翌朝、もぞりと隣りで何かが動く気配にクロードは目を覚ました。
厚いカーテンの隙間から覗く空は薄明るく夜がまだ明けたばかりだと知る。
…眠い。少し気怠い腕を持ち上げて額に当て、肌を撫でるヒンヤリとした空気が睡魔を遠ざけた。
起き上がろうとするものの、くんと引き止められて視線を落とす。自分の片腕を覆うようにくっついている毛布の塊に一度眉を顰める。
それからすぐにクロードは深い溜め息を一つ零した。
毛布を捲れば気持ち良さそうに寝こけているイルフェスがちゃっかり腕を掴んでいる。子供っぽさをまだ残すふっくらした顔立ちは眠っていると殊更実年齢よりも幼い。
「…こら、手を離せ。私が起き上がれんだろう。」
瀬那と一緒に寝れないからと仕方なくベッドに入ることを許したのは良いが、夜泣きやら何やらで何時もより睡眠が遥かに足りない。
二日目になって漸く自分の失敗に気が付いたクロードは、しかし泣くイルフェスを叩き出すほど鬼にもなれず、夜中に何度も目を覚ます羽目になった。
クロードの声に目を覚ましたイルフェスは暫しぼんやりと目の前にいる主人を見つめ、慌てて掴んでいた腕を離す。
「お、おはよーございます…!」
「…お早う。」
仔兎のように跳ね起きたイルフェスの挨拶に返事を返しベッドから出る。
欠伸を噛み殺しながら洗面所へ向かった。ぱたぱたと軽い足音がして、続いて扉の閉まる音がすると部屋は静かになる。
イルフェスは自室へ戻ったらしい。
冷たい水で顔を洗うことで意識がハッキリする。今まで毎晩あんな風にイルフェスの夜泣きに付き合っていたのなら瀬那の睡眠不足も頷ける。
普段から勉強中や馬車の中で偶に転寝(うたたね)をするようなやつだ。尚更昼間は眠かっただろう。
それでも起きてあれこれと動き回っていたのだから過労で熱を出すのも無理はない。
イルフェスに関することを全て任せてしまっていたクロードの失態でもある。自室へ戻り、服を着替えながら二度目の溜め息を吐き出した。
ガチャリと開いた扉の向こうに執事が立っており、おや?という表情を見せる。
「申し訳ございません。既に起きていらっしゃいましたか。」
穏やかな笑みを浮べて扉を閉める年老いた執事にフンと軽く鼻を鳴らし、クロードは鏡を見ながら襟を正すと振り返った。
「セナはどうだ?」
「一度部屋の戸をノックしましたが…まだ休んでいるようです。」
「そうか。起きるまで寝かせておけ。」
「はい。」
心得ているとばかりに執事がより一層笑みを深くする。それが気に入らなかったのか眉を顰めたままクロードは自室を出た。
食堂に向かう途中、走って来るイルフェスを目にして出会い頭にその頭を軽く叩いた。
注意の言葉は口にしなかったけれど叩かれた意味をすぐに理解した様子で片手で頭を押さえたままイルフェスが謝罪を口にする。
子供と大人は歩幅が違う。何時もよりほんの少しだがゆっくりと歩くクロードの一歩後ろを小さな足音がついて来る。
食堂に着くと侍女達が動き出して朝食の支度をし始めた。
瀬那はいないものの、普段と変わらぬ位置に二人して腰掛ける。イルフェスの目は己の仕事を忠実にこなす侍女達を忙しく追いかけていた。
侍女の一人が紅茶を置く。柔らかな香りを楽しみながらクロードはそれに口をつける。
「子供(イル)にコーヒーや紅茶などの濃いものは必要以上与えないでください。」と瀬那が常日頃から頼んでいるからか、少し離れた場所では温かいミルクの湯気が漂う。
子供用にほんの僅かに砂糖が入れられたホットミルクのカップを嬉しそうにイルフェスが両手で支えながら飲む。
「旦那様、此方をどうぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
執事が持ってきた新聞を片手に紅茶のカップを傾ける。
本来紅茶とはソーサーを持ちつつ飲むものではあるが、自身の屋敷の中くらい構わんだろうと貴族らしくない行儀の悪さでやや滲む読み難い紙面に目を落とした。
下水道で見付かった細切れ死体の事件は既に新聞記者に伝わっているらしく、目の前にある紙面にはその記事が書かれている。
一般市民の恐怖を煽るような文章に自然とクロードは片眉が上がる。
このような文章を載せては犯人を付け上がらせるだけだろう、と呆れながらも最後まで目を通してから新聞を食卓の端に置き、朝食へ手をつけた。
イルフェスは既に食べ初めていた。成長期だからか朝から沢山食べる姿を横目に軽食を胃に納めていく。
「今日はお前もついて来い。」
「! はいっ!」
先に食べ終えたイルフェスに一言伝えればやる気のある返事が返ってくる。
これから行く場所がどんなところなのか本当に理解しているのか?
そんな疑問を持ちつつ、だがあえて問うことはせずに手元のナイフとフォークを動かすことにクロードは集中した。軽くナイフを振ってイルフェスの身支度を執事に任せる。
言葉にしなくともきちんと意味を解した執事が好々爺の笑みでイルフェスを食堂から連れ出した。
静寂に包まれた食堂で一人、何となく落ち着かない気分になる。この一年は瀬那と食卓を共にしていたせいか斜向かいに人が座っていないことに違和感を感じてしまう。
人間というものはつくづく不思議なもので、それまでなかったものが突然飛び込んで来るとなかなか慣れない癖に、慣れてしまうと今度はそれがなくなった時に落ち着かなくなる。
口元を拭いながら自己分析をして、クロードは苦虫を噛み潰したような顔をした。
何をくだらないことを考えているんだと内心で己を叱咤して椅子から立ち上がる。
執事から言われていたのか食堂を出てすぐの廊下で侍女からコートを手渡され、有り難くそれを着込み玄関ホールへ足を向けた。日が出てもツェーダの街は年中寒い。
ホールには既に外出用の上着を着たイルフェスが待っている。
隣りには執事がおり、主人である自分から離れないようにと念を押していた。