「――――…それは大変でしたね、イル。」
まだほんの僅かに湿り気を帯びているブラウンの髪を撫でながらわたしは苦笑した。
屋敷に戻ってきて、どうやら入浴したらしいイルが部屋に来たかと思うと抱き付いてきて、事件を聞いた。
全部という訳ではなくイルフェスが一緒に伯爵といた時の話なので、後で改めて伯爵に聞こう。
とりあえず今は落ち込んでいるイルをどうやって上向きに修正するかが問題だ。
下水道で吐いてしまって、それだけでも迷惑をかけたのに我が侭を言って怒らせてしまったらしい。
帰りの馬車の中ではどうすれば良いのか分からず黙ったままで、屋敷に着くと伯爵もそのまま部屋に行ってしまったのだとか。
きっとイルにとっては泣きたいくらい途方に暮れたことだろう。
「どうしよう、セナ。ボクここから追い出されたりしないよね…?」
「伯爵はそんなことしませんよ。」
「でも、ボクわがまま言ったから…」
どうしよう、どうしようと泣くイルを抱き寄せてやる。
入浴したばかりでふんわりと花の良い香りがして、思わず笑みが浮かんでしまった。
それを悟られないようにブラウンの頭を胸に抱き締めると宥めるように背中を擦る。
「伯爵は不器用な人なんですよ。」
「ぶきよう?」
「えぇ。きっとイルとどう接していいのか分からなくて、伯爵も困っているだけだと思います。でも決してイルのことが嫌いな訳ではないんですよ?」
わたしと伯爵も最初の頃は結構お互い妙に気を使ってしまってガチガチだったし。
‘伯爵’という立場上…しかもこんな仕事をしていると子供と接する機会なんて無いに等しかったはず。十二歳とはいえ、まだまだ子供なイルの扱いに四苦八苦しているに違いない。
大人と同じような態度を取ってしまうから、冷たいように見えるだけだ。
本当は色々考えて、あれでも気を使っている部分があるんだと思う。
年上で上司でもある伯爵には悪いけれど、そういうところはちょっと可愛いな。
「…ほんと?怒ってない?」
「大丈夫ですよ。だからイルの方からごめんなさいをしましょう?伯爵も言い出せないだけで、イルに謝りたいと考えているはずですから。」
「……うん、ボクあやまる!ちゃんとごめんなさいするよ!」
「イルは良い子ですね。」
意を決した様子のイルの頭を撫でていれば、コンコン…と扉がノックされる。
返事をすると扉が開いてタイミング良く伯爵が入って来た。
びくりとイルが肩を震わせたものの、ベッドから飛び降りて伯爵の前へ駆けて行く。伯爵は珍しく走ったことへの注意をしない。
かなりの身長差があるにも関わらずしっかり伯爵を見上げたイルが口を開いた。
「ごめんなさい!」
もう一度、今度は頭を下げてイルが謝罪の言葉を紡ぐ。
するとブルーグレーの瞳にふっと柔らかな光が浮かび、手袋に包まれた手がブラウンの頭に触れた。
「…私も、怒鳴ってしまって済まなかった。」
そんなに大きな声ではなかったけれどハッキリと聞こえた伯爵の謝罪にイルは顔を上げた。
わたしの方からは見えないがきっと目を丸くしていることだろう。
お互いに見つめ合ったまま動かない二人。多分、この後どうすれば良いのか迷っているんだ。
仕方なく助け舟を出してみる。
「伯爵、お疲れ様でした。」
「! あ、あぁ。」
わたしの声に伯爵がハッとした顔をしてイルの横を通り抜けた。
振り返ったイルの顔がちょっとだけ情けない表情をしている。ベッドに近付き、でも何かを思い出した様子で伯爵が振り返る。
執事がイルにケーキを用意しているから食堂に行けという内容の言葉を投げかける。
それに今度こそ表情を明るくしたイルが元気よく返事をすると、わたしに手を振って部屋を出て行った。
ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえなくなってから伯爵が溜め息混じりに椅子に腰掛け、ブルーグレーの瞳でジロリと睨んでくる。
「セナ、お前、私が聞いていることを知っていただろう?」
勿論気付いていましたとも。
イルと話している途中、足音が聞こえていたのに部屋に入って来なかったから伯爵だとすぐに分かった。
分かっていてイルをああやって諭したのだけれど…
「さぁ?何のことでしょうか?」
あえて惚(とぼ)けたわたしに伯爵は一度目を閉じる。
随分と疲れた様子にもう一度「お疲れ様です」と言えば「…疲れた。もう子守はこりごりだ。」とぼやきが返ってきたので笑ってしまった。
伯爵にもイルにも良い経験だったと思う。これからも一緒に過ごすのなら、少しずつお互いを知っていかないと。
最初は反対していたけれどイルから話を聞いてみたら意外にも問題なさそうだった。
時々は伯爵とイルだけで過ごす日があったって良いかもしれない。
そんなことを考えていると何かを感じ取ったのか、伯爵が嫌そうに眉を顰めた。
「今、何か良からぬ事を考えただろう。」
「いいえ?そんなことありませんよ。」
「…どうだかな。」
相変らず変なところで勘の良い伯爵にひやりとしながら笑みを浮べておく。
フンと不機嫌そうにそっぽうを向く姿が少し子供っぽいと思ったけれど、黙っておこう。
笑っているわたしをチラリと横目に見て、片眉を上げ、諦めたようにこちらを向くとズリ落ちかけていたらしいショールを肩へかけてくれる。
ついでとばかりに額に触れてくる手は少しだけ冷たかった。
もう大丈夫そうだなと言って手が離れていく。
それによく寝ましたからねと返事をして椅子に座り直した伯爵の顔を見る。
「それで、今回の事件の顛末(てんまつ)はどんなものでしたか?」
伯爵は不器用だけど、少し冷たいその手が沢山の事件を解決してきたことをわたしは知っている。
その裏で被害者が出る度に心を痛めていることも、自分の無力さに嘆いていることも気付いている。本人は絶対に否定するから口には出さないが。
わたしの問いかけに伯爵は軽く顎を擦りながら「そうだな…」と今回の事件のあらましを語り出した。
――――…TERZO CASE:Una mano fredda―冷たい手― Fin.