物言いたげなその目に、もう一度腰を落とした。
汚れてしまった口元にハンカチを当ててやる。戸惑っておずおずとハンカチを掴む手にしっかりと握らせ、目線を合わせてクロードはイルフェスに問いかける。
「どうした?怒らないから言ってみろ。」
視線が少しばかり宙を彷徨ってからクロードを見る。
「においが、」
「臭い?」
「うん…きもちわるい、あのヘンなにおい。こわい、…」
「…分かった。それはどこから臭うんだ?」
‘怖い’という単語にピンときたクロードが聞くと無言でイルフェスは脇道を指差した。
下水道の地図と街の地図を頭の中で照らし合わせ、一番近くの出入り口を探す。そう離れていないことを確認してから立ち上がった。
イルフェスも立ち上がる。よろめいたりはしなかったものの嘔吐したことで体力を消耗してしまったのか勢いが無い。
流石にこんな状態のイルフェスを連れ歩く訳にもいかない。
手を引いてやりながら一番近い出入り口へと向かう。出来る限りイルフェスの歩調に合わせるとかなり歩みは遅くなってしまうが仕方がなかった。
暗い中で地上へ上がる階段を見つけ、一段一段気を付けて上がらせ、外へ出る。
まだ人気の少ない道に出た。近くで店開けをしていた初老の男に近寄り声をかけると嫌そうな顔をされた。臭いがするのだろう。
「すまないが暫くの間この子供を預かっていてもらえないか?」
懐から数枚の銀貨を取り出して握らせると男は嫌そうな顔から一転、ニコニコと笑みを浮べ出す。
「えぇ、それくらいでよろしければ幾らでも。」
「ついでに警察も呼んでもらえると助かる。来た者にこれを見せてくれさえすれば分かるはずだ。」
「はい、分かりました。」
手帳の一ページにペンを走らせると、そのページを破り男に手渡した。
それを片手に店内に男が引っ込んだのを見てからイルフェスに声をかける。
横にいたのに何時の間にか座り込んでいた。
「暫くの間、此処にいるように。店主に頼んで水を貰って飲んでおけ?」
「ボクもいく…。」
「駄目だ。」
「でも…!」
「言う事を聞け!聞けないのなら一人で屋敷へ戻れ!!」
尚も言い募ろうとしたイルフェスに珍しくクロードは怒鳴りつけた。いや、イルフェスに怒鳴ったのは初めてだったかもしれない。
ビクリと震える小さな体にハッと我へ返る。
それと同時に店から男が出てきて、警察に連絡した旨を告げてきたので礼を述べて立ち上がった。
俯いたままのイルフェスを頼むとクロードはまた下水道へ入っていく。
狭い階段を下りながら舌打ちを零す。別に怖がらせるつもりはなかった。なかなか言う事を聞かない姿に苛立って思わず怒鳴りつけてしまったのは、どう考えても大人げなかっただろう。
幼い子供を相手にしたことがほとんど無かったから、などというものは言い訳にしかならない。
それを理解しているからこそ自身の不甲斐無さに嫌気がさす。
苛立ちを隠しもせずに階段を下りて元来た道を戻っていく。それからイルフェスが指し示した脇道へ足を踏み入れる。
ランプに照らされる道は少し狭くなっていたが通れないことは無い。
断続的に水の落ちる音が聞こえて来る。通路の奥から響くそれに眉を顰めた。
外に出た時も雨は降っていなかったし、何かに水を使うにしても随分と大量に流しているようだった。街の地図を思い起こしてみても、今いる下水の上近辺に宿泊施設などもない。
違和感を感じつつ進んで行けば汚水の臭いに混じって別の臭いが僅かだが漂ってきた。
それはクロードにとっては何年も嗅いできた、だが何度嗅いでも慣れない、人間が腐ったあの何とも表現し難い気分の悪い匂いである。
周囲を見回す。それから足元を流れる汚水にランプの光を当ててクロードはグッと唇を引き結む。
流れる汚水の中には死体の一部と思(おぼ)しき破片が浮かんでいる。それも幾つも。
未だザァザァと流れ聞こえてくる水音とそれらを目にし、組み上げられた推測にパッと顔を上げた。水音のする方向へ足早に近付いて行く。
薄暗い下水の奥、上から水が落ちてくる。どこかの建物から落ちて来ているのだろう水は水路へ流れ、先に流れていた汚水と共に緩やかに混ざり合う。ランプを翳すと水は錆のような赤茶けた色をしている。
そしてその中にある先ほどと同じ欠片に「…此処か。」と頭上を見上げた。
コートを翻して通路を戻る。きちんと店主の男が警察に連絡をつけたのならば、そろそろあの男もやって来ている頃合いだろう。
迷うことなく道を戻って階段を上がったクロードは片手にあるランプを扉の脇に置いて外へ出た。
「おっ!」
聞こえて来た声に顔を上げると先ほど店開けをしていた店主と共に見慣れた刑事が立っていた。
その後ろには更に数名の警察がいる。
「こんな朝っぱらから呼び出さないでくださいよ、伯爵。俺らを過労死させる気ですかい?」
「それだけ図体が大きければ体力もあるだろう。」
「それとこれとは別ですって。」
肌寒い空気のせいか刑事の鼻頭がやや赤い。近付いて行くと呆れ顔だった表情が歪む。
何も言わなかったが下水の臭いがしたのだろう。クロード自身もそんな刑事を見て眉を顰めた。
「…私も好きで下水にいた訳ではない。」
「でしょうね。少しは俺らの苦労も分かってもらえましたかねぇ?」
「お前達は‘それ’も仕事の内だろう?」
「それを言っちゃあ駄目ですぜ。」
ガリガリと頭を掻く男に溜め息を一つ零す。クロードと刑事のやり取りを聞いていた他の警察達は二人を交互に見て、どうして良いのか分からない様子だった。
店主がイルフェスを伴って出てくる。まだ気まずく思っているようでブラウンの頭は店主の後ろに隠れていた。
刑事にイルフェスの面倒を頼むと一つ頷いて誰かの名前を呼んだ。すぐに返事をした警察の一人が話を聞いていたのかイルフェスと話をし始める。子供が好きなのか人の良さそうな朗らかな笑みを浮べていた。
これなら問題無さそうだと一瞥して刑事に向き直る。
「また被害者が出たぞ。」
「っ、本当ですかい?ならすぐにでも遺体を…」
「いや、死者には申し訳ないが先に犯人確保を優先しよう。」
早くしなければ証拠も消えてしまう。
遺体の回収は時間が経つと大変面倒なことになってしまうが、先に犯人を捕まえるべきだろう。
クロードの言葉に刑事が目を見開いて詰め寄った。
「犯人が判ったんですか!」
「正確に言うと居場所が判った。まぁ、大雑把だがな。私一人では確保出来ないかもしれんから、その辺りは頼んだぞ。」
「お安い御用ですよ、それはこっちの仕事ですしね。」