別段離れるのは構わないけれど、それで迷子になったら手間を食うのはクロードだ。
執事の言葉に力強く頷くブラウンの頭に多少の疑念を覚えつつ声をかける。
「イルフェス。」
名前を呼んだだけだと言うのに満面の笑顔でパッと振り返る。一瞬、犬に見えた気がしないでもない。
いってらっしゃいませ、と見送る執事に屋敷を任せ、馬車に乗り込めばイルフェスは窓から手を振ろうとする始末。
窓から身を乗り出してはいけないことも教えなければならないようだった。
子供の世話など全く以って性に合わないのに困ったものだ。上機嫌に座っている姿に頭が痛くなる。
「良いか、これから私が言う事は絶対に守れ。一つでも破った時はお前だけ即刻屋敷へ帰すからな。」
「はい!」
返事だけは相変らず一人前だ。
隠し切れない好奇心の浮かぶ大きな瞳に呆れそうになる。
「今から行く場所の物には触るな。落ちている物や気になる物があったら私に言うように。…さっきも注意されて分かっているだろうが私から離れるな。知らん人間にも寄るな。」
「ほかの人に近づいちゃだめなの…ですか?」
「あぁ。現場にいるのは大概警察だ、邪魔すると後が煩い。何かあっても面倒だ。」
「わかりましたっ。」
うんうん頷くイルフェスをとりあえず信用しておこう。
要は自分があまり目を離さなければ良い話なのだから。
馬車に揺すられつつ朝からもう疲れ気味になっている自分にクロードは零れそうになった溜め息を呑み込んだ。
屋敷から馬車で十数分の場所にある下水道の出入り口へ着くと御者が声をかけてくる。
それに返事をして、イルフェスがひょいと飛び降りた。そのお転婆な姿に‘子は親に似る’という言葉を思い出し、ついでに階段の手摺をよく滑り降りてくる瀬那の姿が頭に浮かんで思わず額に手を当てる。
最近はそのようなことをしていないが、ただ単に自分が‘見ていない’だけでイルフェスの前でやっているのではないかと考えてしまう。
やっと近侍らしくなってきた。そう思ってもじゃじゃ馬な瀬那のことだ、どうせ自分の目を盗んで色々とやらかしているに違いない。
そのうちイルフェスも飄々とした笑みを浮べて悪戯好きな子供のように人をからかってくるのでは――…。嫌な未来を想像し、すぐにそれを切り捨てた。冗談じゃ無い。
「瀬那の真似をするのも良いが、程々にしてくれ。」
「…?」
一歩後ろを歩くイルフェスへ言えば、不思議そうに首を傾げたまま見上げてくる。
何でもないと視線を外して下水道の入り口である扉を押し開けた。
途端に感じる不快な臭気に口元を手で覆う。イルフェスも鼻をつまむ。
杖と帽子を持って来なかったのは正解だった。こんな臭いが染み付いたら厄介である。
昼間でも暗い階段は地下の下水へ繋がっているので、壁にかけられた小さめのランプを勝手に拝借し、火を灯すと足元に注意しながら滑りやすいそこを下りていく。
一歩一歩下がるごとに臭いは強烈さを増して行く。
なんだってこんなところに死体を捨てるんだか。もっとまともな場所にしてくれ。
最後の一段を下り切ったクロードはゆっくりと周囲を見渡した。暗い下水は天井が低く、クロードの頭もギリギリといった具合だ。「ねずみ!」イルフェスの言葉にやや離れた位置から聞きたくもない鼠の声と足音が響く。
ここ数日は雨も降っていないお陰で下水の量は少ない。
生活用水が流れているのは中央で、左右は人が歩くために段が高くなっている。大雨でも降らない限り、そうそう段まで水は上がって来ないのだけれど、下水で濡れたくはないので少ないに越したことはない。
じっとりと気持ちの悪い湿気が溜まる下水道を進む。
地図は頭の中にしっかり入っているので方向感覚さえ見失わなければ迷わないだろう。
所々の壁に頭上を通っているであろう道の名前などが書かれているのも良い道標となり、クロードとイルフェスは無事第一の死体発見現場に辿り着く。
だいぶ遠くに小さな川へ出る排水口が見える場所だったが、遠目に見ても排水溝は小さなもので、大人が出入りするには無理がある。
一際酷い臭いのする場所でランプを翳(かざ)して周囲の床を照らし出した。
悲惨な死体のわりに現場に血が流れていないからか、特有の生臭さは常の事件よりか少ないが汚水の臭いのキツさはあまり変わらない。
イルフェスは臭いに慣れてきたらしくキョロキョロと照らされる下水道内を見回している。
クロードも汚水の流れる中央部分を覗き見た。濁り、汚れた水の通るそこはとても汚れている。パッと見ただけではゴミと汚水が流れているようにしか感じられない。
…この中に入って調べた警察達には感謝せんとな。
もしこの中へ入れと言われたらクロードは絶対に首を横に振るだろう。
特に事件と関係のありそうな物も見付からなかった二人は更に歩き出す。時折離れそうになるイルフェスの襟首を引っ掴みながらの狭い道のりと臭いに頭が痛くなってきそうだ。
迷路にも似た下水道内は水音と鼠の鳴き声がする程度で、自分達の足音がいやに反響する。
まるで墓場にでも来ているような気分になりつつ足元に気を付けながら歩いていたイルフェスが突然呻いた。
「う…っ」
「イルフェス?」
振り返ってみると二、三歩離れたところに蹲(うずくま)っている。
すぐさま戻り小さな背を軽く撫でてやる。しかしイルフェスの体は微かに震えていた。
「どうした、気分が悪くなったのか?」
こんな臭いの中にずっといたせいかと問うもブラウンの頭が左右に振られる。
何か言おうとしたのか開いた口は、けれど嘔吐(えず)くばかりで苦しげに閉じられてしまう。
その姿にクロードは促すように背を叩き「我慢するな。吐け。」と言った。チラリと見上げてきた瞳が逸らされるとイルフェスは胃の中のものを吐き戻す。
多分朝食分は出し切ったのだろう。もう何も吐けなくなると、小さくしゃくり上げながらも咳き込んだ。
先ほどまでは平然としていたのに何故吐き戻してしまったのかは分からないが地上(うえ)へ戻った方が良さそうだ。
「歩けそうか?」
「だ、ぃじょぶ…です、」
「そうか。とりあえず一度上に――…」
戻るぞ、と立ち上がりかけたクロードのコートをイルフェスが握った。
中途半端な体勢になりながらも見下ろせば大きな瞳が涙まじりに見上げてくる。