ピクリと涙で濡れた手が動いた。
それをハンカチで拭ってやると布地に薄っすら紅(あか)が付く。握り締め過ぎて手の平に爪が食い込み、そこから血が滲んでいた。
俯いたまま背けられていた顔が此方を向き、合わさることのなかった視線が交わる。
「…知って、どうすんの…。」
「出来ればお前を助けたい。そうして、時には私も助けて欲しい。」
「……アンタを助ける…?」
訳が分からないと眉を顰める瀬那の目を、真っ直ぐに見つめ返す。
逸らしたらもう二度と、自分の言葉は届かなくなるのだろう確信があった。
「そうだ。…他人が思っている程、私は強くも賢くも無い。お前から見て私が間違っていると思ったならば、指摘する。ただそれだけで良い。私が知らない事を教えてくれ。代わりにお前の知らない事は私が自ら教えよう……君を拾ったのは他でもない私なのだから。」
主人と使用人という関係だけでは恐らく瀬那を理解することは出来ない。
それなら主従でありながらも対等な関係を築き、互いを理解し合えば良いのだ。
瞬いた黒い瞳から、またポタポタと涙が溢れ出す。
私の立場上、使用人に‘対等な関係でいよう’とハッキリ口にすることは出来ない。それは伯爵という地位故に冗談であっても口に出すことは許されない。
それでも遠回しな言葉の意味を理解してくれたのか、瀬那は泣きながら「…恥かしいヤツ。」と笑った。
「伯爵なのに、こんな…わたしみたいに自分勝手な跳ねっ返りに膝付いて、馬鹿だよアンタは。」
涙声でそう言った瀬那にクロードも口角を上げて笑い返す。
「お前のじゃじゃ馬具合はとっくに理解しているさ。それに、これまでの言動は‘伯爵’のものではなく‘私一個人’のものだから構わん。」
「…そういうの、屁理屈って言うんだけど。」
「知っている。」
今度こそ私の言葉に小さく声を上げて瀬那は笑った。
歳相応の、何の嫌味も邪気もない笑顔にホッとして立ち上がる。
その日こそが本当の意味で瀬那と出会った日なのだと、クロードは思った。
それから瀬那は自分が調べ上げた事を全て話し、警察もその情報を考慮しながら捜査を行った。数日後、真犯人を突き止めて捕まえることに成功した。
それと同時に少しずつ瀬那は自分のことを話すようになった。
出身や育った場所などは口にしなかったものの、考えていることや思ったこと、自分の持つ知識などを話すようになり事件に貢献してくれるようにもなった。
全く知らなかった知識を話している時の瀬那はどこか楽しげで、クロード自身も新しい物事を知ることがとても面白く、驚くほど知識を持つ瀬那に感心もした。
そして何だかんだ言いつつ今では良き従者として、良き相棒として傍らにいてくれる。
「…信じてもらえずとも良いと思っていたが、」
今は信用し、信頼されていることを嬉しく思う。
信じてもらえないのに、信じられる訳がない。全く以ってその通りだった。
一年という月日でクロードと瀬那の関係は目まぐるしく変わった。
クロードは瀬那の前で面倒だ何だとぼやいたり世話を焼くようになり、瀬那はクロードに意見したり弄って遊んだりするくらい、気を許し合える仲になっている。
例え何が起きたとしても、もう一年前のような関係など考えられなかった。
「伯爵、ご到着致しました。」
かけられた声に返事をし、開けられた扉から馬車の外に出る。
出会ったあの頃に近付く肌寒さに何となくふっと笑みが零れ落ちた。
御者に待っているよう言付けて安置所へ入る。嗅ぎ慣れた、けれど嫌な匂いに気を引き締めてクロードは受付に向かった。
伯爵が出掛けてから一眠りして、目を覚ますと昼を少し過ぎた辺りだった。
サイドテーブルに置かれた水差しから中身をグラスに注ぎ、乾いた喉を潤す。
また懐かしい夢を見た。まだ伯爵の近侍(ヴァレット)になる前の記憶だった。
どうやら思っていたよりもわたしの体は疲れていたらしい。眠ったというのに、まだ怠(だる)さの残る体に苦笑してしまう。
さてはて伯爵はもう帰って来たのか、それともまだ安置所にいるのか。
きっと帰りの馬車の中で服の襟の臭いを嗅いで「また臭いが移ったか…」とかって、絶対ぼやくだろうなぁ。そう思うと可笑しくて笑いが込み上げてきた。
こんな風に今では相手の考えていることや行動が何となく分かるようになったけど、出会った当初はむしろギスギスした嫌な関係だった。
この世界で初めて泣いたあの日、伯爵が言ってくれた言葉が嬉しかった。
主従関係を壊すことは出来ないがお互いを理解し、出来る限り対等でいよう。そう言われたも同然だった。
……思い返してみると、かなり恥かしい事を言われたもんだ。
言った本人は全く照れていなかったのが少し悔しいが、あの言葉のお陰でわたしは伯爵を信じてみようと思い直すことが出来たんだし。
一度は‘もう絶対誰も信じない’と思ったのに。‘伯爵’という立場ではなく、クロードという‘一個人’として言ってくれたからこそ信じる気になったのかもしれない。
過程はどうであれ今は冗談を言い合えるくらいには良い関係を築けていると思う。
ちょっと過保護というか、アンタはわたしの父親か!と思う時もあるけど、結局それも心配してくれているからこその態度と言葉だから鬱陶しさはない。
元の世界に帰れるのなら、やっぱり帰るべきだと思う。
だけど帰れると聞いたとしてもすぐに帰りたいと言えないくらいには、今の生活が好きだと思う自分もいる。勿論、元の世界でわたしが死んだことになっていなければ、の話だけど。
かなり大きな事故になりそうだったから死んでる確率も高いし、別の世界ででも生きているだけ運が良かったんだ。
この世界でも楽しいことや嬉しいことはある。全く違う人生を歩むことになっても、わたしを信じ、必要としてくれる人がいる限り前を向いて歩いていかなければいけないんだ。
元の世界に残した家族にも、そうじゃなきゃ死んだ後に顔向けが出来ない。
「まぁ、目下の目標は一日も早く元気になって伯爵の手伝いをすること…かな?」
正式に近侍になってから伯爵のことを‘クロード’と呼ぶことはほとんどなくなったけど、たまには呼んでみようかな。
怒られるか、それとも驚かれるか。両方だったら面白そうだな。
なんて考えるわたしはきっと、とても意地の悪い笑みを浮べているに違いない。