこの世界では答えなど見つかるはずもないのだが、ついそんなことを考えてしまう。
 傘を置いて膝をつき、そっと彼を抱き寄せた。耳朶を彼の唇に寄せ、雨にまぎれる呼吸の音をきく。
 しばらくしても消えないことを確かめると、零は自分と同じ顔をしたその少年を抱きかかえ、自分の家へと連れ帰った。

* * *

 部屋を出て階段を降りると、リビングは紅茶の匂いがしていた。ちょうど淹れたところだったのか、ティーポットを手にした母親と目があった。

「母上、おはようございます」
「おはよう、零。よく眠れましたか?」

 零が目覚めるのを待っていてくれたらしい。この世界にいるひとの生活リズムはそれぞれだが、母はいつも零のために温かい紅茶を淹れてくれる。気遣いや優しさもあるけれど、何より彼女はその時間をとても気に入っているのだという。やさしい香りのたつ紅茶も、金色のふちのティーカップも、彼女が生前からずっと好きだったものだ。

「アールグレイですか」
「ええ。あなたも昔から、好きだったでしょう」

 母は嬉しそうに笑っていた。零も愛想よく頷く。暗い顔をしているのは、なんだか申し訳ない気がしていた。

 この世界では、なんでも好きなことをしていいのよ。
 暖かい日だまりのなかで零を出迎えて、そう教えてくれたのは母だった。
 ここはもとの世界で死を迎えた人間が、ひとときの安らぎを手にするために用意された場所。人間世界、アストラル世界、そしてバリアン世界――そのどれにも属さないこの幻のような空間を、人々はまほろばと呼んでいるらしい。やりたいことしかやらなくていい、会いたい人にしか会わなくていい、出ていきたいときに出ていけばいい。そこは人々にとってはまさに夢の、もしくは天国のような世界だった。
 とはいうものの、かなしみや苦痛からまったく解き放たれた世界というのは人にとってなかなかに退屈である。ここにいる限りはイレギュラーなど当然起きるはずもなく、ただ繰り返す日々を過ごすだけだ。大抵の人はそれに耐えかねさっさと来世へと旅立ってしまうのだが、待ち人がいる場合はだけ別である。零の母親が、そうであったように。
 彼女が零を見つけたのは、亡くなってからもうずいぶん経ってからだという。彼女が現世に残した皇子はドン・サウザンドの干渉を受けそのままバリアン世界へと転生させられたため、ずっと会うことが叶わなかったのだ。悲劇に見舞われた親子が再会を果たすのは、彼がバリアンとしての生を終えてからのことになる。
 名前もないような小さな花が、散りばめられたように咲く花畑。その真ん中で、彼女は息子の名前を呼んだ。生きていたころにそうしていたように、温度の通う声で、しっかりと。しかし彼はそれに答えず、黙ったまま両手をまわし、彼女を抱き締めた。そうしてその口を耳元によせて、遠い記憶と同じ、まだ幼さをのこす声で彼は言う。

 私のことは、零と呼ぶようにしてください、と。

「――彼は、まだ目を覚まさないのですか?」

 窓から差す陽光が、紅茶の水面を光らせている。ポットを置き、零の向かいの席に座った彼女が言った。彼というのは無論、零が連れてきた零にそっくりの少年のことである。この辺りには雨も降らないのに、びしょ濡れのまま眠っていた。

「はい。ずっと付き添っていたのですが、すこしも起きる気配がなくて……」

 零がうつむいてそう言ったのは、その少年が誰であるかを知っているからだ。
 両親の死をきっかけに目覚め、国中を血の色で染めた狂気の王。
 多くを騙し、陥れ、ドン・サウザンドを復活させんと暗躍したバリアン七皇の一人。
 現世でベクターと呼ばれた彼は、まさしく零の分身そのものであった。
 零がまだベクターであったころ、自分のために、彼を作った。

「……あの、母上」

 顔をあげて、もう一度母の顔を見た。流れる空気はこんなにも穏やかで暖かいのに、内に秘められた零のこころは重くて、そしてつめたい。零は彼女に隠しごとをしていた。そうでなくても、零は国を愛する彼女の気持ちを裏切り、踏みにじった。彼女はずっと見ていただろう。自分の息子が狂気に目覚め、多くの人間を手にかけたところを。それだけで胸がしめつけられる。
 ベクターを連れ帰ったときから、もう言わなければいけないことは決まっていた。彼女は、どこまで知っているのだろう。どこまで気付いているのだろう。
 暖かく、穏やかな空気。それを包んでいた薄い膜に、おそるおそる爪を立てた。
 窺うように彼女を見つめる。

「……どうして、私と会ってくださったのですか?」

* * *

 彼の体はひどく軽かった。
 重さなどないといってもいいくらいに。自分とまったく同じ背丈の、同じ体重の少年を、零は両手で抱きかかえている。本当は片手で持ち上げられるけれど、壊してはいけないから、大切だから、両手で。
 行くあてなどなかった。しいていえば、神さまを探していた。彼を、ベクターを目覚めさせたかった。放っておいても、彼は永遠にその目をあけないことを零は知っていた。かつての自分が、そうであったように。
 母と別れ家を出ると、街の景色はころころと変わる。母は花が好きだったから、庭はいっぱいの花で埋め尽くされていたけれど、その敷地から一歩外へ出るとそこはまるで別世界だ。
 あるときは海だった。
 あるときは森だった。
 またあるときは小さな村だった。
 近代的なビルが建ちならんでいることもある。
 ここは、人々の理想がかさなる場所。個人が自分のテリトリーとして決めた範囲なら他人の意識が入ってくることはまずないが、こういった人のあつまるところではイメージが重なり、安定した形を保てない。来たときと帰るときではまるで違う場所になっているなんていつものことで、瞬きひとつの間にがらりと景色が変わっていることだってあった。
 それでも困るひとは誰もいないから、この世界は本当によく出来ているとおもう。
 出店がならぶ通りを行き交う人々は、誰も零をみていない。自分と同じ顔をした少年を抱えている零を、人々はきっと奇異の目で見るはずなのに、誰もそうしようとしない。零にとってもそうだった。零にとって、彼らは何をしていようが、顔のない背景でしかなかった。興味がないのだ。この世界では、会いたいと願ったもの同士しか会うことが許されない。すべての人間にとっての理想郷は、ある意味でひどくさびしい世界だ。
 ざわめきにしかきこえない街の声が退屈で、再び零が前を向いた、そのときだった。
 モノクロだった背景に、深い青色が飛び込んでくる。髪をなびかせスカートを揺らし、買い物袋を提げるその少女は、かつてベクターが死に追いやった少女だった。
 ――メラグ。
 無意識のうちに、呟く。この世界で目覚めたとき、ベクターから受け継いだ記憶が零の脳裏にフラッシュバックした。
 国の為にその身を海に沈める姿、兄の隣でしあわせそうに笑う姿、兄を救うべく必死になって闘う姿。すべてが目の前の彼女にかさなる。
 一緒にいるのはドルべだった。
 友のために、自分の身を犠牲にし盾となる英雄。中身と同じいかにも真面目そうな人間の姿で、メラグに付き添っている。
 街が急に、静まりかえった気がした。
 メラグがふとこちらに気付いた。目を見開き、そしてドルべに合図する。ねぇ、見て。零はその場に立ち尽くしていた。何もできない。どうすることも。どうすればいいかわからない。庇うように、ベクターの体を今までよりもきつく抱き寄せる。鼓動が速まる。見ないで、どうか、彼を。
 メラグとドルべが何か言っている。ねぇ、あれは、どうして、ふたり。零はどんな顔をすればいいかわからなかった。まだきっと、許されていない。守らなくちゃ、僕が、ベクターを。
 しかしそこまで考えて、気付いた。憎まれているだけなら、この状況はどうかんがえたっておかしい。ここは望んだもの以外は、意識にのぼることすらない理想郷。
 ――どうして彼らは、僕とベクターがわかったのだろう。
 メラグがこちらに歩いて来ようとしたとき、街が再び景色をかえた。貧血をおこしたように頭がふらっとして、気付いたときには彼女と、そしてドルべの姿はどこにもなかった。まったく別の場所に飛ばされ、腰を地につけた零の隣に、やはり目を閉じたままのベクターが倒れている。
 そこは見覚えのある街だった。
 まさしく零が望んだ場所かもしれない。
 アスファルトの床と、色とりどりの建物と、学校と、ひときわ目立つハートの塔。
 かつてここに、『真月零』が生きていた。ベクターが作りだした偶像が、零の憧れた日常を手に入れていた。
 今なら戻れるかもしれない。零にはできなくても、ベクターにはそれができる。
 空には太陽が昇っている。暖かい光が、彼らを包む。ベクターはそれでも目を覚まさなかった。望んだはずの場所にいるのに、もう一度この景色が見られるのに、彼は目をあけようとしない。零と同じ紫色の瞳は、何も映さない。小さく息をしているはずなのに、これじゃまるで、彼が人形になってしまったみたいに。
 起きてよ。
 呟くように、零はもう一人の自分を呼ぶ。
 ねぇ、起きてよ。起きてよ、ベクター。今ならきっと戻れます。今度はちゃんと、自分のために生きられるんです。もう誰も傷つけなくていい。愛されていい。だから、どうか目を開けて。
 触れた頬は、まるで温度を感じさせなかった。苦しいのかどうかもわからない。自分が眠っていたときもそうだったのだろうか。けれど今のベクターは、かつての自分とは違うことを零は知っている。苦しみから逃れるために眠っているのではない。零がいるから、彼は意識を取り戻せないのだ。同じ器に入った二人は、同時に意識を覚醒させることが出来ない。表と裏のような関係だ。零が彼を、解放してあげなくちゃいけない。
 許されていいんですよ、ベクター。僕は駄目でも、あなたならきっとそれができる。
 零のために、彼はずっと傷ついてきた。歪んで軋んで、心が壊れたなんて言われてしまうまでに。けれど、そうじゃない。彼もちゃんと人を信じるこころをもっている。だれかを愛するこころをもっている。意図的に、そのやりかたを教えられなかっただけ。
 この世界で、あのふたりに出会った。かなしみも憎しみもないまほろばで。ベクターと、そして零は、彼らの世界に入ることを許された。今になって、その意味を知る。何十、何百年も生きてきて、ベクターが出会ったひとたちは、甘くはないけれど、それでも泣きたくなってしまうくらいに、強くて、優しい。
 大丈夫だよと零は笑った。
 だってメラグとドルべが、この世界で僕らをみつけてくれたんですから。

* * *

 どうして私と会ってくれたんですか。そう尋ねたとき、零の母は心底不思議そうな顔で訊き返してきた。

「母親が息子に会いたいと願って、それはおかしいことなのかしら」

 目を瞬く母の顔は、まるで少女のようで。零は一瞬言葉につまったが、すぐにかぶりを振った。おかしい、おかしいに決まっている。

「……だって母上は見ていたでしょう。私は現実から逃げ出して、結果国を滅ぼしてしまった。私はあなたを裏切ったんです」

 目を背けたくなるほどに凄惨な光景。大地を染め上げた、真っ赤な血の海。
 その原因を作ったのは他でもない零だ。零がベクターにそうさせた。そうなるように仕向けた。
 狂気の王と呼ばれるべきなのは、ベクターではなく零なのだ。見ないふりをしていた事実に、はじめて、向きあう。

「……きいてください」

 本当は、再会したそのときに、伝えなければならなかった。
 今までの自分をこの場所からみていただろう母親に、真実を告白する。あの惨劇を目にして尚、母は自分を受け入れてくれた。これ以上彼女を失望させたくなかったが、それでも伝えなくちゃいけない。ベクターのことを誤解させたままではいけない。自分だけ悲劇の主人公のふりなんて、できなかった。
 私が、悪いんです。声を振り絞った。

「……父上と、母上が目の前で亡くなったとき、私はひどく絶望しました」

 一つ一つ、言葉を選ぶ。胸が痛かった。
 あのとき、あの瞬間、自分の腹の奥に渦巻いた黒い感情に、狂気という名前を与える。

「あんなに一生懸命やったのに、どうしてこんなにも上手くいかないのだろうと、自分の運命を呪いました。私はあの瞬間から、家臣も親戚も国民も、誰も信じることはできなくなりました。きっと皆、私を置いていくか、もしくは手にかけようとするのだろうとしか考えられなくなりました」

 零の声を、母は黙ってきいていた。彼女の顔を見ることができない。言葉を続ける。

「私は生きとし生ける者すべてを憎みました。死んでしまえばいい、この国も滅んでしまえばいいと、本気で考えていたんです。
 でも、それを実行する勇気はありませんでした。こころは闇に巣食われていくのに、それを外に吐き出すことができなくて、今にも壊れてしまいそうでした。――だから」

 語る声がぶるぶると震えているのがわかる。
 父と母が倒れたあの光景は、鼻の奥を突き刺して、喉まで侵した血のにおいは、今でも鮮明に思い出せる。
 生々しく口にするのは、当時の自分自身の感情だ。
 あのときの零は本気だった。
 本気で、零は取り返しのつかないことをしてしまった。
 ごめんなさい。
 喉の奥から、やっとの思いで声を絞りだす。ごめんなさい。

「……僕は自分の分身を作って、彼に殺しをやらせました。ドン・サウザンドは、僕の心を操ったわけではありません。すでに闇とらわれていた僕に、もう一人の自分をつくる力を与えたんです。僕の手助けをしただけなんです。
 作りだした分身に、僕は自分の闇をすべて注ぎこみました。自分のかわりに全てを壊し尽くすように命令をして、僕はまっさらで綺麗なまま、長い眠りにつきました。僕は他人の死と向きあうことも、自分の結末を見届けることさえも、放棄しました。
 ――僕は他のひとを犠牲にすることで、自分の人生を、すてたんです」

 最後はもう、息しか出なくて、自分の声にすらなっていなかった。
 零の目から、ひとりでに涙がこぼれ落ちる。
 自分を保つための道具として、零は分身であるベクターを作りだした。重いものを全て彼に背負わせて、自分はまるでスイッチを押すように簡単に、彼に虐殺の命令を下した。
 眠りについた零が再び目を覚ましたのは、ベクターがバリアンとしての生を終えたときだった。零が眠っていた間の、ベクターの記憶が、当時の感情と共に流れ込んでくる。
 謀略、虐殺、裏切り、そして、死。
 理由のない悪意に捕らわれ、狂ったように他人を傷つけ続けるのは、どうしようもなく愉しくて、苦しくて、かなしくて、そして虚しかった。血で染まった手で顔を覆って、そうして自分を汚していきながら、彼は零の命令に捕らわれ、無意識の内に従い続けた。
 更に多くを壊すために彼は力を求め、結果抗いようのない圧倒的な力の前に屈し、死にたくないと叫びながら、しかし最後には護るべき相手を見つけて、長きにわたる命を終えた。
 役目を終えたベクターはもう目を覚まさない。スイッチを切られたように意識を失い、眠り続けている。
 やすらぎの世界にたどり着いた零にとって、心の闇を受け入れる分身という道具は、もう必要ないのだから。

「……母上」

 縋るように、彼女を呼ぶ。喉がうまく動かなくて、息をするのも、声をだすのもやっとだった。歯を食い縛る。自分の手で顔を覆う。抑えていたものが雪崩れるように落ちてきて、どうにもならなかった。訴えるように、零は叫んだ。

「どうして、僕のことなんて待っていたんですか。どうして僕をベクターと呼んでくれたんですか。僕はあなたの息子でいる資格なんてありません。もう人ですらいられません。どんなに裏切っても最後まで信じて、救おうとしてくれる相手を見つけた彼のほうが、僕よりよっぽど人間なんです。それなのに、どうしてこの世界で目覚めたのが僕なんですか。どうして母上はまだ、僕を息子だと思えるんですか」

 息も絶え絶えに言って、しゃくりあげてから、声をあげて、零は泣いた。数千年前に生まれてから、こんなに激しく泣くのは初めてだというくらいに。
 零はそういう人間だった。自分のかなしみと、向き合うことなんて出来なかった。常に理想を高らかに謳いあげ、それを実現することに夢中になるのが、彼の信条だった。
 けれど、それはもう通用しない。零のいた世界は、決して優しい場所はなかった。逃げ場を失い、自分だけを守ろうとして、その結果がこれだ。零の手は綺麗なままだったけれど、その周りは取り返しのつかないくらいに汚れてしまった。
 向かい側で、席を立つ音がする。今度こそ母親に愛想を尽かされてしまったのだろうか。零は自分の元から彼女がいなくなることを覚悟したが、しかしそれは違っていた。真っ白な手が零を撫で、その頭を自分の胸に押しつける。それは母の胸だった。どうしてか教えてあげましょう。彼女が言った。

「それはわたしがあなた以上に、最低で自分勝手な人間だからです」

 痛みを堪えているような、つらい響きだった。彼女は零をしっかりと抱き締めて、言い聞かせるように話した。

「望めばなんでも手にはいるこの場所で、わたしはあなたのことをずっと見ていました。あなたのことが心配で仕方ありませんでした。
 あなたが狂気の王と呼ばれ国を血で染め上げたときも、姿を変えバリアンとしての人生を歩み始めたときも、わたしはただ、あなたが生きることだけを望んでいました。わたしが命を懸けて守ろうとしたあなたに、どんなことがあっても生きていてほしかった。あなたが生きてさえいてくれれば、誰の屍が積み重なろうと構わないと思っていました」

 零はその声を、信じられないような気持ちできいていた。国を愛し、息子である母親の本音をきくのは、初めてだった。

「もしわたしが最初からあなたと、あなたの分身である彼の秘密を知っていたとしても、きっと同じように祈っていたでしょう。あなたはわたしの息子です。他の誰を犠牲にしてでも、わたしはあなたが苦しみから解放されることを望んでいました。
 それがひどく自分勝手で、許されない願いだとしてもです」

 彼女の声も、必死であることに気付いた。抱えてきた思いを、零のために、母は伝えようとしている。それが痛いほどにわかってしまった。彼女は、決して優しいだけの人間ではなかったのだ。そこには自分では制御できないような、どうにもならないエゴが含まれていた。よくお聞きなさい。母はそれを、口にする。

「あなたは一人きりではありません。わたしは、あなたを愛しています」

 目を開けて、数度瞬きすると、涙がまた頬を流れ落ちた。零は深く息をしてから、ゆっくりと顔を上げた。泣き出しそうな母の顔が、涙で滲みながらも零の瞳に映っていた。わなわなと震える唇を噛む。情けないくらい掠れた声で、零は尋ねた。

「母上。……僕は、どうすればいいんですか」
「――彼を救いなさい。もう一人のあなた自身をです」

 しっかりとした声色で、彼女は答えた。零がそう訊いてくるのを、最初からわかっていたかのように。

「どれくらい時間がかかっても構いません。どんなことをしてでも、彼を眠りから覚ましなさい。あなた一人で今まで犠牲となったすべての命の責任をとることはできないけれど、分身である彼のことを救えるのは、あなただけです。
 あなたが生み出した存在ならば、彼に一人の人間としての、命を与えてあげなさい」

 二階にある一室で、今も眠り続けている零の分身。責任をもって彼にちゃんとした未来を与えるのが、零に残された最後の役割だった。
 だって彼はあなたのために、ずっと頑張ってくれていたんでしょう。そう囁く母の目は、まるで兄弟の話をしているかのように優しかった。
 息が苦しくて、声を出すことさえままならなくなったから、零は首を縦に振って、大きく頷く。
 ベクターを連れて、外に出ることを、決めた。

* * *

 太陽が降ってきたかのように強い光が、ハートランドの形をした街を照らした。余りの眩しさに両目を覆うが、すぐにその輝きはおさまる。手を放し、顔を上げると、そこには半透明の青年が零とベクターを見下ろしていた。零は立ち上がった。

「……アストラル」
「ヌメロンコードの書き換えだ。君たちを迎えにきた」

 淡々と用件を伝えるだけの声だった。どうやら彼らはやってくれたらしい。なんとなくそんな気がしていた。すべての者への救済は、遊馬が一番、望んでいたことだろうから。

「お断りします」
「……何故」
「彼だけを、もとの世界に戻してあげてください」

 零の足元で、未だ眠り続けるベクターを見て言う。金色をしたアストラルの目が僅かに見開かれた。たぶん、驚いている。

「君と彼は一心同体だ。輪廻を巡るとき、ひとつの器に入る魂は必ずひとつだけ。ヌメロンコードでもその法則は書き換えられない。今ここで彼を切り離してしまえば君は器を失い、もう二度と現世に戻れなくなるぞ。このどこでもない夢の世界に、永遠に置いていかれたままになる」
「もとよりそのつもりです。僕はこの場所で、永遠に彼を待ち続けます」

 零はきっぱりとそう答えた。それが彼の決意だった。自分はここに留まるかわりに、ベクターを独立したひとつの魂として、零自身から解放する。彼を連れ出したときから、零はそう決めていた。

「『ベクター』は、彼ひとりだけです。僕は零でいい。現世には存在しない、夢の中の、真月零でいいんです」

 ベクターが遊馬の前で偽者を演じていたとき、少しでも以前の自分――よかれと思って、国の平和を願った皇子のことを、無意識にでも思い出したりしたのだろうか。彼は零の分身で、そのベースはまったく同じものだということを知っていた。零の理想は、ちゃんと彼のなかに生きている。それだけでよかった。

「彼のことを、お願いします」

 零は深く頭を下げた。しばしの沈黙があったあと、こくりと頷いたアストラルが手を翳す。ベクターの体が、小さな光に包まれ、そしてふわりと宙に浮いた。
 零という本体から解放された彼は、新しい世界へと、旅立っていく。

「ずっと、僕を護っていてくれてありがとう」

 眩しそうに目を細めて、零はベクターにそう言った。最後のに残されたこの時間に、ありったけの思いを伝える。

「今度は僕のためでも、バリアン世界のためでもなく、自分のために生きてください。
 新しく生まれ変わって、あなたを愛してくれるひとが、きっと見つかりますように。あなたが心から愛せるひとが、きっと見つかりますように。
 やさしいひとになってください。強くたくましくなってください。たくさんたくさん長生きして、またここに戻ってきたときは、そのときのお話をきかせてください」

 ベクターとアストラルの体は天に昇り、やがてさらに大きな光に包まれた。まるで晴れた空に、星が浮かんでいるみたいだった。それが遠ざかり、小さくなっていく。もう一人の自分との別れを惜しみ、そして見送りながら、零は言った。

「どうかあなたに、最大限の幸福を」

 果たしてそれが、彼に届いたかはわからない。アストラルとベクターを包んだ光は零に見送られながら、空に溶けるように消えていった。雲りのない青が、何事もなかったかのように広がっている。
 頬を撫でる風は、若草の香りがした。新しい世界で、命が芽吹く。自分以外だれもいないこの街で、零は一人たっている。
 どうか彼を、よろしくお願いします。
 もう一人の自分であるベクターが今まで出会った、そしてこれから出会う、すべてのひとへ。
 心からの祈りをこめて、零はもう一度小さく呟いた。

* * *

 気付いたとき、彼はそこに立っていた。
 見覚えのある街が、夕日のオレンジ色に照らされていた。自分を呼ぶ声が、どこか遠くからきこえてくる。
 ベクター。
 振り返ると、見覚えのある人影が、向こうで手を振っていて。導かれるように、彼はそこに向かって歩きだした。
 なんだろう。
 いまの自分の気持ちを、彼はどう理解すればいいかわからなかった。
 胸に温かいものがこみ上げて、このうえなく自分を満たしているのに、心にぽっかりと穴があいたような喪失感が消えてくれない。
 まるで自分の一部を、どこか遠くにおいてきてしまったみたいに。
 この足りないなにかが、彼にはどうしてもわからなかった。
 なぜだろう。
 この街に戻ってきたことが、自分を呼んでくれる誰かがいることが、本当にしあわせなはずなのに。どうしてこんなに、かなしいのだろう。
 いくら考えても答えはでない。満ち足りているから、なくしたものがわからない。彼は涙を流していた。どうしてそんなものが流れてくるのかもわからないまま、彼は泣いた。

「……れい、」

 無意識に呟いたその声は、誰に届くこともなく消えていく。

 さびしさの意味もわからないまま、彼は新しくできた自分の居場所を求めて、手を振る少年のもとへと歩き続けた。


>>atogaki



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