テーブルにカップとソーサーを置いて向き直る。
「一つお聞きしても構いませんか?」
のんびり紅茶を嗜む教授に前以って問うと、ゆっくり瞬きをしてカップを置き、頷いた。
答えてくれるかは分からないが、聞いてみないことには始まらない。
「あの老人の検体の出所を教えてはいだたけないでしょうか?」
「それは…、」
「検体となる方についての詮索が良くないことも、それがその方の尊厳を踏み躙(にじ)ってしまうかもしれないことも理解しています。絶対にここで聞いたことは口外しません。」
教授は思案顔で目を閉じる。そうして暫くの間、考え込んでしまった。
顰められた眉からしてこの質問はやはり禁句なのだろう。
不安と緊張でドキドキと心臓が早鐘を打ち、酷く待ち時間が長く感じられる。
数分…もしかしたら数十分だったのかもしれないけれど目を開けた教授は難しい顔をしたまま、少し声を落として話し出す。
「……あの老人を受け取ったのは、五日程前だった。」
「どなたが来られたので?」
「書類を見た方が早いだろう。ちょっと待っていてくれるかい?」
「はい、いくらでもお待ちします。」
わたしが頷き返せば教授は自身の机に歩み寄り、ポケットから取り出した鍵で引き出しを開け、束ねられた紙を出す。
中身を確認しつつ数枚を捲くった後に一枚の紙を抜いて、残りを引き出しへ仕舞い戻って来る。
渡された紙には写真が一枚貼り付けられていた。
その写真を見て思わずハッと息を止めてしまう。
皺の多い男性の老人の顔は酷くはないものの鬱血(うっけつ)して変色していた。
寒いツェーダで浮浪者が凍死するのは稀ではないが、凍死で死者の顔が鬱血するなんて記憶の限り覚えがない。
一通り写真の顔を眺め見てから洋紙の文字へ視線を移す。
検体が持ち込まれた日時、検体を持ち込んだ人物とその住所、それに対する報奨金の額か明記されていた。下には教授のサインと判子が押してある。
「丁度検体が一体足りなくて困っていた所に話を持ちかけられてね。遺体を見てすぐに訳有りだと気が付いていたのだけれど…。」
眉を顰めたまま教授はソファーに座った状態で両手を握り合わせると額をつけた。
検体となる遺体は学院の地下の安置室で一週間から十日程ならば状態を保てるそうだ。
しかし解剖の実習を行うための最低検体数は三体。内二体は都合が合ったけれど、どうしても最後の一体は見つからない。解剖には最低三体がどうしても必要で、しかし都合よく誰かが死んで検体となってくれる訳でもなく、最後の一体が見つからなければ今回の解剖は出来ない。
段々日が過ぎて行くうちに焦りが募る。
そんな時に検体として提供したい遺体があるという申し出を聞いて、その遺体の死に問題があると分かっていながらも教授は引き取ってしまったそうだ。
立場故の選択だったのだろう。金を渡し、院生達に解剖を行える旨を伝えたものの、本当にこれで良かったのかと思い悩んでいたと言うことだった。
「神は私の愚行を見過ごされなかった。君が現れ、こうして話していると、本当に悪い事は出来ないものだと思うよ。」
「…教授の立場で考えれば仕方がないでしょう。ご自身がそこまで後悔していらっしゃるのでしたら、わたしが口を出すべきことではありません。」
人間ならば一度や二度、誰だって過ちを犯す。
本人が反省しているし、今回の事は誰かに迷惑をかけた訳ではないから、それを誰かに吹聴する気はない。
わたしの言葉に教授は困ったような、ホッとしたような表情を見せた。
それも一瞬で、最後にはやはり思い悩んだ様子で溜め息が聞こえた。
「資料を見せていただき、ありがとうございました。」
「いや、私も君に話を聞いて貰って少し気が楽になったよ。」
「それは良かったです。貴方の行為は誉められたものではないかもしれませんが、わたしはそれを悪だとは思えません。」
「…優しいね。」
どちらからともなく互いに笑みを浮かべ、わたしは立ち上がる。
手を差し出すと教授はしっかり握り返してくれた。
「今日は本当にお世話になりました。これからもご健勝にお過ごしください。」
「ありがとう。君も何かあったら遠慮せず訪ねて来なさい。紅茶を用意して待っているよ。」
「はい、ありがとうございます。」
軽く頭を下げてわたしは廊下へ出て、扉を閉めた。
そして解剖室の扉の前に行き少しの間、中の音に耳を澄ませる。
すると室内から微かに物音が聞こえてきた。
その足音からして多分中にいる人数は一人だろう。
足音が近付いて来ることに気付き、体を扉から離。
一拍の間の後に扉を開けた人物が、わたしの存在に驚いた様子で大袈裟に肩を震わせる。
「こんにちは。」
笑いかけると彼――…カルクさんは一瞬瞠目し、マジマジわたしを見つめてくる。
…おーい。他人のフリ、他人のフリ。
「何をされているんですか?」
「え?あ、片付けを…」
「他の院生の方々が見受けられませんが、お一人で?」
質問を重ねられ、カルクさんは無言で頷く。
どこか呆けているような雰囲気に乗っかって、わたしは名案とばかりに手を打った。
「一人では大変でしょう?良ければお手伝いさせてください。」
そう言いながらカルクさんの脇を擦り抜け、解剖室に入ると扉を閉める。
振り返ってもう一度笑いかけた。
我に返ったらしいカルクさんは、喉に何かをつっかえた人みたいに変な顔で口を開く。
「セナさん、ですよね?」
「はい、数日ぶりですね。」
「…驚きました。一体どうやって?それに顔立ちも以前お会いした時と違って見えます。」
「すみません、その辺りは職業上お答え出来ないんです。」
何せ今の身分は伯爵が用意したものだ。
カルクさんはわたしの名前を知っていても、わたしが伯爵に仕えていることは知らないし教えるつもりもない。
返した苦笑に何かを感じ取ってくれたのか、それ以上問い掛けられることはなかった。
とりあえずカルクさんが上手く計(はか)らってくれたようで解剖室にはまだ検体が残されている。
子供と女性の検体は片付けても問題ない旨を告げ、カルクさんがそちらを片付け、わたしは老人の検体へ向かう。
ポケットから手袋を出して両手にはめ、首にかけられた布に触れると背後から息を呑む音がした。
…あ、カルクさんからは見えないようにしないと。
布ごと首を掴んで空いていたトレイに移し、教卓らしき机の後ろへ回り込む。
一旦顔を上げてカルクさんに振り向いた。
「終わるまで、こちらに近付かれないようお願いします。」
「…分かりました。」