翌日、イルフェスが変な臭いがすると言っていた橋の周辺の下水を捜索した警察から、切り刻まれた身元不明の遺体が新たに発見されたと連絡が届いた。
ついでに一晩かけて被害者の手の指を集めて数えたところ四十三あったらしい。
人間は両手で指が十ある。そのまま考えれば五人…しかし新たに遺体が見付かった場所を含めて発見現場が六ヶ所であることを思えば五人というのは少々考えづらい。
地図を見る限りでは場所に共通点は見出せない。橋の下であったり、川への排水溝付近であったり、かと思えば街の中心部付近であったりなどという始末だ。
いくら何でも手がかりが無さ過ぎる。
一部の望みをかけてみるか、とソファーから立ち上がれば反対側で読み書きの練習をしていたイルフェスがパッと顔を上げた。その目は‘どこかに行くの?ぼくもついて行く!’と言わんばかりに輝いている。
「今日は私一人で十分だ。お前は勉学に励め。」
「でも…!」
「駄目だ。今日は大人しくしていろ。」
何せ今から向かうのは遺体安置所なのだ。
イルフェスに手伝いをさせる件について、瀬那と話し合った中で決めた幾つかの約束の一つに‘イルフェスには死体を見せない’というものがある。
他にも危険な事をさせない、一人で行動させないなど多々ある。
どちらにせよ今日は連れて行ってしまうと‘イルフェスに死体を見せない’という約束に反してしまうので、留守番をさせるしかなかった。
不満げに返事をするイルフェスの頭を一度撫でてクロードはコート片手に自室を出る。
そのまま玄関へ向かおうとして瀬那には一応伝えておくべきかと方向を変え、途中擦れ違った使用人の一人に玄関へ馬車を用意するように言いっておいた。
廊下を抜けて瀬那の部屋の扉をノックする。すぐに中から入室の許可を告げる声が聞こえてきてドアノブを回した。
「お出掛けですか、伯爵。」
片手に持つコートで察したのか開口一番に瀬那が問うてくる。
「あぁ、被害者の検分に安置所まで足を運んで来る。イルフェスは留守番だ。」
「分かりました。わたしの分までしっかり検分して来てください。」
しっかり、の部分で妙に強調された言葉にクロードは思わず眉を顰め「分かっている。」と呆れ気味に返事をした。
バラバラになった遺体の検分ほど嫌なものは無い。
人の形をしているだけでも気味が悪いというのに、原型を留めていないものなど出来る限り見たくない。自然と吐き出された溜め息は自身が思っていたよりも重たいものだった。
「お前もきちんと骨休めをしておけ。間違っても仕事をしようなどとは思うなよ。」
「分かっています。それでは行ってらっしゃいませ。」
「あぁ、行って来る。」
笑う瀬那に見送られて部屋を出る。釘を刺しておいたが守るかどうかも怪しいものだ。
とりあえず本人の言葉を信用してクロードは玄関へ向かう。
少々行儀が悪いが歩きながらコートを羽織り肌寒い外へと足を踏み出す。玄関から馬車まではほんの数歩の距離だが、吹き抜ける風に体温を少し奪われて思わず身震いしてしまいそうになった。
クロードが馬車へ乗り込めば、すぐに扉が閉められ、やや間を置いてから馬車がゆっくりと走り出した。
ガラガラと鳴る車輪に合わせて伝わる揺れを感じつつカーテンの隙間から覗く外を何とはなしに見やる。
瀬那が倒れ、そういう時に限って厄介そうな事件が舞い込むという喜ばしさの欠片も無い状況に、また溜め息を零してしまいそうになった。溜め息を吐くのが癖になってしまいそうだなと思い、そんな癖は流石に嫌だと喉元まで上がっていた溜め息を飲み込む。
安置所まではまだ時間が大分かかる。話し相手もいない馬車の中ほどつまらないものは無い。
意味もなく車窓を眺めながらふと頭に思い浮かんだのは一年前の瀬那だった。
今でこそ丁寧な口調と落ち着いた様子を見せているものの、一年前はそれはそれは手に負えないじゃじゃ馬娘で、周囲に噛み付いたり歩み寄られてもすぐに逃げたりとクロードだけでなく屋敷で働く者は皆苦労した。
ただ気が強いだけならばマシだが瀬那は行動力も観察眼も優れている。
そのせいで警察署から帰って来た翌日から何度も屋敷を脱走し、言い合いをしたかは数え切れない。
瀬那に帰る宛てが無い事は知っていたので何処かへ行ってしまっても戻って来るだろうとは分かってはいても、何の許可も取らずに何度も忽然と姿を消されては怪我をしたり汚れたりして帰って来るのだから苛立っても仕方が無いように思う。
二階のバルコニーから壁を伝って逃げる、一階の窓から逃げる、使用人になり済まして逃げる。
一体どこからそんな悪知恵が出てくるのか呆れてしまうくらい瀬那は屋敷からよく脱走していた。
それこそ手綱の無い馬の如くそこいらを駆け回り、そのくせクロードや使用人が声をかけると硬い表情で口を閉ざしてしまう。戻って来た瀬那を私室に呼んで叱り付けてみても一向に態度は変わらない。
そんなことを繰り返して、五回目以降は諦めて瀬名を放っておくことにした。
あの時は瀬那を手のかかる子供という認識しかなかった。
何を思い、何を考えているのか想像することもなかった。
だからこそ瀬那が屋敷を抜け出すようになってから一月たったある日、突然屋敷を訪ねて来た警察の言葉に耳を疑ったのだ。
‘伯爵の下で働いている使用人の子供が殺人現場で保護された’
伝えられた内容にヒヤリと冷たいものが背筋を伝う。どこかに出掛けている事は知っていたが、まさか危険な事に首を突っ込んでいるとは露ほども思っていなかった。
すぐに迎えに行ってみれば警察署の一室で椅子に座ったまま、ぼんやりと己の手を見つめる瀬那が、数人の警察達によってあれこれと世話を焼かれていた。
黒を基調とした服は普段よりも黒々とし、手や顔に飛び散った血を拭う事もせずに暗い瞳でただただ唇を噛み締める。女性警官が代わりに濡れた布で血を拭っていたが夥(おびただ)しい量の血液のせいで布はすぐに使い物にならなくなった。
「……お前は一体何をしていたんだ。」
濃い鉄の匂いを纏わせた瀬那に問いかける。黒い瞳がゆっくりと此方を見た。
まるで闇の深淵を覗き込んでいるかのように仄暗いそれに一瞬気圧される。
噛み締められていた唇が酷く緩慢そうな動作で開く。
「――…なんで、誰も気付かないんだよ…」