翌朝、ちょっと昨夜の気分を引きずりつつ起きて身支度を整える。
ご機嫌の悪かった伯爵。今朝も機嫌が悪かったら嫌だな。
やっぱり謝るべきなのだろうか、なんて考えてみる。だけどただ謝りましたじゃ勘の良い伯爵はすぐに中身のない謝罪なんて見抜いてしまうだろう。
肌寒さに少し身を震わせながら伯爵の部屋へ向かう。
一年経った。まだ一年、もう一年。…されど一年。何と言うかお互いの距離が近過ぎてしまったというか、主従関係が曖昧になり過ぎたのかもしれない。
伯爵は決して良いとも悪いとも言わないから余計に境界が分からなくなってしまいそうになる。
…うん、もうちょっと近侍らしくしよう。
頬を両手で叩いているうちに伯爵の部屋に到着してしまった。
ノックなしで扉を開けるとベッドから本当に微かな寝息が静かに聞こえて来る。
どうか怒りませんように。不機嫌じゃありませんように。
一呼吸してそっと背を向ける肩に触れて優しく揺さぶった。
「伯爵、おはようございます。御起床の時間でございます。」
わたしが声をかけると伯爵の顔がこちらを向く。ブルーグレーの瞳が私を見上げてきて、いつも通り静かに一言朝の挨拶を零した。
起き上がった肩に寒いからと厚手のショールをかければ少し変な顔をする。
どうやら機嫌は悪くないらしい。それに内心でホッとしつつ暖炉に火を灯す。どうやら遅くまで伯爵は起きていたようで暖炉はほんの微かにだがまだ暖かかった。
立ち上がって振り返ると伯爵はまだベッドの上にいた。珍しい。
「……昨日はすまなかった。我ながら大人げない事をしてしまった。」
毛布に包まれたまま、スラリとした手で頬を掻きながら視線を泳がせる伯爵に驚いた。
多分、今回悪いのはわたしなのだ。謝るのもわたしからが正しいはずなのに。
「いえ…わたしも昨日はイルのことを押し付けてしまった挙げ句、伯爵のことを蔑ろにするような行動を取ってしまいました。…ごめんなさい。」
「…いや、構わん。お互い様だろう。」
「そうですね、お互い様…ですね。」
ごめんなさい、という単語に伯爵は薄く笑った。
普段近侍として口にする‘申し訳ありません’でなく‘ごめんなさい’を使ったのは、わたし自身の気持ちであることを伝えたかったからだ。
それを正確に理解してもらえたことが嬉しくてわたしも笑う。
パチリと後ろで火が爆ぜる音がして自分の仕事を思い出す。
「では伯爵、着替えを済ませられたら朝食になさいましょう。」
「あぁ。」
「あ、そうそう…」
ふと思い出したことを言おうとすればベッドから出かけていた伯爵が何だと目だけで促してくる。
「今日はイルがお休みで他の使用人の方と一緒に出かけるそうなので、久しぶりに朝食は私と伯爵の二人で摂ることになりました。」
「そうか。」
言って服を伯爵が服を着替え始めた。
わたしは壁際に立って終わるのを待ったが、ほんの一瞬ブルーグレーの瞳が柔らかく細められたのは見なかったことにしておこう。
パチパチと火の爆ぜる音と衣擦れの音だけが室内に響く。
着替えを済ませ、顔を洗ってきた伯爵にはもう眠気は残っていないようだった。
部屋を出て二人で食堂に向かう。椅子に腰掛ければ待っていたかのように朝食が運ばれてくる。
イルはまだ眠っているので本当に久しぶりに二人で食べる朝食だった。
寡黙ではないけれど無駄口の少ない伯爵は食事中の会話などほとんどない。それでもやはり一緒に食事をすること自体にわたしは意味があるのだと思っている。
食後の一杯のワインを嗜んでいた伯爵がわたしを見た。
「昨日の件だが、知人に頼んでおいたぞ。」
「え?」
「学院に出入りするための身分が欲しいと言っていただろう。恐らく見繕うのに二、三日はかかるが。」
「あ、ありがとうございます。」
あんな不機嫌だったのにきちんと聞いていてくれたんだ。
本当に大人だな、と思って見ていれば照れ隠しのようにフンと伯爵は鼻を軽く鳴らしてそっぽを向いてしまう。
それに苦笑しながら私は食事の最後の一口を胃に収めた。二、三日かかるなら、その間はのんびりするとしよう。…あぁ、でも明日は買い物に出かけて普通の服を買ってこないとな。
まさか近侍の格好のまま行くわけにもいかないし。
ちょっと考えてみる。どんな服がいいかな?少し固めのピシッとした格好か、以前伯爵がしていたラフな格好か。どちらにしろ男装だけどその辺は構わないので気にしないことにしよう。
「…あの伯爵、」
「ん?」
「学院へ行く服装なのですが、どのようなものがよろしいのでしょうか?」
こういうのはやはり元々通っていた人に聞く方がいい。
伯爵は考えるように暫く顎を擦って、それからわたしを上から下まで眺めた後に口を開いた。
なんだかんだ言って伯爵はセンスがとても良いから聞いても損はないはず。
「そうだな。…少し質の良いものを着ていった方がいいだろう。お前は元々所作に関して問題ない程度には品が良い。どこかの金持ちの息子とでも思わせておけば通せるだろうな。」
「分かりました。ありがとうございます、参考にさせていただきますね。」
そうか、そんな風に見てくれていたのか。所作を褒められるなんてなかなかないから、余計に嬉しい。
ニコリと笑顔で礼を述べれば伯爵も満足そうに頷いた。
じゃあ少し懐を緩めてそれなりに質の良さそうな服を買って来よう。今回一回きりになるかもしれないし、もしかしたらまた何かの用事で着る可能性もある。
服の一、二着くらいならあったところで邪魔にもならない。
出された温かい紅茶を飲みながら明日の予定を組み立てる。
「…髪は結い上げて短く見えるようにしたらどうだ。」
空になったグラスを置いて伯爵が言う。
「え、うーん……いっそ切っちゃいましょうか?」
「セナ。」
「はい、分かっております。冗談ですよ。」
名前を呼ばれ、両手を上げつつ訂正し直す。この世界では女性は髪を長く伸ばすのが常識だ。男性でも伸ばす人は伸ばすし、貴族など爵位のある家柄の女性は長く美しい髪ほど美人の条件の一つだと言われている。
伯爵はだからこそ髪を切るなと暗に言ったのだ。
本気で切るつもりはなかったのですぐに諦める旨を告げると伯爵は「絶対に切るなよ」と念を押してくる。それに笑いつつもわたしはしっかり頷き返した。