その感覚には覚えがあった。
刃。悲鳴。血飛沫。
どうしてそんなものが目に浮かぶのだろう。
対象はまるで違うのに。
目の前で倒れた身体は二つだった。
暗い暗い洞窟の中で、ぱしゃりと音を立てて水面が跳ねる。
彼らは二度と動かない。
自分がこの手で殺したからだ。
それは思った以上に単純な出来事だった。
倒れたまま半分ほど水に使った二つの体躯は、今は屍と呼ばれるのだろうか。
おい、とベクターは彼らを呼ぶ。
自分で何を期待していたのかはわからない。
生きていることか、死んでいることか。
どちらを望んでいるかわからなかった。
だからこそ、確かめるように彼らを呼ぶ。
おい。
いくら待っても返事はなかった。
その代わりに、パラパラと音を立てて二人の身体が崩れていった。
砂のようになったそれはやがて光の粒に変わり、水の中へと溶けて消える。
ぴし、という音がして、彼らの胸に埋め込まれていた輝石に皹が入った。
ベクターが浅い湖の中から掬い上げたとき、それは粉々に砕け散っていた。
この物体は謂わば『核』、バリアンが存在する為に消費するエネルギーの源だ。
それが今、壊れたということは。
彼らはもうこの世には存在しないということ。
生前は透明で澄んだ色をした塊だったというのに、今はその面影もない、まるでボロボロになった炭のようだ。
何故だか気分が悪かった。
彼らは死ぬと、自分でわかっていてそうした筈なのに。
言い知れぬ虚無感と脱力感と高揚と恐怖とが、どろりと入り交じってベクターを満たす。
空いている手で頭を押さえた。
なんだよ。
なんなんだよ、これは。
異常なのは既視感だった。
ぐるぐると目の前の静的な光景が移り変わって、別世界のものと交錯する。
フラッシュバックとでも言うのだろうか。
誰かが刺殺される。絞殺される。溺死する。
臓物がギリギリと締め付けられる感覚がして、中身を全て吐き出したくなった。
しかしバリアンであるベクターに口はない。
彼の身体はそんな人間じみた欲求を満たすようには出来ていない。
いくら内臓がひくついても、どうにもならぬ苦しみを味わうだけ。
どうしてだ。
どうして俺がこんな目に遭わなくちゃならねぇんだ。
ふざけるな。チクショウ。
彼は掌にある黒い物体を握り、そして磨り潰した。
行き場のない感情を発散させるように、何度も、何度も。
理不尽に、不条理に、お前の所為だと唱えながら。
聞き覚えのある声がしたのはその時だった。
場所は此処からから遠く離れた洞窟の入り口近く。
水滴の音が響く静けさのなか、それは微かにベクターの鼓膜を震わせた。
一つはドルベのものだった。
(……ナッシュ)
ベクターは顔を上げた。
感じる気配は二つ。
一緒にいるのはミザエルだろうか。
突然姿を消したナッシュとメラグを、彼らは探しているようだった。
ミザエルは相も変わらず不機嫌そうな声で言う。
(ドルベ。もう探すのは止したらどうだ?奴のことだ、突然居なくなるなど有り得ないだろう。少しすればメラグと共に戻ってくるに決まっている)
(わかっている。……だが今は急ぎなのだ。長年我々が探してきた、アストラル世界に干渉する手段が見つかったかも知れない。彼がそれに賛成するかはわからないが)
(まさか人間界のことか?今はまだそのときではないだろう。そもそも行くことが可能でもあの世界に適応する手段は不透明だ。今の段階では現実味がなさすぎる)
(それでも検討する価値はある筈だ。君の言う通り危険な方法かもしれないが、事態は一刻を争っている……だからこそ今、私には彼が必要なのだ)
(重大な判断を下すには、ナッシュの意見が不可欠だと?)
(彼だけではないさ。勿論君もアリトもギラグも、メラグも、そしてベクターも。必要なのは皆同じだ。しかし私はリーダーとしての彼の意見が聞きたい。彼にはこの世界を正解に導く力がある)
――ナッシュ。
親友を想うような温かい声色で、再び彼が呟く。
光の差す洞窟の入り口を、ベクターは暗闇から呆然と見つめていた。
手の中にある生の残滓は、取り返しのつかないくらいボロボロになってしまっていた。
二人の身体は何処を探しても見つからなかった。
どうすんだよ。
ベクターの手には、こびりついた死の臭いと殺しの感触だけが残っている。
死人に生を返すことなど出来ない。自分にはそうする気もない。
洞窟の壁に背を預けたまま、ベクターは途方に暮れていた。
どうしろっていうんだよ、一体。
二人の足音が遠退いていく。
取り残されたような気持ちになった。
足先から膝までを透明な水に浸からせたまま、ベクターは動くことさえ出来なかった。
無機質な虚無感が一人きりの空間を満たす。
理解するには、何もかもが遅すぎたのだ。
>>atogaki