物はどれも丁寧に使われているのか綺麗に洗浄してあったので血が付いているといった、おぞましい発見はなかった。
手術台を見ながら教授がどのような流れで解剖が為されるのかを教えてくれる。
それを聞くとやはり脇腹を押さえたくなってしまう。話を聞いてる途中で、どうやらわたしは死体を見るよりも、こういった医療器具を見る方が苦手だと気が付いた。
ついつい癖で器具の使い方を想像してしまうのが悪いのかもしれない。
余程変な顔をしていたのか、教授は粗方解剖の流れを説明し終えると「外に出ようか。」とわたしの背を押した。
廊下に出ると先ほど教授が出て来た部屋に促され、中へ入るとすぐに椅子を勧められ、何とも言えない感覚がまだ残る腹部を擦りながら素直に座る。
「…すみません…。」
せっかく厚意で中を見せてもらったのに迷惑をかけてしまった。
「いやいや、最初は誰だって君のようになる。私も解剖学に入りたての頃は器具を見るのが苦手で苦労したものだよ。」
慣れた様子で火を点けて湯を沸かし出す教授が懐かしそうに言葉を紡ぐ。
へぇと思う。教授にまでなれるような人が最初は苦労したと言うのは意外だった。
教授は湯が沸くとシンプルな白いティーポットにそれを注ぎ、すぐに蓋をして蒸らす。数分後にティーカップへ注がれた紅茶は綺麗な色をしている。
カップを貰って一口飲むと良い香りがした。紅茶を淹れるのが上手い。
温かな紅茶が胃に落ちると気持ちがホッとする。
「落ち着いたかな?」
「はい。紅茶、ありがとうございます。とても美味しいです。」
「そうかい?それは嬉しいねぇ。」
テーブルの向かいに教授も座って優雅にティーカップを口に運ぶ。
穏やかな雰囲気はとても心地が良い。カップの中身を飲み切ると教授は思い出したように話を切り出してきた。
「解剖も見学してみるかい?」
「えっ?」
顔を上げれば目尻を下げて微笑を浮べたまま見返された。
言われた内容を理解すると殊更驚いてしまう。解剖の見学って…いいの?
「まだ興味があればの話だがね。…明後日行う予定だから、もし気になるなら見に来ると良い。」
「……考えておきます。」
見学はまたとないチャンスではある。あるけれど、器具を見た後だと気が進まない。
教授も分かっているのかそれ以上は何も言わずに空になったカップへ紅茶を注いでくれる。
伯爵にも相談してみよう。少し時間が経って色が変わってしまった紅茶にもう一度口を付けつつ、その柔らかな香りを今は楽しむことにした。
屋敷に戻ったわたしはそのままの足で伯爵の部屋へと向かった。
夕食前だし多分話す時間はあるだろう。
扉をノックすれば案の定すぐに返事があって入室する。伯爵は椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「ただいま戻りました。読書中すみません、ちょっとご相談が…」
「…相談?」
ブルーグレーの瞳を瞬かせて伯爵が顔を上げ、珍しいなと呟いた。
本を閉じ、ソファーへ座るように手で示されたので黙って腰を下ろす。
とりあえずまずは今日学院で見てきたことを話せば興味深げに伯爵はわたしの話を聞き、教授の話を出した際は懐かしげに目を細めた。
が、解剖の見学に誘われた旨を告げれば顔を顰めて考えるように顎に手を添えた。
「お前はどうなんだ?」
「内情を知るチャンスだとは思います。…私的な気持ちを言うならば、あまり気乗りしませんが。」
「だろうな。解剖など私も好き好んで見たいとは思わん。」
「あー…いえ、その…解剖云々というより、それに使われる器具を見るのが、わたしは苦手みたいなんです。」
「……何だそれは。」
訳が分からないといった顔をする伯爵にわたしも眉を下げる。
器具を見ると使用方法を想像してしまって気分的に体が痛くなると告げれば、若干呆れた顔をされた。自分でも情けなく感じているので、あまりそういう顔をしないでもらいたい。
死体はわりと平気な癖に医療器具の類いは見るのもダメだなんて、自分でもビックリな真事実だったんだから。
無意識のうちに脇腹辺りを擦ってしまっていることに気付き、溜め息が漏れる。
「本当に苦手なようだな。」伯爵は立ち上がり、わたしの傍に立つと数回叩くように頭を撫でてきた。絶対今、子供扱いしたな。慰められた気がしてもう一度溜め息を吐く。
「行くだけ行ってみる、と言うのはどうだ?」
見兼ねたらしく伯爵が口を開いた。行って様子見をして、ダメだったら外へ出ればいい。言われて、それもそうだと一つ頷く。
解剖なんて喜んで見たい訳ではないが医学方面は少し興味もあるので行ってみることにしよう。
本当に無理そうだったら途中退室させてもらえば何とかなる。
「お前にも苦手な物があったとはな。」
「……その言い方だと、まるでわたしが何事にも動じない人間みたいじゃないですか。」
「違うのか?」
「お生憎様わたしは普通の人間です。」
可笑しそうにクスクスと笑ってまた頭を叩かれる。よく分からないが今日の伯爵は随分機嫌が良い。
逆にわたしは面白くなくて、年甲斐もなく鼻を鳴らして顔を背けてみても余計に笑いを助長するだけだった。あんまりにも肩を揺らし続けている伯爵を呼べば、やっとその笑いを収める。
わたしの弱点を知る事が出来てそんなに嬉しいんですかね、この人は。
睨み上げてもブルーグレーの瞳は微かだがまだ愉快げに細められている。
頭に触れていた手を軽く払って纏めていた髪留めを取り、編み込みを解いていく。きっちり編んだせいか微妙に痛い。編み込みが髪に良くないというのがよく分かる。
乱雑な解き方に伯爵が呆れたような息を吐いた。
一度払った手が伸びて来て編み込みを解く。編んだ本人よりも解くのが上手いとか、やっぱり面白くない。
癖の付いた黒髪が視界にはらりと落ちてきたので思わず摘まんで見る。…洗って乾かせばストレートに戻るかな?髪質は柔らかい方だから大丈夫だろうけど。
「――…解けたぞ。」
「ありがとうございます。」
かけられた声に頭に触れればキツめに編まれていた髪は全て綺麗に解かれ、肩へウェーブを描きながら、ふわふわと揺れる。手で適当に髪を梳くが思ったよりも絡んではいない。
「セナ、手櫛は止せ。髪が傷む。」
母親の如く注意の言葉を漏らして櫛を取りに行く背中を、頬杖をつきながら目だけで追う。
…本当、伯爵ってばわたしに対して過保護だなぁ。