しっとりと。
空が涙を流している。
俺はただ、それをこの身に浴びるだけ。
上を向くと雫が顔をうつ。前髪は額に張り付き、目は上手く開けられない。水滴は身体の芯からどんどん体温を奪っていく。
『風邪ひくやろ!はよ中入り』
聞こえるはずだった市丸の声。もう俺に向けられることは無い。
大好きだったあの声は、今は他の誰かのために…。
市丸に別れを告げられたのはつい昨日のこと。
あっさりした別れだった。今まで何十年も一緒に居たとは思えないほど。
「なぁ別れよ?他に好きな子が出来たんや」
「……そっか。じゃあ部屋のお前の荷物、持って行けよ」
「うん解っとる」
「そしたら……さよならだ」
「うん、ばいばい」
「じゃあな」
不思議と涙は出なかった。あんなに、市丸無しでは生きていけないと思っていたのに。
市丸の荷物が運び出された俺の部屋は、前とちっとも変わっていなかった。
元から着替え用の死覇装数着と、寝具。それしか無かったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
それでも少しも変わっていないというのは、何だか寂しいものがあった。
俺の中の市丸という存在は、こんなものだったのか…。
そう考えるとその夜はどうしても眠れなかった。特に、寝たいとも思わなかった。
一晩中何を思うわけでも無く、ぼんやりと光る月を眺めていた。
日が昇り始めると、長い廊下を独りで歩いて出勤した。たった独りで歩くのなんて、何年ぶりか…。
そのくらい常に隣りには市丸が居た。
「日番谷隊長、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
すれ違う隊員たちに挨拶を返す。いつもと何も変わらない朝。
変わった事と言えば三番隊の書類を三席が持ってきたという事だけ。
ああ、そうか、俺たち別れたんだっけ……。
今頃になってやっと実感が沸いて来て。何だかやるせなくなってきた俺は、少しは気分転換になるだろうと、散歩に出かけることにした。
古びた壁や軋む廊下。庭に咲くあじさいの花。
瀞霊廷中どこを通っても市丸との思い出にあふれてる。
走馬灯、という言葉をここで使うのは適切じゃない気がするが。まるで走馬灯のように幸せな思い出が駆け巡った。
振り返れば振り返るほど、胸が締め付けられそうになる。優しかった市丸の言動を思い出す度唇をかみ締める。
やっぱり俺は、
市丸が好きなんだ………。
俺に触れる、大きな手。
囁かれる、魅惑の声。
俺と同じ、銀色の髪。
引き寄せられる、広い胸。
どれも、どれも大好きで…。一緒に居る時間が本当に幸せで……。
市丸のためなら死んでもいいと思った。(そう口に出したら、凄く凄く怒られたけど)
それでも一つだけ嫌いな、苦手なところがあった。
本当の自分を隠して嘘を吐くときの、張り付いた笑み。
もう何十年も見ていなかった、あの、笑み。
別れを告げたときの市丸はその表情をしていた。
見ているこっちの胸がチクリとするような偽りの顔。
ふいに頬に水滴が落ちてきた。上を見上げると空は真っ黒い雲に覆われていた。
雨だ………と思った直後にはもう、雲は次々に地上に雫を送り込んできた。しとしと落ちてくる冷たい雨に、俺の頬は濡れていく。
動こうと思えば動けたが、俺はその場を微動だにせず雨を受けていた。
ざあざあと…。
地面の色がみるみる変わり、音も激しくなってくる。前髪は濡れて張り付き、目は上手く開けられないほどだ。
雨粒が激しく地面を打つ音が、俺を外界から遮断する。土砂降りの空を仰ぎながら、俺はぼんやり思考に耽った。
土と雨が入り混ざったにおいが自然を感じさせる。跳ね返るしぶきで茶色くなっていく死覇装の裾。もう服はぐっしょり重みを増している。
「市丸……………」
呟いたその言葉は周りの音にかき消され、すぐに消えた。随分久しぶりにこの名を発音した気がする。
もう一度、今度は一字一字かみ締めるように…。
「市、丸………」
こんなにお前のこと好きなのに…。どうして別れなきゃいけねえんだ……?
何か理由があるんだろ…?
好きな奴が出来たなんて嘘だよな…?
お前だって、きっとまだ………
そう考えると鼻がツンとして。俺は必死で歯をかみ締めた。
落ち着こうと息を吸い込むが、雨独特の雰囲気に呑まれ、翡翠色の瞳からは堰を切ったように涙があふれ出た。
ぶわっと零れた涙は止まらず、雨と涙で俺の顔はぐちゃぐちゃだ。
「…ふっ、く……っ」
必死にこらえた嗚咽も、雨の音に消えていく。
膝にも力が入らなくなって、地面なんて気にせずに俺は座り込んだ。…というより、膝から崩れ落ちた。
座り込んだ俺の上にも、容赦なく雨は降り注ぐ。地面には水溜まりが暗い空を写し出していた。
好きだった、本当に。
今も、大好き。
別れたなんて信じたくない。
何時間そこにいたのだろうか。気がついたら雨はすっかり小降りになっていて、しとしとと頬を濡らし続けていた。
たくさん泣いて、スッキリした頭で考えた。
……俺は認めたくなかったのだと。
別れを告げられたとき涙が出なかったのは、自分の中でこの事実を認めていなかったから。
頭が、心が、無意識のうちに拒絶していたんだ。
「はぁ…」
何時間も俺は何をくよくよしているんだと、大きく溜め息をついて立ち上がった。
足元がおぼつかない。雨の中ずっと外にいたせいで死覇装はズッシリ重くて、膝もなぜかガタガタ震えている。
「日番谷はん!こんなびしょ濡れで何やっとんの!?」
はじめ、幻覚だと思った。たまたま通り掛かった市丸が背中を支えてくれる。
別れたのは昨日の事なのに背に触れる手を懐かしいと感じた。
ほら、やっぱりお前は今も優しいまま…。
「俺、お前を信じてるから」
「…え?」
「だから、やる事やったら帰って来い…」
「……」
「お前の居場所はずっと、俺のとなりだ…」
「………、うん」
もう、泣かない。決めた。
市丸の目的が果たされるまでは、俺は遠くで見守っている。
いつか市丸の方から俺のところに戻って来るのを待つ。ずっと、たとえ何年かかったとしても…。
いつの間にか雲間からは太陽が覗き始め、雨はすっかり上がっていた。
俺の心はさっきまでが嘘みたいにスッキリ澄み渡っている。踏ん切りがついたみたいだ。
市丸、はやく戻って来いよ…………。
空には七色の橋が、綺麗にかかっていた。
End
ぐだぐだすいませんでした…。無駄に切ない?感じで。
市丸さんは、次の日虚圏に旅立ちます。ひつを悲しませないように、最後に嫌われておこうと思ったんですかねー(ありきたり)
目的を果たして帰って来るのを、ヒツは健気にずっと待ってます。
市丸さんってば罪な男vV
2009.6.8