それはしあわせな夢だったのかもしれない。

夕暮れに背を向けて立っていると、大切な親友の声がする。
振り向いた先の彼は手を振っていて、どうした、早く帰ろうぜと真月を急かす。
周りには仲間がたくさんいて、いつからか真月もそこにいることが当たり前になっていた。

――待ってください、遊馬くん。

不器用ながらも精一杯、彼らに置いていかれないように真月は駆ける。
気付けば皆が笑っていて、自分も大きな輪のなかにいて、そんな毎日が続いていた。
ずっと続けばいいと思っていた。

例えそれが一瞬のことであったとしても、
真月零にとっては、生きているじぶんのすべてだったのだから。

* * * * *

壁も、床も、天井も。真っ白な部屋の隅に彼はいた。
滑らかな輪郭をなぞれば、自分が今では温度さえわからなくなっていることに気づく。人としての感覚は最早失われかけていた。実体を持たぬ存在に許されたのは、この何もない部屋で、残された時間を悪戯に過ごすことだけ。肉体を失った彼は、今まで以上に無力であった。

『真月零』が与えられた役目を終えてから、もうどれだけの時間が経ったのだろう。あのとき、ベクターが九十九遊馬に全てを暴露したそのときから、彼の存在意義は失われてしまっていた。個人としての意思を持ってはいても、元々は遊馬を騙すためだけに作られた偽の人格であることには変わりない。それが如何にして本体である『ベクター』の精神から独立したのかは真月自身にもわからないが、表に出る必要がなくなった以上、彼はこうして真っ白な心の部屋に閉じこめられている。

ベクターは彼を気に入ってはいないようだった。自分とはまるっきり正反対の性格をしていた真月を、計画を進めるための駒としてしか見ていない。それでも真月は構わなかった。自分を作り、素晴らしい仲間を与えてくれた主の役に立ちたいと本気で考えていた。そしてそれが決してベクターの影を見せることなく、何もしらない『真月零』らしく振る舞うことであるとも知っていた。与えられた時間はとても短い。期限付きの友情を彼は本心で演じ、たった一人の親友を、ベクターの次に、大切に思っていた。

光も音も届かない部屋で、彼はぽつりと主の名を呟く。
聞こえているかはわからなかった。閉ざされた空間で、真月に出来ることはそれだけだった。
ベクターがこの声に応えたのは最初の一度きり。
幻のように現れ、真月を前に「まだいたのか」と目を見開いた。そしてすぐに険しい顔つきになり、「とっとと消えちまえ、お前なんか」と吐き捨てた。
それ以来彼の姿を見ていない。主から与えられた言葉はとても少なかった。しかしそれは十分すぎるほどに、真月の胸に突き刺さる。自分と瓜二つの顔をした少年を思い浮かべる度に、彼は泣き出しそうな気持ちになる。どうしてそんなふうに言うのかとききたくなる。

話を、話をしてください、ベクター。

声を聞いてくれるだけでいいと、真月は主に呼び掛けた。生きる目的を失ってしまった自分に、意味を与えてくれる相手を探していた。
彼を知る者はベクターしかいない。偽りのなかで真月にとっては本物の友情を築きあげた遊馬たちは、以前のように名前を呼んではくれないだろう。どんなに精巧に、本当のように作られた虚像も、暴かれてしまえばただの偽物だ。ベクターの内側には確かに自分が存在しているのだと、真月の口から訴えたところで、そんな曖昧なものを誰に信じられようか。

取り残された真月の世界には誰もいなかった。
親友を裏切ってしまった罪悪感と認められたい気持ちでぐちゃぐちゃになっていようとも、彼に出来るのは遥か遠いところにいるもう一人の自分に、忘れ去られぬよう訴え続けることだけ。
すっかり中身を失ってしまった身体で、息の仕方も忘れ、それでも彼は、必死に『真月零』という個を保ち続ける。

ベクター、お願いです、もう一度僕を見てください。
どうか僕を嫌わないで。
不器用で何の力も持たないけれど、あなたの役に立ちたいんです。

遊馬くんはどうなりましたか。
欲しいものは手に入りましたか。
あなたの夢は叶いましたか。

とても長い、長い時間、表情一つ変えなかった白い壁が、真月の声を受け止める。それでも返ってくる言葉はない。沈黙したまま何事もなかったかのように、それは世界を閉ざしている。
見棄てられたことには薄々気付いていた。ベクターは自分を必要としていないのだ。使い捨ての人格、誰かの理想で形作られた人形は、主にとって寧ろ疎ましい存在となってしまったのかもしれない。

いつかはかなしみさえ失ってしまうのだろう。
行き場のない感情は無意味なものとして埋没していく。本体に戻ることも許されず、朽ちていくこの身体を眺めながら終わりを迎える。

――ああ、どうか、そうなる前に。

手を伸ばし、壁と同じく真っ白な天井を見上げ、縋るような祈りを捧げる。

主が心を取り戻したいと願い、いつか自分を迎えにきてくれる日がくるのを、彼はずっと信じて、待っていた。

* * * * *

幼い声が再び脳髄にこだました。
今の自分とは似ても似つかない、まるで人間の子どものような声色で、必死に訴えかけてくる。耳障りで仕方なかった。

玉座に腰掛けるベクターは既に偽りの人格を必要としていない。彼はもっと素晴らしいものを手に入れていた。この心臓には神の力を宿している。逆らうもの全てを捩じ伏せる、絶対的な力だ。

何度も呼び掛ける声に、決して振り向いてはならなかった。
己の内側に眠る余計な感情を固めて生まれたのが『真月零』だ。偽りで出来た人格も間違いなく自分自身であるからこそ、ベクターはそれを捨てなければならない。

眼下には煌めく赤、錆びた銀、それを沈めるのは深い暗闇。どろりと奥で混ざりあって、元が何色であったかさえわからない。これが彼の世界だった。淡い色彩は失われ、記憶は徐々に風化していく。甘い思い出など生きていた証にすらなりはしない。偽物で形作られた、中身のない白昼夢だ。
放っておけばいずれは朽ちて消えるのだろう。
未練はない。最初から決めていたことだ。胸に穴が空いていくような感覚を、彼は気にも留めなかった。例えそれが、痛みを伴うものだとしても。

心臓から送り出される血液はゆっくりと体内を循環していく。
神に差し出した内側が徐々に侵食されていく傍らで、閉じ込めたこころがゆっくりと死んでいくのを、ベクターは静かに感じていた。


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